【第2部・第2章】bV
 
 由布子は驚いて彼を見た。愛人に子供が三人? それでは妻の立場がないではないか。いやまてよ? 例のあの女は、父親の愛人だと拓は言った。ということはその子たちの母親なのだろうか。それにしても『上に三人』というのはおかしい。彼の母は後妻だとでも? 混乱した頭で由布子は、ただじっと拓を見つめた。彼も顔を上げた。ためらいの影が一瞬よぎった。彼は、ぼそりと言った。
「三人とも、正妻の子。…俺のおふくろも、親父の愛人。」
 由布子は缶を落としかけた。ガツンと頭を殴られたようだった。
「だから俺は… いつか由布子、似てるのかもって言ってたけどさ、似てるどころか…正反対? だよな。」
 軽く、拓は笑った。まさに彼の言う通りであった。由布子と母親を放って、別の女とその娘のもとへ走った父親。幼かった由布子は、会ったこともないその子供を呪った。父親を自分から横取りした悪者。母を悲しませ苦しめた愛人。おぞましくて汚らわしい、めかけとそれから、めかけの子…。
「こういう話、すっとさ。」
 拓は複雑な微笑を彼女に向けた。
「けっこう同情されんだよな。特に女の子には。ドラマとか小説だとありがちな設定だけど、案外、現実に知ってる奴って少ないと思うよ。まぁ、てめぇであんまりべらべら言いふらすことでもねぇじゃん。だけどちょっと話したりすると、『可哀相…』なんて泣かれたりして。でも、別にそんな、特別変わったことがあるわけでもないんだぜ? 単に、夜になったからって親父が帰って来るわけじゃない、要はそれだけだもんな。金は親父がよこすから、おふくろ別に働いてなかったし。なんか、全然普通。」
 彼は、誰か他人の話でもするように物語を続けた。だが、それが作り事のドラマの話でないことはよくわかった。語りながら時々遠い目になる、拓の眼差しは透明だった。長い時間をかけて濾過(ろか)された水の、澄みきって冷たい、あの悲しさであった。
「父親参観日とかあってもさ、父親来ないうちって多いじゃん。運動会だってそうだよな。だからあんまり、そういうので寂しかった記憶はないけど、…ただ、参るのはガキの頃。幼稚園とかでさ、父の日が近づくとお絵かきの時間に、お父さんの絵を描きなさいって言われんだよな。俺さ、知んねえもん親父の顔なんて。会ったことはあるけど年に何回かだろ。描けって言われて描けるかっての。またそん時の先生が若い姉ちゃんでさ、普通自分のクラスにそういう子がいたら、『描けない人はお母さんの絵でもいいですよ』とか、気遣えっていうんだよな。しょうがねぇから適当に描いたけど、したらさ、ガキって残酷じゃん。『なんだこれ、サザエさんの波平じゃねえー!』とか言いやがるんだよな。またその先生が『あら本当だ』とか言って笑うんだぜ。信じらんねえだろ。世の中、不条理ってもんがあるんだって、俺、多分あんとき悟ったね。わずか五ちゃいにして。末恐ろしいよな。」
 ククッ、と笑う彼の、両の瞳は悲しいほど美しかった。由布子は胸をつかれた。彼女の心の奥底の、固く閉ざされた扉が開いて、生まれたての雛鳥の赤剥けの肌に似た、薄く敏感な部分がしめつけられていた。子供とは決して、純真無垢の単純な生き物ではない。自分の回りに吹く風を感じ取る能力は、大人が思う以上に鋭敏である。産み落とされた瞬間から、命は戦わなければならない。親とは別の意志を持った、独立した一個の存在として。
「死んじゃった人間の悪口は言いたくないけど、おふくろが俺を産んだのって、はっきり言って保身のためだと思うんだ。子供出来っと、男は逃げきんねぇもんな。俺がいたからおふくろは金には困んなかったはずだし、しかも俺が男だったんで、正妻も一目おかざるをえなかった。上の三人て全部女ばっかだから。なんか俺が生まれてすぐに、正妻と親父、俺のことあっちに入籍しようとしたらしいんだけど、おふくろがきかなかったんだって。そらそうだよな。切り札渡しちまったらおしまいだろ。もう、さ。人間として最高の利己主義だと思わねぇ? 子供の将来とかよりも自分の生活優先さすんだから。…で、何だかんだあったけど、おふくろが死ぬと親父はすぐ、俺引き取ったってわけ。まぁそん時は俺、もう十七になってたけどね。でもこの腹違いの女三人、とんでもねえ小姑。俺が嫁だったらいびり殺されてたね。冗談じゃねぇと思って、高校出っとすぐアパート借りて、一人暮らし。」
 拓はそこで言葉を切り、ビールで唇を休め、
「幾つになってもさ、子供の頃のことって消えないよな。いい年して、いいかげんどうでもいいじゃんと思うけど、やっぱ、そう簡単にはご破産にできねぇじゃん。現実だかんな。CMも入んないし。ナレーターに進めといてもらうわけにいかねぇし。」
「そうね…。」
 由布子は缶をテーブルに置いた。何か流しこまれるのを、胃が拒否していた。拓は彼女を見て笑った。
「何だよ、うわばみのくせに珍しいじゃん、飲まないなんて。」
 窓の外に、由布子は視線を投げた。拓の目を見るのが辛かった。一体自分は、彼の何を理解していたというのだろう。RVの中で喧嘩したあの夜、『愛人』の一言を聞くや否や、拓が本当は何を言いたかったのかを省みもせず、自分の話をし始めてしまった。まるで理解者を見つけたかのように高揚して自己満足して、似てるのかしらねなどとふざけた暴言を吐いてしまった。雪柳の雪見酒。彼はあのとき自分の悲しみを殺して、私に合わせてくれたのだろうか。
「やめろよ、そういう顔すんの。」
 笑いを含んで拓は言った。こみあげかけた涙を、由布子はあわててねじ伏せた。ひとりよがりに同情される虚しさを、彼はいま語ったばかりだ。
「…ねぇ? なんだかあたしたちって…。」
 由布子は無理矢理笑って、ビールを取り上げた。
「こうやってサシで話するとき、いつもお酒飲んでると思わない? こないだの日比谷公園もそう。渋谷でだってそうよね。大食いの大酒飲みじゃ、処置なしよね、あたしも。」
「言えてんな、それ。」
 拓の同意に由布子は、
「なぁに?『言えてんな』って何に対してよ。大食いの大酒飲みってこと?」
「うん、それ賛成。処置なしってのも、当たってると思って。」
「ひっど…。そこまで言うかな普通…。」
「だって自分で言ったんじゃん、いま。」
 嬉しそうに、彼は笑った。由布子はビールをゆっくり飲んだ。拓は手元に視線を落とした。深く頬にかかる髪をそのままに、独り言めいた小声で彼は言った。
「俺…さ。初めて由布子に会った時。あの、新橋の店の裏口で。」
 レストランを改築した時だ。くしゃみの音に驚いて段ボールの向こうを見ると、アジアンタムで顔を隠していた彼は、決まり悪そうにそろそろと両目をのぞけたのだった。甘やかな翳りをおびた、この黒い瞳を。
「あん時、俺…へんな言い方だけど、感動したんだよね。」
「感動って…どうして?」
 別れた男への未練で泣きじゃくっていた姿の、いったいどこにと思ったが、
「由布子さ、あのおっさんと自分から別れてたじゃん。恋愛の自由とか何とか言ったって、しょせんは由布子、愛人やってたんだろ? だけど、それをきっちり自分で精算してた。一瞬は痛いかも知んないけど、思い切って、自分のために、何が正しいかを選んでさ。すげえ嬉しかったんだよな、俺。女房子供いる男に寄生虫みたいにべったりおぶさんなくても、自分の足で立てるだけの、なんつうかな、きっぱりしたやつ? ごまかさずに、けじめつけて、ちゃんと生きてるって感じで…。俺、すごく、いいと思うそういうの。」
「そんな…。」
 彼女は夢中で首を振った。
「そんな、きっぱりなんてしてないあたし。けじめつけてきっちりなんて…そんなに立派じゃないよ。あっちこっちうろうろ迷って、くよくよして、だらしなくて…。」
 大塚のことは忘れたつもりだったのに、あの霧雨の夜、すんでのところで体をひらきかけた。崩れる寸前に拓の声を聞かなければ、あるいは馬鹿なことをしていたかも知れない。彼女の卑下を、だが拓は否定した。
「そりゃ当然じゃん。そんな、定規で線引いたみたいに絶対迷うなってのは無理だよ。いじいじ、べそべそ、人間誰だってそうだろ。だけどさ、由布子…久さんの店とか陽介の就職とか、一文の得にもならないのに、寝る時間削ってまでやってくれたよな。そうやって人のために一生懸命になれるのって、由布子の一番いいとこだよ。お人よしっていうか、処置なしの馬鹿っていうか。」
 由布子はまた首を振った。違う。私はそんなに優しくない。あなたの気をひきたかっただけ。あなたのそばにいたかっただけだ。低俗な下心に突き動かされていた私を、あなたはいい奴だと言ってくれるのか。
「一生懸命だなんて…」
 執拗に上昇してくる涙を止めようと、由布子は話を拓に向けた。
「そんなの、あなたの方が一生懸命だったじゃない。今でもナヴィール、手伝ってるんでしょ?」
「いや、俺はやって当然。だって久さん、俺の恩人だもん。」
「恩人なの?」
「うん。陽介にとってもそうだけど、俺の方がもっと助けてもらったよな。大学やめたあと一年くらいは、けっこうワル気取ってさ…。陽介にしたって普通中学とかでグレんのに、俺、二十歳(はたち)になってやってんの。馬鹿みてぇな。新宿の店で久さんに叩きのめされてなきゃ、多分今ごろ、どっかの組員だったね。前に言ったっけ、久さんめちゃくちゃケンカ強いって。」
「うん、それは聞いたけど。」
「あん時も喧嘩になってさ。こうやって久さんに手ねじあげられて、『何すんだよ!』とか抵抗しようとしたら、…ボキッ。一発で肘の関節、はずされた。」
「うわ、痛そ…」
「いてぇなんてもんじゃねえよ。手がこんなんなって、逆っかわに曲がってんだぜ? 俺、床転げまわっちまって、チョーみっともねぇの。」
「そんなにすごいんだ高杉さんて…。」
「すげえよ。ハンパじゃねぇから。久さんから見たら俺のしてることなんか、ガキのお遊びだったんだろうな。所詮ワルにもなりきれないって、久さんに思い知らされたようなもん。情けねぇよな、俺。おふくろのこと、利己主義だの打算だのって、結局俺のしてることも打算じゃん。そんなにおふくろのしてることがムカつくなら、家出でも何でもすりゃいいのに、…信じらんねぇだろ、俺、高校までは優等生くんだぜ。先生に気に入られて可愛がられて、成績はトップの理想的な生徒。そうやってりゃ敵はいないって、わかってやってんだから打算だよな。卑怯者。今だって、大して変わっちゃいねぇし…。何なんだろな、俺って。」
 今度は拓が窓の外を見た。無防備で虚無的な表情であった。
「打算だなんて、違うよ拓。絶対に違う。」
 彼女は言い切った。それだけは私にもわかると思った。彼の真情こそ早合点したけれど、その一点に限っては間違っていない自信があった。打算ではない。卑怯ではない。この世間を生きぬく知恵を彼は、早くから身につけざるを得なかっただけだ。父親という絶対的な柱…赤の他人と戦ってまで自分を守ってくれる力強い手は、彼の回りに存在しなかったのである。であれば他人に逆らうことはできない。むやみな自己顕示は命取りだ。そのときどきにその場その場で、どうふるまうことが自分を守るか。二つの瞳をじっと見開き、幼い拓は考えていたのだ。深く澄んだ聡明な眼差しが、悲しく研ぎすまされていく…。由布子の耳には、いつかの高杉の言葉が甦ってきた。
『あいつはけっこういろんな想い、くぐってきてると思いますからね。さもなきゃあの若さで、あそこまで人の気持ちは読めないでしょう。泣いたことのない人間に、他人の心なんてわかりゃしません。何年生きてたってね、人の痛みは自然にわかるもんじゃなし。』
 ああ、そうだ、これだったのだ。人の心に泣いたことのある人間は、人の心に敏感になる。傲慢で放埒なふるまいを世に許される若さでありながら、切ないほどに細やかな、優しさを持つこのひとは…。
「…な。由布子のお母さんてどんな人? 病気で亡くなったんだっけ。」
 拓は尋ねた。彼が由布子に過去を聞くのは初めてだった。彼女は記憶の中の母を思い起こしながら答えた。
「そうねぇ…。苦労性でね、いつも眉間にシワ寄せてるタイプだった。ほら、言うじゃない? グラスに半分水が入ってる時に、『もうこれしか』と見るか『まだこんなに』と見るか。あれで言えば絶対に、『ああ、もうこれしかない!』って言うタイプね。あんまり、可愛くはない女なんじゃないかな、今にして思うとね。」
「へぇ。俺のおふくろは逆だったな。底の方にほんの少ししかなくても、『なあにこれだけあれば何とかなる』って言うタイプ? 俺のさ、いい加減なくせに気が強い性格は、おふくろ譲りかも知んない。」
「ふうん。でもあなたのお母さまなら、綺麗な方でしょうね。」
「綺麗…かどうかわかんないけど、俺とは似てないよ。おふくろに言わすと俺って親父と同じ顔してるらしい。あっちはもうじじいだけどな。」
「そうなんだ…。」
 うなずきながら由布子は、胸の中に湧き起こる確信を知った。確信、とは言いかえれば、女にしかわからないはずの本能の揺らぎめいたものだった。拓の母は、父親に生き写しの彼のことを、いかばかり深く愛したのであろう。ひとりの男と自分とが確かに愛しあった形見として、拓は彼女の宝だったに違いない。その彼を一人残してこの世を去らねばならなかった彼女に、由布子は心から合掌した。不思議なものだと由布子は思った。あんなに憎み軽蔑した『愛人』である彼女の想いが、今はまるで我がことのように、ひしひしと身に沿って感じられる。
「お母さまはきっと、本当にあなたが大切だったのよ。打算だなんて、そんなこと言うもんじゃないわ。」
 由布子は言ったが、拓はフンと鼻を鳴らした。
「たいていそう言うのな。固定観念かも知んないけどさ。『お母さまはどんなにご苦労なさったか』とか? だから、苦労なんかしてねぇって。言ったじゃん保身のためだって。それならそれでちゃんと綿密な人生設計たてりゃいいのに、それもしなかったんだぜ? 年に何回か親父が金置いてくじゃん。そしたら普通は、まず銀行に入れて、生活費としてどう使うか、考えそうなもんだろ? それをさ、とにかく浪費することに頭悩ますような、そういう女だったんだから。
…ただその金の使い道がね、宝石買うとか毛皮買うとか、海外旅行とかしそうなもんなのに、おふくろってちょっと変わってて、俺引っぱって、劇場とかコンサート行っちゃうんだよね。歌舞伎に能に、ベルフィル、ウィーンフィル、レニングラード。そういうののS席って、五万とか平気ですんじゃん。そんなんバンバン行っちゃうの。行く前には子供服の専門店で、上から下まで俺の洋服買っちまうからね。十歳にもなんねぇ野郎のガキに、お誂(あつら)えのカシミアのコートだぜ? ばかじゃねぇ?って俺思ってた。コンサートが終わるとホテルのレストランで食事して。
あとは、なんか知んないんだけど陶器が好きでさ、茶わんとか、湯呑みとか、それに絵皿と花瓶? そういうすげぇの買ってくんだ。二個セットで三十万の茶わんに、五十万の漆のお椀。そんなのでうち、メシ食ってたからね。展示会とか必ず行って、即売会で、重要文化財の模写で百万の茶器なんかがあると買ってきちまうの。全く何様のつもりだか。
親父のよこす金そうやって使っちまうから、月末困ることもあって、俺、やだったなー、絹のシャツ着て職員室行って、給食費遅れますって担任に言うの…。非常識だよな全く。なんもわかってねぇんだよ、多分。」
 ぐっ、と拓はビールをあおった。同感はできなかったが、由布子は黙った。自分の考えは全て想像であり、拓が味わったはずの痛みは実際にはわからない。父親の絵が描けずに友達に笑われた、そんな経験をしたことのない由布子が、何を偉そうに説教できるというのだろう。
「失礼いたします。」
 その時、部屋の襖が開いた。女中が三つ指をついてこちらを見た。
「大変遅くなりまして申し訳ございません。お布団敷かせて頂きます。」
 女中は押し入れをあけて、慣れた手順で床(とこ)を延べ始めた。
「なにせ今日明日が一番忙しいものですから、私どもも手が回りませんで、普段ならお食事お下げしてすぐ、敷きに参りますんですが…。」
 言いながら彼女は作業をした。息詰まる思いで由布子は見守った。陽介を加えた五人の時には、一つのグループの様相を呈していた彼らだったが、四人になると不思議なことに、カップル二組のイメージが強くなる。女中は多分、この部屋に拓と由布子が泊まるものだと思いこんでいる。それが自然な組み合わせだ。ぴたりと並べられた二つの夜具に由布子は、まるでこのまま拓と同じ茵(しとね)に伏せるかのような、危険な錯覚にとらわれた。しかし、
「外、行ってみようか。久さんたち当分戻ってこないだろ。川べりの夕涼みなんて粋じゃん。行こう。」
 女中が下がるのを待って拓は言い、空になった缶をテーブルに置いた。ことんと軽い音がした。浴衣の上に羽織だけ着て、二人は外に出た。
 昼間よりも水音は大きかった。上流は谷間の暗闇に消えているが、下流には華やかなネオンがさざめいており、それらのきらめきを摺上川は、水面に映しこんで流れていた。
「このへんてさ、福島とか郡山とかの会社が、忘年会に新年会、歓送迎会なんかやりに来るんだろうね。」
 カラコロと下駄を鳴らして二人はそぞろ歩いた。風は強くはなかったが、それでも川のそばだけあって、時おり裾をはためかせた。
「そういえば俺…日本旅館て泊まるの久しぶりだわ。」
 土産物屋で、ふところ手をして拓は言った。
「いつも大抵ホテルだもんな。じゃなきゃ民宿。けっこう好きなんだよな。そこんちの家族と一緒にテレビ観たりして、『何だよこれ、東京じゃ先週やってた番組だぞ』なんて言ってね、そういうの楽しいじゃん。」
 拓の目はしきりに、民芸風の小物に注がれていた。誰への土産にするつもりなのだろうと、由布子はつまらない詮索心を抱いた。ここで気楽に聞いてしまえないのが、梶山曰く『秘密主義の菅原ちゃん』の臆病さであろう。それを知ってか知らずか拓は言った。
「葛生先生にさ、趣味のいいやつ何かと思ってるんだけど…由布子だったらどんなの選ぶ?」
「ああ…先生にね。」
「うん。ほら、あのすげぇ船もらってんじゃん。でも久さんの選ぶ土産は、どうせ温泉饅頭に毛のはえたようなもんだろ。」
「そうかもね。」
 あれこれ迷いつつ品物を選ぶ二人は、はた目には恋人同士であったろう。最終的に葛生への品は、木彫りのミニチュアの茶道具に決め、由布子もいくつか同僚への土産を買って、袋を下げ、店を出た。
「プロジェクトの方はどう。なんとかいけそうなの?」
 拓に尋ねられ、由布子の頭に日常感覚が戻った。そうか、明日は帰るんだと彼女は思った。
「うん。休み明けにね、正式な顔合わせがあるの。」
「ふうん。じゃあまた忙しくなるんだ。」
「そうね。でも、やりがいあるし。」
「そうだな。せっかくもらったチャンスなんだから、きっちりやんないとな。プロジェクトに選ばれなかった奴らへのさ、それが誠意ってもんだよ。」
「うん。きっちり頑張ってみる。」
「俺も最近、少しずつ建築の勉強始めてるんだ。葛生先生のスクールとかけもちで、どっか専門学校行こうと思って。でもバイトもあるしな。ナヴィールだってたまには手伝ってやんないと。もう一人バイト採るって久さん言ってたけどね。それくらいの儲けはギリギリ出てるみたいだよ。」
「そう、よかった。香川くん一人じゃホールは大変よ。ドリンクやらなきゃならないんだもん。」
「そうなんだよな。俺も、手伝える間は手伝うけどさ。」
「無理しないでよ。フラワーセンターのバイトにスクール二つ、それにナヴィールじゃ、二足の草鞋どころじゃないじゃない。」
「由布子こそ夜中まで仕事して、ガクッといくなよな。人間、体が資本なんだから。」
「そうよね。健康第一。あなたもよ。」
 穏やかな会話をしながら、二人は宿への道を歩いた。楽しい日々だった。輝くようなバカンスだった。またいつかこんなふうに過ごせる時が来るのだろうか。誰よりも大切な、愛しいこのひとと…。見上げる位置の横顔の向こうで、由布子の夏は終わろうとしていた。
 

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