【第2部・第2章】bP2
 
「なんか、似合ってんじゃんすごく。」
 楽しげに彼は言った。由布子は首を振り、
「幸枝さんのおかげよ全部。ほんと、感謝してる。」
 謙遜ではなく本心で言った。拓はタキシードの襟をつまんで、
「俺もさ、これ、上下一式、先生に揃えてもらった。代理なんだから当然だって言われたけど、やっぱ感謝しなきゃだよな。」
「そうなの、先生が。」
「いい知り合い持ってるよな俺たち。」
 拓は大きく髪をかきあげ、
「ま、そうは言ってもな。俺が先生の知り合いじゃなかったら、そもそもこんなカッコする必要もないのか。今夜はさ、年寄りばっかで盛り上がんないと思うけど、料理はいいぜ多分。たっぷり食ってこうな。」
 いでたちのわりに色気のない話をして、拓は日比谷通りからホテル正面の車寄せにハンドルを切った。金モールの制服のボーイが近づいてきた。拓は先に車を下りて何か彼に話しかけた。ボーイは丁重に頭を下げた。拓は助手席のドアをあけた。裾が開かないと実は、乗るよりもおりる方が難しい。
「ほら、来いよ。」
 拓は由布子に両腕をさしのべた。細かいタックをとったドレスシャツの胸が、彼女に向けてひらかれていた。由布子は彼の手に掌を重ねた。引き寄せる力を感じた。彼女は腰をすべらせた。一瞬、ほんのわずかだけ、浅く抱かれる姿勢になった。
「ほんと、気がきかなかったな。ランクルに乗せるかっこじゃないや。ごめんな。」
 彼の背後でボーイは車のドアを閉めた。拓は軽く襟を整えると、左腕を由布子の方に差しだした。おさまらない高鳴りのまま、彼女はその腕に手首を巻いた。拓とこうするのは初めてだった。高いヒールを履いた彼女は、ちょうどいいバランスで彼と並ぶことができた。歩幅のとれない彼女に合わせて、拓はゆっくり歩いてくれた。ホールに集う客たちは、ナヴィールの店内と全く同様に、会話を止めて二人を見た。先ほどの鏡の中では自分の姿に満足した由布子であったが、拓の輝きにはとてもかなわないと思うと、何だか自慢なような悔しいような、奇妙な感情にとらわれた。
『拓くんを、落としちゃいなさい由布子さん。』
 幸枝のエールが甦った。しかし彼は、こうして隣にいてさえ遠いひとに思えるくらい、美しかった。魅力的だった。私ひとりが繋ぎとめるなど、大それた望みに思えるほどに。
「うわ、集まってんな…。」
受付を経て控えの会場に入ると、拓は驚きの声をあげた。ディナー前のカクテルタイムに、すでに二百人近い人間が集(つど)っていた。彼の言っていた通り若者の姿は全くなく、白髪または禿頭(とくとう)の、枯れた笑顔ばかりがそこにあった。若くてせいぜい五十代であろう。従って二人はよく目立った。三輪とおぼしき老人がすぐにこちらへやって来た。
「これはこれはようこそ。葛生先生からうかがっております。あなたが彼の、優秀な生徒さん…。」
 拓は背中を伸ばし、会釈して言った。
「はい、葛生の名代ということで、うかがわせて頂きました。ご受賞おめでとうございます。」
 彼の態度には、ぴんと張った麻の布を思わせる清涼感があった。高杉や陽介と馬鹿話をしている姿からは、想像もつかない雰囲気であった。若者に示されるこういう礼儀正しさに、老人は弱い。未来ある命に慕われるのが、寂滅(じゃくめつ)近き者たちの希求である。三輪はこぼれんばかりの笑顔になって、かたわらの由布子にも、ひどく好意的な視線を当てた。
「こちらはまたお美しい。奥様…でらっしゃいますかな?」
 言われて慌てたのは由布子の方だったが、拓は笑って否定した。
「いいえまさか。まだ独身ですよ僕も彼女も。」
「おお、そうでしたか。それは失礼。あまりお似合いなのでね、てっきりそうかと思いましたが。」
 老人は軽く彼の肩に触れ、
「さあ、もっと奥へどうぞ。ご紹介したいかたがたくさんお見え下さってます。僕の作品も向こうの部屋に幾つか持ってきておりますから、食事が済んだあとにでも、ご覧になって下さい。」
「ありがとうございます。」
 三輪に促されて、二人は華やかな群れに加わった。次々紹介される紳士たちは皆いわゆる文化人で、画家・作家・大学教授などの錚々(そうそう)たる人物ばかりであった。彼らと老成したやりとりを繰り返す拓は、自らを『葛生の名代』としか名乗らなかった。こんな席でも本名を使わずに通す気らしい。それを不自然に思った人間も一人二人ではなかったのだろうが、はるか年長の男たちとあい対して一歩もひけをとらない拓の落ち着きに、失礼ですがお名前はと、尋ねる人間は誰もいなかった。
 拓の応対は堂に入(い)っていた。ふるまい方が板についていた。相当の場数を踏まなければこうはいくまい。おそらく彼は幼い頃から、絹のシャツにカシミアのコートを着せられて、よほどの場所に出入りしていたのだ。若さに不釣りあいな場慣れというのは、嫌味な軽薄さになり下がりやすいのだが、拓の態度にはそれがなかった。余計な力みも気負った背伸びも、彼には全く感じられなかった。
 ディナータイムになった。三輪が二人をテーブルに案内してくれた。正面中央、メインテーブルの次席。若い二人には過ぎたる座であった。
「葛生先生って、偉かったんだな…。俺、ただの花好きのおっさんかと思ってた。」
 ひそひそと拓が言ったので、由布子は笑った。グラスにシャンパンがつがれ、スピーチなどがあって、フルコースディナーが始まった。七宝焼を思わせるカナペ・バリエに続いて、飴色のコンソメスープがサーブされた頃、由布子の向かいの席から、画家で画廊店主の坪内という老紳士が拓に話しかけてきた。
「葛生先生の教室には確か、他にはないユニークなコースがあるとお聞きしましたが…あなたはどんなお勉強をされているんですかな?」
 拓はスープにクルトンを散らし、形よくスプーンを動かしながら答えた。
「はい、アレンジメント・ディレクティングっていって、花を使っていろいろな場面とか、イメージとかを表現するんです。季節感とか…人間の感情とかを、花で描くんじゃなく花に語らせるんだって、いつもそこを注意されます。」
「ほほう…。奥の深い言葉ですね。花に『語らせる』とは。」
「はい。最初は何のこと言われてるんだか全然わかんなかったんですけど、最近、少しはわかるようになった気がして。二年間、葛生先生にはいろんなこと教わってきましたから、そろそろ建築の勉強も、始めようかと思ってるんです。」
「ほう…建築を?」
「ええ。アレンジメントやってきて、やっぱ…それをやらないと、こっから先は進めないんじゃないかって思って。なんていうのかな…フォルムの構成? それをもうちょっと、正式に勉強したいんです。だったら建築は無視できないですよね。」
「ああ、それならばこの方に教わるといい。」
 坪内は即座に、右隣に座っている六十歳ほどの男を示した。品のいい温和な眼差しで、二人の会話を聞き守っていた男である。
「こちらは建築家の高階憲三(たかしなけんぞう)先生。おととし横浜に美術館を造られて、それがフランスの雑誌に紹介されて向こうで賞を取られた…」
「あ、…ああ、あの! 『ビルミュゼエ横浜』ですね?」
 由布子は言った。フランス建築学会のメダイユ・ドオル…金賞を受賞した初めての日本人。東洋蔑視の傾向が根強いヨーロッパで、ましてやフランスでの受賞は快挙だと、業界誌を大いに賑わせた人物である。今はまだ畑違いの拓が、高階の名を知らないのは当然だった。由布子は拓に説明した。
「あのね、ビルミュゼエ横浜は関内にあるの。新数寄屋造りの純和風の建物なのに、それが横浜の異国情緒にみごとに調和して、…すごい画期的な設計をされた先生だわ。」
「よくご存じですね。いや、光栄です。」
 高階はにこにこした。拓は高階と坪内に言った。
「僕は、建築についてはまだ本当の素人なんですけど、彼女はインテリアのプロですから、いちおう…いちおうなんつったら失礼か。ちゃんと建築士の資格は持ってるそうです。」
「ほぅ、さようでしたか。どうりで素敵なセンスをしていらっしゃる。」
 高階に褒められ、由布子は恐縮した。
「そんな、先生におっしゃって頂けるなんて、お恥ずかしい限りです。」
「いやいや、とんでもない。ミュゼエをご存じで、僕こそ嬉しいですよ。」
 有名建築家にありがちな尊大な態度が、高階にはかけらもなかった。坪内はシルバーを皿に置き、熱のこもった口ぶりで言った。
「いかがです高階先生。葛生先生の愛弟子をお引き受けしてさしあげては。先生が主催されている目白の教室、ええ何でしたか…」
「『ラカデミィ・ド・コンストラクシオン』ですかな。」
「そう、そちらへご入学して頂くというのはいかがです。一般生徒は募集しておられないそうですが、先生の引きで特別に。」
「ああ、それはいい。うん、ちょうど来月から学期も変わるし、…いいですよ、あなたさえよければ。」
「ほんとですか。」
 拓の表情が輝いた。十月入学は無理だと諦めていた彼にとっては、渡りに舟であるだろう。
「あとで連絡先をお教えしますから…いや、それよりも一度、僕のアトリエへおいで頂きましょうか。学長の小暮君に詳しい話をさせましょう。手続きも、何だったらその時に。」
「はい、よろしくお願いします。」
 とんとん拍子に話が進み、坪内も満足そうだった。
「高階先生のお手元というなら、葛生先生も安心して愛弟子をお預け下さるでしょう。お時間がおありの時はラカデミィ以外でも、高階先生のアトリエでお勉強なさるといい。」
 坪内の勧めに高階は賛同した。
「そうですね。そうして頂きましょうか。ちょうど僕ももう一人くらい、助手がほしかったところです。」
「いいんですか、そんな…。」
 喜びつつも、拓はとまどい気味だった。こんなにうまくいっていいのかという気持ちなのだろう。無名のデザイン事務所でこつこつと、小さな仕事をしながらチャンスを待っている青年は数多いであろうが、一足飛びに高階に付いてハイレベルな助走を始められるとは、何という幸運だと由布子は思った。同業者のはしくれである彼女には、その希少性がよくわかった。
「すごいじゃない、拓。高階先生の助手なんて、なりたくてなれるものじゃないわよ。」
「うん…。だけど、まだ何も知らないド素人だから、すぐクビになりそうな気がしてます。」
 二人の男は揃って、いやいやそんなと首を振った。
「葛生先生のお目がねにかなったあなたが、そう平凡な才であるはずがない。ねえ高階先生。」
「ええ。僕は何度か葛生先生とお話しましてね。あの色彩感覚の素晴らしさには、いくども感動しましたよ。本当の天才ですねあの方は。確か葛生先生は今、イタリアへお出かけとか。」
「はい、新種の花の展示会があるっていうんで、協会のかたがたとベネチアに行ってます。」
 拓たちの話を聞きながら、由布子はワインを飲み、アントレーにナイフを入れた。建築家・高階憲三に師事してデビューできたら、世間の注目は約束されている。拓の夢は思いがけず早く叶うかも知れない。陽介が一人前になるのとどちらが早いだろう。そんなことを考えていた彼女は、ふと、視線を感じた気がして顔を上げた。
 会場には、多くの丸テーブルが並んでおり、それぞれに七人から八人の客が座っていた。ボーイたちは音もたてずにその間を縫って動き、ワインをついだりパンをサービスしたりしている。一番向こう端のテーブルには、影のような集団がいた。メインに近いこのあたりには、穏やかでゆったりとした華やぎがあるのに比べ、最も下座のテーブルに着かされた客たちには、どこか暗い、脇役に甘んじているような密やかさがあった。メインテーブルを取り巻く上座の席。パーティーに来てここを望まない人間はいないだろうなと思った時、由布子はガチャンとナイフを落とした。物陰から何か狙っている野良猫のように、大塚が彼女を見ていた。目が合っても、そらさずに凝視し続けている。ひどく卑しい、陰湿な視線であった。
 

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