【第2部・第2章】bW
 
 夏期休暇が明けるとすぐ、高井戸のNKホームクリエイト本社で、プロジェクトメンバー全員が集まっての、初回顔合わせが行われた。
 大会議室にずらりと揃ったメンバーは総勢三十二名。統括責任者は総合企画室の次長・林田。さらに彼の直属の部下で、実務上の推進リーダーを務めるのが、市場開発担当の係長・関根優子であった。
 関根の名を、由布子は多田から聞いていた。三十五歳独身、マーケティングの専門家で、NKの新規事業をいくつも成功させたバリバリの女史だという評判から、由布子は勝手に、頬骨の高いヒステリックな女教師タイプを想像していたのだが、司会役に紹介されて壇の上に立った女係長は、意外なことに硬質の美人であった。
「市場開発の関根です、よろしく。」
 頭のいい者に共通の隙のない目配りで、彼女は会議室の一同を見回し、言った。
「ご存じのように、今や国内の景気は低迷しています。もちろん国外を見ても経済的に右上がりという国はほとんどありません。そういった時期に大きく打って出ようというからには、それ相当の覚悟と、何よりも、強い意志が必要であると考えます。みなさんは、NKグループ各社から、ほんとうにさまざまな分野のスペシャリストとしてここに集まっています。設計・施工・品質管理・インテリア・エクステリア・ファイナンシャル・および営業。それぞれの持つ能力を最大限に生かして、このプロジェクトを成功に導いて頂きたいと思います。決して楽な道のりではありません。道は私たちが作らなければならないんです。だからこそ、夢を持っている人たちに集まってもらいました。仕事を楽しむことができたら、人生は天国です。ま、みなさん全員天使だと思いますのでね、何も心配していませんが。」
 軽い笑いが広がった。しんねりむっつりした林田の話よりも、関根の方がはるかに面白かった。
「人間が生きるために必要なのは、衣・食・住ですが、アメリカやヨーロッパに比べると、どうも日本を含むアジアというところは、最後の『住』がおろそかにされている気がします。眠るところ。休むところ。くつろぐところ。『住』にかかわる私たちの仕事には、まだまだ宝の山が放置されています。今から私たちは、その山を掘り起こしに行くのです。これは大いなる冒険ロマン。ロマンのある仕事なんて、この世の中、そうそうあるもんじゃないですよ。人間にとって、より住みやすい、より暮らしやすい街を作る。それがこのプロジェクトの最大の目標です。皆さんの夢を、それに重ねて下さい。Good-luck! …以上です。」
 拍手が起こった。ツボを押さえたたくみなスピーチであった。ここまで来ればもう誰も、『女のくせに』とはおとしめないだろう。
 続いて事務局長から、今後のスケジュールと作業分担の説明があった。ホチキス止めした資料をもとに説明された内容によると、林田と関根を除く三十人は四つのチームに分けられて、それぞれ業務を割り振られていた。資料のまま列記すると次のようなものである。
  販売・設計・施工チーム…建物の建築施工ならびに土地建物の販売活動
  法人&土地開発チーム…大手企業に対する法人営業ならびに宅地開発・不動産物件購入
  ファイナンシャルチーム…対銀行の折衝窓口および資金調達と管理
  推進事務局…庶務全般及びスケジュール管理、現地採用を含む人事管理
 二ページめはいわゆる組織図で、各グループの要員配置が記されていた。菅原由布子の名は、販売設計施工チーム八人の中にあった。
 全体での説明のあと、彼らはチームごとに小会議室に分かれた。他の七人は全員男性で、由布子よりも年上であった。簡単に自己紹介をしあってから、第一回目のチーム会議が始まった。
議事内容は由布子にとって、ほとんどカルチャーショックに近かった。NKグループの一販売会社にすぎないホームイング・エグゼは、何はさておき売上が第一、『売れてなんぼ』の社風であった。営業成績さえよければ、人の上に立つ器であろうがなかろうが所長に昇進できたし、顧客データを分析して云々するより、契約は汗と涙でとってこい式の、時代遅れのやり方がまかり通っていた。そんな子会社の泥臭さに比べ、一部上場の大企業・NKホームクリエイトは、さすがにシャープでハイレベルであった。教育にかけている費用からして桁違いなのだろう、社員のスキルが違うという感じだった。販売設計施工チームのリーダーは、NK営業推進部の課長・渡辺であったが、ホワイトボードに図を書きつつ彼が早口で説明する内容を、何とか理解するだけで、由布子にはもう精一杯だった。
「中野社長が言うようにね。」
 マーカーのキャップを閉め、渡辺は次のように締めくくった。
「上海バブルに踊らされて、我も我もと群がった尻抜け企業が、大損して尻尾巻いて逃げ帰って、放り出してった滞留物件を宝の山に化けさせようっていうんだから、生半可なことじゃできないよ。そのかわりうまく付加価値をつけることができれば、なにせ競争相手がいないんだ、こっちの思うままの商売ができる。付加価値となればインテリア・エクステリアの役割は大きい。国内だろうと国外だろうとポイントは一つ。提案型営業だ。浅知恵が通用せずに逃げ出した馬鹿どもが、あっと驚くほどの成果を我々はなんとしても上げたいと思う。力仕事でやみくもに動き回るんじゃなくて、きちんとシナリオを書いて販促していくつもりだから。次回までにそのへんのことを考えてきてほしいな。付加価値を強調した、提案型の営業戦略。いいね。よろしく!」
 メモをとりつつ、由布子は途方に暮れた。戦略などといきなり言われても、いったい何から手をつけていいのかわからない。さりとてそんな初歩的なことを、初対面の、しかも大ベテランである相手に、おずおずと聞けるものではなかった。何でこんなのをメンバーに入れたと、白い目で見られるのが落ちであろう。暗澹(あんたん)たる気持ちで会議室を出ると、
「菅原さん。」
 廊下で関根に呼び止められた。
「時間ある? ちょっといいかな?」
 誰もいなくなった小会議室のテーブルで、二人は向かい合った。カッチリしたミニのスーツを着た関根は、アクセサリーを何一つつけていなかった。
「これをね、読んどいて欲しいんだ。忙しいと思うけど。」
 テーブルの上に押してよこされた四冊の本は、みな枕になりそうにぶ厚かった。由布子はタイトルを読んだ。『マーケティング理論の基本』、『住宅営業のための数値分析』、『BS/PLの解読法』、『データで作る経営指標』…。
「実はあなたのことは、エグゼの多田部長に頼まれてるの。プランナーとしての経験は十分だけど、管理職の勉強はまださせてない、いきなりでハングアップしないように、いろいろ教えてやってほしいって。」
「多田部長がですか?」
「そう。あの部長はあの歳にしちゃ珍しく、真剣に雇用均等を考えてくれてるからね。なんだかんだ言って女が上にいくの、男は嫌うもんだけどね。多田さんはそのへん、ほんとありがたい。菅原さんのことは本気で育てたいと思ってるみたいね。ま、あなたのプランには中野社長も感心してたわ。女性メンバー少なくて動きにくいと思うけど、困ったことがあったら力になるわよ。遠慮なく相談してきて。」
「ありがとうございます。皆さんの足手まといにならないよう、一日も早く追いつきます。」
 由布子は頭を下げた。陽介の件を初めとして、普段から力になってくれる多田であったが、そこまで買ってくれているとは思わなかった。彼女は心から彼に感謝した。
「そうそう、菅原さんてフランス語できるんだよね?」
「ええ、まあ何とか。」
「助かるなあ。あたしも英語はまあまあだけど、フランス語はちょっとね。いや実は、現地で事業やってるフランス系の会社…ジャルダンっていうんだけど、そことはいろいろ協力関係にあるの。フランス人スタッフとの仕事に関しては、菅原さんに大活躍してもらうことになるかな。頼りにしてるわよ。」
 いつぞやエグゼで石原は言った。英語のできる人間は多いから、フランス語はむしろ貴重だろう。それがまさに大当たりであった。学生時代に軽い気持ちで選択した第二外国語が、こんな形で生きようとは思ってもみなかった。
 トントン、とドアがノックされた。関根ははいと答えた。
「失礼します…。」
 ノブが回り、一人の青年がそっと顔をのぞけた。
「お、ナイスタイミング。ちょうどよかった。来て。」
 関根が言うと、彼は入ってきた。ブリティッシュスタイルのダークスーツが、細身の体によく似合っていた。
「紹介するね。ファイナンシャルチームのメンバー、NKシステムエンジニアリングの八重垣(やえがき)悟くん。今回、資料分析を一手に引き受けてもらうことになると思うんだ。彼にね、このプロジェクトに関するデータとか、数字の取り方とか、いろいろ教わるといいと思って。」
 関根の傍らで、彼は目礼した。歳は拓と同じくらいであろう。綺麗に流れた前髪の下で、優しげな瞳が微笑んでいた。
「八重垣です、よろしく。」
「菅原です。こちらこそよろしくお願いします。」
椅子を立って由布子も頭を下げた。関根は八重垣に言った。
「菅原さんに、ここのコンピュータルームの説明してあげてくれる? 専用のIDカード、もう渡していいから。古川さんには話通しとく。私これからまた別件の打ち合わせがあるんで、あとはよろしくね。」
「わかりました。」
 関根はファイルを小脇に抱えて歩きだし、ドアのところで由布子を振り返った。
「頑張ろうね菅原さん。Wユウコなのよ私たち。」
 字は違うが確かにそうだ。やる気とプレッシャーの両方を、彼女はずしんと受けとめた。関根が去ると八重垣は、
「じゃあマシン室行きましょうか。そこでIDカードお渡しします。さ。」
技術者とは思えない洗練された物腰で、由布子を促した。
「菅原さんのプラン、僕、見せてもらったんですよ。」
 エレベーターの中で彼は言った。
「僕なんか、ずっとコンピュータ屋やってきて、建設とかインテリアのことなんて全然知らないんですけどね。前に、関根係長の仕事手伝ったのが縁ていうか…今回名ざししてもらって、すごく光栄に思ってます。」
「まぁ、そうなんですか。」
 NK本社ビル十六階のコンピュータルームに入るのは、もちろん由布子は初めてであった。八重垣はドア横の装置に、内ポケットから出したカードをシュッと通し、続いて数字のボタンをいくつか押した。ロックのはずれる音がした。二人は中に入った。オフホワイトの床と天井、壁ぎわにずらりと並んだCRTの列。室内はディスクの回転音と空調のうなりと、コンピュータ特有の乾いた匂いに満ちていた。
「ここにはね、NKグループ各社と、それに、ほとんどの取引先のデータが集まってます。僕はたいてい隣の、NKエンジのビルにいるんですけど、最近は週に二日くらいこっちに来て、資料作りやってます。」
「へえ…。」
 としか言いようがなかった。由布子が使えるのはCAD機とせいぜいパソコンくらいで、こういった、地球防衛軍司令本部のような大型コンピュータの集団を、間近に見るのは初めてであった。
「菅原さんのあのプラン、すごくいいですよね。」
 機械の間を歩きながら八重垣は言った。
「なんか、見てるだけでイメージが湧いてくるっていうか。あのテーマは『船』なんでしょう? すごいなぁ。さっきの関根係長の話じゃないけどロマンがあって。あれは実際に作ったんですか? それとも、作りたいって思ってる?」
 ひどく興味深そうに、彼は質問してきた。作ったとは言えないので、
「…まあ、夢っていうか。理想みたいな感じです。」
「夢かぁ。いいなぁ。僕も少しインテリアの勉強しなきゃな。せっかくプロジェクトメンバーになれたんだし、コンピュータ以外にもいろいろ経験して…」
 彼はそこでいきなり、そうだ、と言って由布子を見た。
「ねぇ、こうしませんか。データ収集とか分析については僕が菅原さんに教えますよ。そのかわり僕にインテリアのこと教えて下さい。ね、そうしましょう。お互い専門家なんだから。知ってることは教えて、知らないことは教わる。これっていいアイデアだと思いません?」
「ええ…そうですね。」
「カットオーバーまであと半年だけど、その先もずっと時間はあるんだし。いろいろと協力しあいましょう。今度、一緒に食事でもどうですか。」
「え、ええ…。」
 見かけよりも性急な八重垣に、由布子は少しとまどった。不快な態度ではないけれども、エグゼにはいないタイプであった。彼は一台の端末に手を触れ、ペットの自慢でもするかの表情で言った。
「このシステムはね、僕が作ったんですよ。もちろん一人でじゃないですけどね。工場からオンラインで入ってくる部材のデータをリアルタイムで取り込んで、平準化予算とどれくらい隔たりがあるか、イエローゾーンに入ってないか、日次で分析して帳票を作るんです。中野社長のパソコンにも毎朝送信してるんですよ。」
「へえ、すごいですね。…これは?」
「ああ、これは今やりかけの報告書。関根係長に頼まれて作ってるとこです。今回のプロジェクトの損益分岐はね、おそらく六千万円くらいになると思うんです。だから安全値で一割乗せて、粗利が六千六百万円でしょ。これを計上するためには現地見込客がどれくらいいるか。ピボットテーブル使ってシミュレーションしてるんです。」
 由布子は頭が痛くなってきた。八重垣は熱心に説明してくれたが、話の九割は右から左へ抜けていった。冗談ではなしに、知恵熱が出そうな気分であった。
 

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