【第2部・第2章】bP1
 
 十三日午後二時。参謀に指定された通り、由布子はナヴィールの二階を訪れた。参謀はドレッサーの前で待ち受けていて、早速彼女にシャワーを浴びてこいと指示した。階下の店は高杉と香川、および泉の三人にまかせ、幸枝は午後いっぱいを、由布子のドレスアップにあててくれたらしい。体にバスタオルを巻いた彼女を鏡の前に座らせると、
「よろしい。言いつけは守ったみたいね。肌荒れなし、くすみもなしね。昔から言うように二十五歳すぎたら、ちゃんとお手入れしないと駄目ですからね。」
 作業はまず下着の着付けから始まり、さらにヘアセット、入念なメイクアップと続いた。まるで花嫁の身支度のように思えて、由布子は照れ笑いした。背中のファスナーを上げ、ちょっとそのへんを歩いてみろと言われ、マニキュアをふうふう乾かしていると、厨房に続く内線が鳴った。四時半を回っていた。幸枝が出てすぐに切り、
「拓くん、来たそうよ。店が混んでるから、上がってくるって。」
 ぴくっ、と由布子は緊張した。彼を落としてしまおうの手にいれようのと、自分だけの世界で空想するのは楽しいが、生身のそのひとと向かい合ったら、現実はそうそう思い通りにはならない。
「幸枝さーん、上がるよー。」
 壁とドアを隔てて拓の声がした。
「はあいどうぞ。今行くから待ってて!」
 幸枝は応じ、
「リビングで待っててもらうわね。」
 そう言ってドレッサーを離れ、ドアを開けた。がその時拓はすでに、ノックをしかけた姿勢で廊下に立っていた。
「拓くん!」
 由布子は鏡の中に、幸枝の背中と拓の姿を見た。黒絹のタキシードで髪を肩に下ろした彼は、
「いや、なんか、めかしこんでるらしいって久さんが言ってたからさ、どんなかなと思って…」
 そう言いながら顔を上げた。視線が出会った。彼は言葉と笑いを消した。幸枝は由布子を振り向いて、ニヤッと笑いかけたあと拓に言った。
「いかが? 綺麗でしょうすごく。」
「…」
 拓は答えずに、なおしばらく由布子を見つめ、
「な、…ちょっと、ちょっと待ってろ。」
 そのままで、と手で示して、いきなり身を翻した。
「どうしたの拓くん。どこ行くの!」
「ちょっと待ってて! すぐ戻るから!」
 彼はバタバタと階段を下りていった。幸枝は首をかしげ、
「何かしら。気が動転したかな? あんまり由布子さんが綺麗だから。」
「そんな…。」
「あら本当に綺麗よ。由布子さんはね、ルージュはピンクが似合うわよ。赤とかオレンジだときつい感じになっちゃうみたい。だから濃い目のピンクがいいわ。色の白い人にしか合わない色ね。さてと、じゃあ最後の仕上げとして…」
 幸枝は引き出しをあけた。十本ほどの香水瓶が入っていた。
「さあ、どれにしましょうか。少しセクシーでスパイシーな方がいいかしらね。」
「ずいぶん種類あるんですね。」
「これでもけっこう減らしたのよ。ええと、今夜はディナーでしょう? 食事中にプンプン匂うのはよくないから、今は少しだけにして、食事が終わったらつけ直してね。コットンに含ませてパッドにはさむのよ。あとは手首と、耳たぶにもたっぷりつけて。…そうねぇ、フィジーじゃ甘すぎるしアルページュもちょっと違うか。レール・デュ・タンにバラ・ベルサイユ…。」
 あれこれ悩んで、幸枝は二つを選び出した。
「これか、これってとこね。パリュールかノクチューン。」
 幸枝は小瓶の蓋をあけ、手の甲に一滴つけて息でアルコールを飛ばした。パリュールとはフランス語で宝飾品。英語のジュエリーと同じ意味である。
「一つだけ残念なのはねぇ…このドレス、ほんとうは、バンッて大きな宝石のついた、チョーカーをすると最高なのよね。昔はいいの持ってたんだけど、手放しちゃったから…。」
 胸のカットは深くないが、肩を広くあけたデザインなので、確かに首の回りが少し、寂しいといえばいえた。これは由布子の髪がショートのせいもある。いくら毛先を柔らかく散らしても、豪華さだけはどうしても出なかった。
「ま、下手なイミテーションつけるくらいなら、いっそ何もつけない方が上品よ。由布子さんて首の線がすごく綺麗だし、いいでしょ、これで。」
 耳から下げたイヤリングが、唯一のパリュールであった。糸のように細く長い鎖がシャラシャラと鳴る、決して安物ではないれっきとした十八金も、薔薇色の絹の前ではいささか役不足を否定できなかった。と、そこへ、
「悪い、お待たせ!」
 息をきらして拓が帰ってきた。彼は香水瓶を手にしている幸枝に気づき、
「あっと、それ、ストップ! 香水ちょいまち。こっちで…これで、いま俺、作ってやっから。」
 差し出したのは、由布子が着ているドレスと同じ、濃いローズピンクの薔薇の花だった。
「参ったよ、このへん花屋ってないのな。駅の方まで行ったから汗かいちゃったよ。」
 拓は上着を脱いでカフスをはずし、真っ白いドレスシャツの袖を惜し気もなくまくって、
「幸枝さん、悪い。針と糸と、よく切れる鋏。それから水。タッパか何かに入れてくれればいいや。それとね…」
 由布子の顔を、見とれるというのではなく観察の表情で見つめ、彼は自分の左耳に手をやった。
「小さめのイヤリング…こう、ぴたっと耳にくっつくやつ、ない。ぶらぶらしないやつ。あ、片っぽでいい。…由布子、それはずして、一個だけこっちよこして。」
 由布子は彼の言う通りにした。拓は、幸枝がそろえてくれた鋏を取り、四角いタッパーの水の中で薔薇の茎を、ステムの部分からパチンと切り落とした。
「ちゃんと水あげしてあっかな…。六時、七時、八時と…ま、なんとか保(も)つだろ!」
 女二人の見守る前で、拓は作業を続けた。生きた花のイヤリングを、彼は作ろうとしていた。いかに高価で美しかろうと、ダイヤモンドとはつまり炭素の塊にすぎない。けれど薔薇は違う。この地球に生を受け、限りある時間を輝くものである。大地を失ったこの花は、やがて時を使い果たして死んでいく。かけがえのないその命で、由布子を彩り、飾ったあとに。
「よし。これでいいだろ。」
 作品を持って拓は立ち上がった。受け取ろうと手を伸ばすと、
「あ、自分じゃ無理無理。つけてやるからじっとしてろって。」
 彼は言い、由布子の耳に触れた。震えそうになるのを彼女はこらえた。
「痛くない? 切り口んとこ当たんないね?」
 何か細工をしたあと、拓は鋏で糸を切り、
「ほら、見てみ。なかなかいいだろ。」
 由布子は正面を向いた。左耳の上、頬に触れる位置と、それに右耳からは、十八金の鎖の先にゆらゆらと、ドレスと同色の大輪の薔薇が花開いていた。首を動かすとそれに合わせて、すずやかな香りまでもが揺れた。エリザベス女王の笏(しゃく)にはめこまれた世界最大のダイヤモンド、カリナン一号さえ、この薔薇に比べれば光を失うに違いない。
「生花(なまばな)つけるのは、TPOが難しいんだよな。場所によっちゃタブーなんだけど、今日はいいだろ。主役はじじいだし、多分俺らが一番若いし。」
 拓はカフスを直しつつ腕時計を見て、
「おっと、やべぇ時間くった。そろそろ行くぞ。」
 上着に袖を通しながら部屋を出ていった。由布子は階段のところで、ドレスとペアのハイヒールを履いた。下りていく拓の背中を見、幸枝は由布子の耳元で言った。
「…手強いわね彼、やっぱり。相手にとって不足はなし。さぁ、行ってらっしゃい。今夜が多分、あなたの関ケ原よ。」
 由布子はごくりと固唾を飲んだ。階下に下りると、男たちが目を見張った。
「うわ、こりゃまた…」
 高杉は絶句し、香川は、
「由布子さん…チョーきれー! なんか、びっくりしたぁ!」
 泉に至っては、口を半開きにし皿洗いも忘れて凝固してしまった。裏から出ようとした彼女に拓は言った。
「何やってんだよ、そのかっこで狭いとこ行くなって。車、こっち。」
 顔を伏せて由布子は店内を通った。当然客が注目した。高杉たちも、なぜかぞろぞろと二人に続いて外へ出た。
「おいおい拓、この車なのかよ…。」
 RVを見て高杉は呆れ声を出した。香川と泉も後ろの方で、
「由布子さん、その裾で乗れます? 危ないんじゃないかなあ。」
「タクシー呼びましょうか? その方がいいと思いますよ。」
「ほんっとに気のきかない男だな拓、お前。ガラスの馬車か何かで来るもんだこういう時は。じゃなきゃロールスロイスとか、せめてセンチュリー、おちてもグロリアだろ。」
 非難の集中砲火を浴びた拓は、助手席のドアを開け、
「しょうがねぇだろ、知らなかったんだから…。わかってりゃ借りてきたよ、ロールスだろうとイスパノ・スイザだろうと。…乗れるか?」
 さすがに心配そうに言った。和服なみに細い裾を由布子はそっとたくし上げ、注意深くステップに足をかけた。何とかシートに上がれそうだった。左肘に、拓が手を添えてくれた。ぐいっと力を加えられると、思いのほか簡単に体重を移すことができた。拓はドアを閉めて運転席に回り、ひらりと乗りこんで、
「じゃ、行ってくる。幸枝さんありがと。帰りまた寄るから、アフターもよろしく頼むね。」
 RVは走りだした。由布子はほっとして、ようやく拓の装いに心を向けた。ぴんと立てたカラーに蝶ネクタイ、ハンドルを握る手首には、濃紺と緑の混じった、ブラックオパールのカフスが光っていた。黒をまとった彼の、常にも増して優雅な微笑みに彼女は見とれ、いつもはまっすぐなサイドの髪に、大きなウェイブがかかっていることを知った。今夜の彼が素晴らしく華やかに見えるのは、おそらくこの髪のせいだった。
 

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