【第2部・第2章】bX
 
 コーヒーでも、と誘ってくれた八重垣を断って、由布子は京王線に乗った。明大前で井の頭線に乗り換え、渋谷に着いた時は七時であった。社へ戻る用は今日はない。このままバスに乗ってしまえばアパートへ帰れるのだが、彼女は駅ビルの通路を渡り、東横線の電車に乗った。
 ナヴィールの前に、ランドクルーザーが停まっていた。拓がいるのだ。彼女は急ぎ足になり、ドアを押した。
「いらっしゃいませぇ。」
 香川は言い、由布子と気づくと、
「あ、こんばんはぁ。お久しぶりです。」
 大きな口でニコッと笑い、会釈してくれた。拓は角のテーブルにいて、フォークに巻きつけたスパゲティをちょうど口に入れたところだったが、左手を軽く上げて彼女に合図を送ってきた。向かいの椅子に腰を下ろし、由布子はほっとした。自分の世界に戻れた気がした。
「今帰り?」
 ミートソースのついた唇で拓は尋ねた。
「うん。今日はNKで打合せがあって、そのまま来たから。」
「ああ例のプロジェクトか。…なんだよすげぇ荷物じゃん。」
 床に置いた大きな紙袋を拓は見た。香川が水を運んできた。彼女の前にグラスを置くと、彼はカウンターを指さして言った。
「由布子さん、あいつは初めてですよね。新しいバイト入ったんですよ。」
 その言葉に、シンクでカップを洗っていた色白の青年が顔を上げた。
「あ、どうも…」
 ペコッと頭を下げる彼に向かって香川は、先輩口調で指示をした。
「どうもじゃないだろ。ちゃんと挨拶しろよ。ほら、こっち出てきて。」
 彼はタオルで手を拭き拭きやって来た。穏やかでおとなしそうな面立ちであった。
「どうも、初めまして。菅原さん…ですか。」
「ええ、初めまして。」
「泉っていいます。先週から来てるんですけど…。」
「ああ、そうでしたか。学生さんなの?」
 由布子が聞くと、彼はぽっと赤くなった。
「いえ、春にちょっと、志望校すべっちゃいまして…。」
 そばから香川が、
「長屋でさ、傘張ってんだよな。こうやって、刷毛(はけ)で糊ぬって。『来年こそは拙者もどこかに仕官せねば…』」
「浪人だろそれは。予備校生って言えよ。」
「おんなじじゃん。」
 この店に来て知りあったはずの二人は、もうすっかり意気投合していた。由布子はピラフをオーダーし、厨房の高杉に挨拶に行った。それからようやく落ち着いて、拓に袋の中身を見せた。
「ほら、早速宿題もらっちゃった。四冊もよ。全然わからないことばっかりで、なんか先が思いやられる。」
「へぇ、どれどれ。」
 拓は手を伸ばして一冊を取った。
「『マーケティング理論の基本』か。なつかしいな。」
 厚いページをぱらぱらめくり、
「デュアル・ストラテジーにコモディティ…。マーケット・セグメンテーションか。忘れてんな、ほとんど。」
「あなた経済だったの?」
「一年でリタイヤしたけどな。でもそんな本まで読まされるんだ。」
「うん。リーダーの女性係長がね、すごいバイタリティなの。あたし置いてかれそう。」
「バイタリティなら由布子だって負けないって。平気平気。」
 拓は、続いて組織図の紙とアイスコーヒーのグラスを取り上げ、ストローをくわえて図を眺めた。
「総勢三十二名…か。いい人数だよな。いろんな会社から集まってんだ、これ。」
 組織図には氏名のほかに、現所属の会社名がかっこで記入されている。拓は紙をテーブルに置いて、
「法人&土地開発チームの、こいつ。『中央ハウジング』って、でっかい不動産屋だろ? こんなとこからもメンバー入ってるんだ。」
「そうなのよ。NKグループの子会社だけじゃなくてね、提携業者にも呼びかけたんだって。」
 自分で言って由布子は思い出した。大塚脩二の名もアトリエ・ニートの名も、この組織図には見あたらない。林田に会って参加を希望すると言っていた、あの話はどうなったのだろう。
「そうすると由布子って、もう芝浦じゃなくて、NKの方行きっぱなしになんの?」
 拓に問われ、彼女はその疑問を頭の隅に押しやった。
「ん? ううん、行きっぱなしってことはないと思う。お客さん、まだ抱えてるし。当分は業務とプロジェクトかけもちしなきゃ。なんだか今から疲れそう。」
「今から疲れてどうすんだって。人間、こういう時には勝たねぇと。誰かにじゃなくて、自分にさ。今みたく大きな舞台どーんと用意された時に、全力出さなかったらいつ出すんだよ。」
 拓は由布子を励まして、
「俺も今、資料集めしてるよ。建築の専門学校。本当はこの十月から行きたかったんだけど、バイトが忙しくてもたもたしてたら、ほとんど締め切られちゃってさ。しょうがない、来年の四月からだな。それまでは独学。フローラル週一にしてもらって、バイトは昼間と土日だけにして…。」
「ふうん。いよいよ本格稼働なんだ。」
「そ。短期・中期・長期の予定に基づいて実行あるのみ。ただし計画の連続軸上では扱えないような市場(マーケット)の変化を、柔軟に読み取ることが肝要である…って、きっとその本のどっかに書いてあるよ。」
 拓は泉にグラスを上げて見せ、もう一杯アイスコーヒーを追加した。
 
 送るよ、と言ってくれた拓とともに店を出、由布子は助手席のドアを開けた。シートの上にいくつか散らばっていた封筒を彼は集め、バックシートに置いた。ちらりと見えた文字から、それが専門学校の案内書であることがわかった。本気なんだなと彼女は思った。
「最近さ、こいつ、調子悪くて。」
 セルを回して拓は言った。
「やっぱ山形まで走らしたのがキツかったみたいで、そろそろヤバいかも知んない。こないだなんか交差点の真ん中でエンストして、もう焦った焦った。」
「やだ、とうとう?」
「うん。いつイッちゃっても不思議はないね。気に入ってんだけどなこいつ。」
 そろり、という感じでRVは走り出した。とりあえずエンジンに異音はなかった。
「そうだ…あのね、もしよかったらだけど、あたしが昔使ってた設計のサブテキスト、使う?」
 由布子は思いついて言った。動線を考慮したゾーニングのしかたや、BCS(ブロックチェックシート)の使い方など、結構役に立った資料である。書き込み等もしてあるが、むしろ市販のそっけないテキストより便利かも知れない。
「え、ほんとに? いいの?」
「うん。有名建築家の作品集もあるし、いいわよ、あげる。」
「マジ? 助かるわ。専門書ってけっこう高いんだよな。特に建築系って、なんかいい紙使ってるから、やけに値が張ってさ。」
 言ってから拓は肩をすくめ、
「なんか俺、由布子には助けてもらってばっかな。今に呆れられそ。」
「そんなことないわよ。」
 由布子は即、否定した。彼が喜んでくれるなら、何を惜しめというのだろう。
「呆れられついでにもう一つ、実は頼みがあんだけど…。」
 正面を向いて目だけ横に動かし、彼は言った。
「来月の十三日…夜、あいてないかな。いちおう土曜日なんだけど。」
「十三日?」
 プロジェクトが本格スタートしてしまった以上、暇な日というのは当分ない。が、土曜日であれば何とか都合はつけられる。
「たぶん大丈夫だと思うけど…。でも何で?」
「うん、六時からね、パーティーがさ。」
「パーティー? 何の? ナヴィールじゃなさそうね。」
「いや、帝国ホテル。いちおう指定では、ブラックタイ着用ってなってる。」
「ブラックタイ…って、まさか正式ディナーのあるやつ?」
「そ。実はさ、俺、葛生先生の名代(みょうだい)で出なきゃなんなくなって。先生とつきあいのある、三輪って有名な陶芸家なんだけどね、その人の何だかの受賞を祝う会。先生ちょうどイタリア出張入っちゃってて、で…それ、俺に行けって。」
「…どうして?」
 いくつものクエスチョンをこめて由布子は聞いた。そんな大きなパーティーになぜ、拓が出なければならないのか。いくら葛生のお気に入りだからといっても、若い彼には荷が勝ちすぎはしないのか。さらにどうしてその集まりに、自分を誘ってくれるのか。
「由布子、覚えてっかな。いつかオークラでやったうちらの作品発表会で、俺が使った花器。あの作者が三輪先生なんだよ。『スクールの生徒が使うから』って言って貸してもらったんで、だから顔出さなきゃまずいってば、まずいんだよな。」
「花器って、あの萩焼の?」
 保険まで掛けた高価なものだと、あのとき拓は言ったが、そんなに有名な作家の作品だったのか。どうりであの存在感は圧倒的だったはずだ。
「だもんで、葛生先生が俺にって。でさ、『この間発表会に来てくれた、銀鼠(ぎんねず)のスーツの女性と一緒に行けないか』って言われて。」
「銀鼠って…葛生さん、あたしのこと覚えててくれたの?」
「らしいね。俺もびっくりしたけど。」
 意外なご指名であった。単なる生徒以上に拓を愛しているだろう葛生にとって、由布子は決して、好もしい存在ではないはずなのだが。
「だから十三日、何とかつきあってくんねぇかなあ。肩こるばっかで、面白くも何ともないじじばばの集まりだと思うんだけど、俺は断れないからさ、もし由布子に嫌だって言われたら、先生のお母さんエスコートしなきゃなんねぇんだよ。やだよ勘弁してくれよ、いくら俺だって八十過ぎと腕組んで歩きたかねぇって。」
 それはそうだろうと由布子は納得した。あの葛生の母親なら、時代劇にでも出てきそうな古風端然たる老婦人に違いない。
「わかった、いいわよ。来月の十三日ね。」
「うそ、オッケー? やったサンキュー! よかったぁ、これで生きた化石のお相手しなくて済む!」
 拓は晴れ晴れとした表情になった。要はばあさんと出たくないのだろう。私となら気も楽だということか。由布子は拗ねたくなったが、それでも、拓と一緒にパーティーに出られるのは嬉しかった。まるで公認の恋人同士である。彼本人にそんな意識がないのは癪だけれど、まあいいかと彼女は苦笑した。
 アパートの前で由布子を下ろし、拓は言った。
「じゃな。また電話する。プロジェクト頑張れよ。」
「ありがと。あ、さっき言ったテキスト類、探しとくわね。」
「頼むな。んじゃ。」
 RVを見送って、彼女は階段を昇り、部屋に入ってクーラーをつけた。クロゼットを開けてハンガーを取り出し、ブラウスの前ボタンをはずした。布から肩を抜いた時、ふっと異質な匂いをかいだ気がして由布子は動きを止めた。本当に鼻に届いたのか、それとも記憶の中のイメージなのか判然としないほど微かな、コーヒーと煙草の混じったそれは、
(拓の匂い…?)
 扉の内側にはめこまれた鏡を、彼女は見た。面影が幻となって浮かんだ。知り合って丸八か月。笑った顔、怒った顔、ぷいと横を向いた子供のような表情、何かに集中している時の、近づきがたいほど真剣な表情。胸の奥底に孤独を秘めて、漏らす吐息のしっとりした暖かさ。スワロウテイルに次ぐ正装に身を包んだなら、彼はどんなに素晴らしいだろう。由布子はうっとりと思い描いたが、しかし、
(ブラックタイ着用ってことは…カクテルドレス?)
 ヒロインの如き陶酔に、現実の冷風が吹きつけた。仕事がら彼女の手持ちはビジネススーツが主体で、いわゆるドレスのたぐいはない。クライアントの催しや友人の結婚式なら、ディオールやサンローランのドレッシーなスーツで十分通用するが、十三日はそうはいかない。由布子が断れば葛生刀自(とじ)をエスコートするほどの改まった場だ。しかも会場は帝国ホテル。通好みといったらオークラだろうが、日本を代表するエクセレント・ゾーンといえばやはりこちらが上だった。タキシード姿の拓の隣で、せめて見劣りしないだけの美しさを要求される。それは至難の技ではないのか。鏡の中の由布子は泣きそうな顔をしていた。
 

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