【第2部・第2章】bP0
 
 源氏物語の昔から、晴れの衣装に身を包むのは女にとって至上の恍惚である。とろけそうな絹、蜉蝣(かげろう)を思わせるジョーゼット、官能の高まりにさえ直結する艶やかな天鵞絨(びろうど)。純粋な奢侈(しゃし)品であるそれらには相応の値がついており、由布子はウィンドウの前を通りかかっては溜息をつき、雑誌を見ては肩を落とした。貸衣装で着物にするという選択肢もあったが、あの磔(はりつけ)のような紐や帯を思うと、もうそれだけで気分が悪くなった。無理して着飾ったあげく、会場で貧血を起こした日には情けなくて笑い話にもならない。休憩時間にコーヒーを飲みながら、あまり頻繁に由布子が溜息をつくので、
「菅原さん、大丈夫ですか? どっか具合悪いんじゃ…。」
 心配そうな八重垣が、そう尋ねたくらいだった。
 九月に入って間もないある日、仕事帰りに由布子はナヴィールを訪れた。残暑の中、アスファルトは夜になっても冷えず、汗ばむ体に店のクーラーが、ひんやりと気持ちよかった。拓は来ていなかったが、フロアに珍しく幸枝がいた。
「あら由布子さん、いらっしゃい。」
 幸枝はカウンターを示し、何も言わないうちにアイスティーを出してくれた。
「今日は幸枝さんお一人ですか?」
 尋ねると彼女は首を振り、
「泉くんが今お食事中。その間だけ私が代理。由布子さんも何か召し上がるでしょ? 何にする?」
「じゃあ、ミートソース。」
「OK。」
 幸枝は厨房にオーダーを通し、戻ってきて、
「どしたの? うかない顔して。拓くんとまたケンカでも?」
「いえ、そうじゃないんです。つまんない悩み抱えちゃって。」
「つまんない悩み? なぁに、どうしたの。」
 由布子は服の件を話した。女同士なら通じるはずの悩みであった。好きな相手とシャンデリアの下に立つときは、極上の装いに身を包みたい。そう思わない女がどこにいようか。鳥の中には恋の季節に、花や小枝を羽にはさんで自分を飾る種類がいるが、人間もそれに変わりはない。恋は全生物に共通なのだ。
「なるほど…。それは悩むわねえ。つまらない格好はしたくないし、でも普段は着ないものだけに、無節操にお金かけるわけにもいかないか。わかるわかる。」
「はい。貸衣装も考えたんですけど、ちょうど結婚式のシーズンで。」
「ああそうねぇ。それに貸衣装って、どこの誰が着たかわからないわけだし…。私もあんまり好きじゃないわ。」
「ええ。それで実は悩んじゃって。」
 話をしつつスパゲティを食べて、ちょうど済んだ頃に泉がフロアへやってきた。
「あ、どうも、今晩は。」
 彼は由布子に挨拶しながらエプロンを締め、
「奥さん、いいですよここ。あと僕やりますから。」
「そう? じゃお願いね。」
 幸枝はカウンターから出ると、小さく由布子を手招いた。
「ね、…ちょっと来て。」
 由布子は導かれるままついて行った。幸枝は二階に上がっていった。高杉夫妻のプライベートルームにお邪魔するのは初めてであった。
「さ、上がって。ちょっと散らかってるけど。」
 リビングを抜けた六畳の洋間で、幸枝はウォークイン・クロゼットの中から、大きな箱を持ち出してきた。
「これ…どうかしらね。私の、昔の一張羅なの。」
 彼女はカーペットの上に箱を置いて蓋を開け、防虫剤の乗った畳紙(たとうし)を広げた。
「高杉とね、一緒になった時に、それまでのものはほとんど処分したんだけど、これだけは手放せなくて持ってきたのよ。今じゃもうきつくて着られないけど、一番好きだった、私の思い出の服なの。」
 肩のところをつまんで持ち上げ、幸枝はそれを由布子の目の前にかざして見せた。濃いローズピンクの絹のドレスだった。ふくらんだ袖にドレープのような大きなタックがとってある他は何の飾りもない、非常にシンプルなデザインであったが、光の角度によって色の加減が微妙に変わるため、布全体に豪華な刺繍が施されているように見えた。並のブティックではまず、お目にかかれない品だった。
「ね、ちょっと着てごらんなさいよ。多分ぴったりだと思うから。」
 勧められて由布子は袖を通した。二人の身長はほとんど同じであり、くるぶしのすれすれまで来る裾の長さはちょうどよかった。ウェストより下に問題はなかったが、胸回りはかなり大きい。
「ここは…ちょっと、何とかしましょう。パッド重ねれば平気だと思うわよ。」
「はあ…。」
「でもよかった。よく似合うわ。着てわかるでしょ、手織りの最高級の絹なんだから。宮中晩餐会は無理だけど、ブラックタイくらいなら恥ずかしくないはずよ。」
 幸枝は嬉しそうに目を細め、
「とっといてよかったわね、この服。今ごろ役に立つなんて思わなかった。」
「でもほんとにお借りしていいんですか? こんな高価なもの…。」
「いいのよいいのよ。しまっといたって箪笥のこやしだわ。これなら拓くんもきっと驚くでしょ。当日まで内緒にしときましょうね。」
 そこで幸枝ははたと膝を打ち、
「由布子さん、その日、うちから出かけたら? 本式の着付けとメイクしてあげるわ。拓くんにはここへ迎えにきてもらえばいいじゃない。そうよ、そうなさいな。」
 幸枝の方がうきうきと楽しそうだった。かつてはこれだけの服を自前で持っていた女なら、化粧も何もお手のものだろう。由布子は好意に甘えることにした。
「…拓くんを、落としちゃいなさい由布子さん。」
 ニヤリと笑って幸枝は言った。
「まごまごしてるとタイミングのがすわよ。恋はかけひきなんだから、時には思いきり大胆に。普段と違う格好をしたら、鮮やかに別人にならなくちゃ。ここが腕の見せどころよ。ドレスは女の武装ですからね。」
 幸枝はすっかり由布子の参謀になり、毎晩これとこれでマッサージとパックをしなさいと命じ、何種類もの化粧品を袋に入れて渡してくれた。十二時すぎたら食事も酒も胃に入れないこと、入浴時に背中・ウェスト・腰回りをブラッシングすること、寝る前に十五分間ストレッチ体操をすること、などの厳しい指示も与えられた。どちらかと言うと今までそういう努力はしたことのない由布子だったが、
「何もせずにあれだけの男をひざまづかせようっていうの? それはちょっと甘いわよ。第一、自分に自信がないから、強気のアプローチができないんでしょう。」
 ぴしりと痛いところを突かれ、彼女はよろしくお願いしますと言って、幸枝に深々と頭を下げた。
 

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