【第2部・第2章】bP3
 
「どしたの。」
 拓に聞かれ、彼女は自分を取り戻した。
「ごめんなさい、失礼しました。手が、すべっちゃって。ごめんなさい。」
 シルバーの大きな音はバッドマナーであったが、同じテーブルの六人はさすがに本物の紳士淑女で、すぐに失礼をわびた由布子を、誰も咎めはしなかった。拓だけが表情で、どうかしたかともう一度尋ねた。由布子は微笑んで、大丈夫だと告げた。
 なぜここに大塚が、と彼女は考えた。二百人からが集まっているパーティーだ、何かのコネクションで招かれたのであろう。けれどもその糸が細く頼りないものであることは、彼の席次が物語っていた。とびぬけて若い由布子たちがこれほどの席を許され、大塚は下座に控えている。口に入れた肉を噛みしめ、彼女は、大塚がここに来ていることを、拓には言うまいと決心した。あくまでも無視しきろうと思った。今宵この大切な時間を、よけいな感情で薄めたくはなかった。拓との間に入り込む、わずかな横槍も許せなかった。
 たっぷりと時間をかけたフルコースが終わると、会場は隣の中広間に移った。アルコールが主体のその部屋は、煌く酒盃にふさわしく照明を暗めにしてあって、窓ガラスに映りこむクリスタルのシャンデリアが、騙(だま)し絵のような二重の空間を作っていた。
「いかがですこの花は。あなただったらどのようにこれをお生けになりますかな。」
 三輪は、中央のテーブルに置かれた自作の花器を拓に見せ、さしてある竜胆(りんどう)について意見を求めた。坪内と高階も興味深そうに拓の言葉を待っている。
「ええ、いいと思います。メインは先生の花器じゃないですか。だから変に自己主張するアレンジより、こういう生花(せいか)の形は合ってると思います。」
「なるほど。」
「花よりも、これ、すごいですね。どうやったらこんな微妙な色が出せるんですか。やっぱり釉薬(うわぐすり)で調整するんですか?」
 器に示す拓の関心は、社交辞令ではないらしかった。やきものや掛軸は和室のしつらえに必要なため、由布子にとっても無関係ではない。彼女は拓の腕に軽く手をからめて、三輪の作品を一つずつ鑑賞する彼に従っていたが、そのときフロアマネージャーがさりげなく高階によりそい、何か告げた。
「小暮君が来てる?」
「はい、一階ロビーにおいでです。高階先生にご挨拶を、と。」
「そうか。わかった、すぐ行くよ。」
 黒服のマネージャーを下がらせ、高階は拓に言った。
「今ね、ラカデミィの学長が下に来てるそうなんです。招待客じゃないのにここへ上がってもらうのも何だから…ちょっと、ご紹介だけしておきましょう。一緒に来て下さいますか。」
「今ですか?」
 問い返して、拓は由布子を見た。彼女は手をほどいた。これから世話になるかも知れない学長に挨拶するのに、女づれでは余りに無礼だ。幸い坪内が、
「ああ、いい機会だ、行っておいでなさい。お嬢様はその間この年老いたナイトが、しっかりお護り申しておきましょう。」
 うやうやしく由布子の手を取ったので、彼女も拓も笑った。
「じゃあ、行ってくる。悪いな。待ってて。」
「ええ。」
 拓は高階とともに部屋を出ていった。坪内は三輪に言った。
「将来が楽しみな青年ですな。葛生・高階の両先生にご薫陶を賜ったら、さぞやさぞや、見事に才能を開花させるに違いない。」
 三輪もまた上機嫌で、
「まったく、おっしゃる通りです。つくづくと両氏が羨ましいですね。」
 老人二人は楽しげに笑った。由布子は坪内と三輪に左右をはさまれ、数個の茶器が並べられたテーブルの前に歩みを移したが、そのとき背後で、聞きなれた男の声がした。
「失礼…菅原さんじゃありませんか。」
 大塚、と知って彼女は、はじかれたように振り向いた。片手に酒の入ったグラスを持って、彼は笑いながら立っていた。
「お知り合いですか?」
 三輪は由布子に尋ねた。彼女が答えるより先に、
「ええ、菅原さんとはずっと一緒に仕事をしてきましてね。ああ申し遅れました。ご招待ありがとうございます。」
 大塚は名刺を二人に渡した。三輪は顔から少し遠ざけて名刺を見、わずかに首をかしげたが、それでも常識にかなった笑顔を浮かべて言った。
「そうでしたか。いや、お忙しいところおいで下さって、ありがとうございます。」
「三輪先生のご高名はいつも耳にしております。萩焼は僕も好きで、いろいろ身近に使っていますが。」
「それはそれは。」
「いや、まさかこの席で菅原さんにお会いするとは思いませんでした。驚きましたよ。」
 顔を伏せて、由布子は頭を下げた。三輪たちの手前、あからさまに嫌な顔はできなかった。知能犯の大塚は二人に言った。
「ご存じでしたか? こちらの菅原さんは優秀なインテリアプランナーでいらっしゃるんですよ。彼女の会社と僕は非常につながりが深くて、入社したばかりの彼女にはいろいろとお教えしたんです。全てを吸収してくれて、今ではもう、僕なんぞ足元にも及ばなくなりました。」
「なるほど。それは頼もしい。」
 口先でつなぎながら三輪が、内心まだ首をひねっているのが由布子にはよくわかった。彼にとって大塚は闖入者であろう。大塚と面識があるのは、この中で由布子一人なのである。
「三輪先生、ご無沙汰しております。」
 そこへ誰かが話しかけてきた。三輪はその男を見て、ぱっと笑った。
「ああこれはどうも! こちらこそすっかりご無沙汰をして。」
 どうやら親しい間柄らしく、にこやかに話を始めた。由布子たちの会話からまず三輪が抜けた。大塚は彼女に向かって、
「いかがですお仕事の方は。浦部課長には先日、プレラシオン改築の件でお会いしましたが。」
 さも懇意であると言いたげに話を続けた。由布子には彼の魂胆がわかった。老人たちを遠ざけて、彼女を一人にしようとしている。頼みの綱は坪内だったが、彼は大塚の策略にまんまとはまった。自分は遠慮すべきと勘違いしたのか、通りがかった知り合いらしい男に話しかけるや、彼女を置いて歩み去ってしまった。呆然と見送る由布子を、大塚の目が見おろしていた。
「ようやく独占できたね、君を。」
 大塚は由布子の手を取ろうとしたが、彼女はかわした。人目を利用した彼の態度はふてぶてしかった。
「さあ、久しぶりに乾杯しよう。」
 テーブルからカクテルグラスを取り上げ、大塚はそれを由布子に渡した。着飾った老婦人が、邪魔だという顔をして通り過ぎていった。
「おっと、通り道なんだなここは。もっとこっちへおいで。」
 大塚は由布子の手首に指をかけて引いた。窓のそばのソファーがあいていた。大塚はそこに座った。由布子は少し離れて腰を下ろした。落ち着かなければ、と彼女は思った。拓は葛生の名代としてこのパーティーに来ている。ここで何か騒ぎを起こしたら、拓ばかりか葛生の顔に泥を塗ることになってしまう。それに、拓は今、彼の将来を変えるかも知れない大きな協力者を、得られるかどうかの分かれ目にいるのだ。二重の意味で大切なこの場を、由布子の軽挙で壊すわけにはいかない。それだけは断じてできなかった。
「あんまり綺麗なんで、初めは君だとわからなかったよ。素敵なイヤリングだ。どんな宝石よりそのドレスに似合ってるね。」
 芝居じみた台詞に由布子は答えず、入口の方をすかし見た。
「あの若い男が君の新しいお相手か?」
 大塚は下卑(げび)た笑い方をした。
「どう見たって二十四〜五だな。今度は年下ってわけか。大層な美青年だし、相当のプレイボーイだろう。女の扱いは天下一品てところだろうな。」
 わざとらしく溜息をつき、
「君ともあろうものがあんな男に振り回されて、心配してるんだよ由布子、俺は。」
「あなたには関係ないでしょう。」
 彼女は冷たく言い放ったが、
「いやそうはいかないよ。俺たちのこと、彼は知ってるのか?」
「ええ。」
「本当に? 全部?」
「ええ、全部。」
「それなら彼は本気じゃあないな。まともな男なら、知って平気でつきあえるもんじゃない。」
「憶測でものを言わないで下さい。あなたと私はもう関係ないと、この間はっきり申し上げたはずです。」
 大塚の目が、底暗く光った。ソファーの向こう端からずいと腕を伸ばして、彼は由布子の手首を握った。顔色が変わるのが自分でもわかった。大塚は薄笑いを浮かべ、
「彼が本気かどうか、何なら俺が確かめてやろうか? 聞いてみたいもんだな彼に。『俺が教えこんだ女の抱き心地はどうだ』ってね。あの間男が、果たして何て答えるかな。」
「…酔ってるのね。」
 熱病じみてぎらつく目は、尋常な人間のものではなかった。ディナーの最中から今までに、いったいどれくらい飲んだのだろう。由布子は先程のフロアマネージャーを探した。泥酔した客がいると彼に言おう。しつこく絡まれて困っていると訴えれば、マネージャーは一も二もなく女の由布子に味方してくれる。つかまれた手首をねじってほどこうとしたが、大塚の指は蛭(ひる)のように吸いついてゆるまなかった。
「いま君と抱き合ったら、ここにいるじいさんばあさん、仰天して腰抜かすだろうな。君と彼は目立ってたからね。カップルだってことは全員が知ってるよ。君は彼がいないのを幸い、他の男と楽しんでいたと、全員が証言してくれるだろうな。」
 大塚は力まかせに由布子を引きよせた。グラスが傾いてカクテルが床に散った。大塚の胸に倒れかかる寸前、彼女はとっさにグラスのへりを大塚の手に押しつけ、抉(えぐ)るようにこすった。彼が手を離した。由布子は逃げ出した。マネージャーの姿を探した。三輪でも坪内でもいいと思った。年老いて皺くちゃの知らない顔ばかりがぐるぐる回った。ロビーへ行こうと彼女は思った。拓が学長たちと話しているのはおそらくラウンジだから、フロントの正面で彼を待てばいい。由布子は老人たちの間をすりぬけて部屋を出た。廊下には誰もいなかった。ドレスの裾が邪魔だった。小走りにしか走れなかった。黒に近い紺色の絨毯が、光の届かない深海のようだった。
「待てよ、待ってくれ由布子!」
 大塚は追ってきた。彼女は腕をとらえられた。
「離して! 大声出しますよ!」
「ああ出してみろ。こいつは俺の女だって、こっちも大声で怒鳴ってやる。」
 廊下の左右にずらりと並んだドアは、みなパーティー用の広間であった。そのひとつに大塚は彼女をひきずりこんだ。非常灯だけがついた薄暗い小広間だった。彼は由布子を、壁に押しつけて抱きすくめた。必死で由布子はもがいた。酔った男の本気の力に、絞め殺されそうだった。
「上海になんか行かせたくない。俺のそばに、いてくれないか由布子。」
 言いながら大塚は彼女の耳を噛んだ。イヤリングの薔薇が、二人の肩の間でぐしゃぐしゃにつぶれた。
「そんなこと、できるはずありません。お願いだから離して下さい!」
 由布子は男をつき離そうとしたが、かなう力ではとてもなかった。大塚は泣いてでもいるかのように、彼女の耳に荒い息を吹きつけた。
「俺にはもう何もないんだ。何もなくなっちまったんだよ。由布子、もう、お前しかいないんだ。」
 何もないという台詞に、彼女はプロジェクトの組織図を思い出した。あの中に大塚の名はなかった。NKの林田は彼に会いはしても、参加までは認めなかったのだろう。今日の席次も大塚は最下段であった。彼の前途には暗雲がたちこめ、経営的にもおそらく追いつめられている。なのに由布子は堂々とプロジェクトに加わったばかりか、今夜は主催者のすぐそばのテーブルで、輝くばかりの美青年と並び、薔薇色のドレスで笑っていたのだ。屈辱に足をすくわれると、男は女より陰険になる。酒が悪く作用して、大塚は捨て鉢な気分になっている。何もかもどうにでもなれと、すさんだ狂暴に支配されている。
「ねえ、落ち着いて。あとのこと、落ち着いて考えて下さい。」
 由布子は懇願した。なんとか冷静にさせようとした。少し考えれば大塚にもわかるはずだった。一時の激情に流された暴挙に、益などあるわけはない。
「招待客なんでしょうあなたは。抜け出すなんて三輪先生に失礼だと思いませんか。ね、戻りましょう。さっきあそこにいらっしゃったのは、建築家の高階先生ですよ。すごく感じのいい方だったから、お声かけて、お近づきになったらいいわ。大塚さんのプランは、アジアよりもアメリカの方が似合う。私はそう思うんです。」
 大塚は、突然体を離した。両腕は由布子の肩を、壁に押しつけたままだった。
「…変わったな、由布子…。」
 オレンジ色のライトが大塚の顔を照らした。人相まで違って見えた。彼女はぞっとした。
「そんなこと言う女じゃなかったがな。以前のお前なら、俺に噛みついて抵抗しただろう。…どうした。ん? 俺の機嫌とろうっていうのか。」
「そんな…」
 脚が震えた。由布子は顔をそむけた。
「あの男のせいか? あの若僧がそんなにいいのか。おもちゃにされてボロボロになって、最後は捨てられるぞ。」
 彼女はかぶりを振った。そんな間柄ではないと言いたかったのだが、どうやら大塚は逆の意味に取った。
「目を覚ませ由布子。俺は一度だって、お前と別れようなんて思ったことはない。お前が勝手にくよくよ妄想して、いきなり逃げていったんだ。俺は最初から、女房も子供もどうだってよかった。お前と一緒になりたかったんだよ。」
 一年前なら嬉し涙にむせんだだろう言葉が、今の彼女には全く違って聞こえた。女房も子供もどうだっていい…。父は相手の女に、やはりこの台詞を聞かせたのだろうか。由布子の心に気づきもせず、大塚はたたみかけた。
「あんな若僧にお前の何がわかるんだ。いいかげん自分をごまかすのはやめろ。お前が戻ってきてくれるなら、女房とはすぐ離婚する。誓うよ。だから、由布子…。」
 脊髄を、嫌悪が落雷のように貫いた。彼女は全身を波打たせた。この男をふり払おうとした。
「勝手すぎますそんなの! 自分のことしか考えてないんですか! 奥さんや子供さんはどうなさるんです!」
「お前が気にすることじゃない。どうだっていいだろうそんなもの!」
「離してっ!」
 由布子は暴れた。つぶれた薔薇が血のようにあたりに散った。
「あたしに触らないで! もう顔も見たくない! 最低よあんたなんか ―――っ!」
 彼女は叫んだ。そのとたん目から火が出るほどの痛みを左頬に受けた。わずかに大塚の力がゆるんだ。由布子は体をひねった。動ける。飛び下がって、革張りの扉に体当たりした。廊下へのめり出た。背後で手首を捕らえられた。逃げられないか、と恐怖がよぎったとき、廊下の向こうに人影が見えた。黒いタキシードの肩と、乱れた長い髪は、…
「拓 ―――――――っ!」
 かつて誰に向けたこともない悲鳴を由布子はふりしぼった。振り返った彼の眼が彼女を認めた。だっ、と床を蹴って拓は走った。由布子は掴まれた手首を後ろに引き戻された。大塚はドアの取っ手を引いた。閉ざすことを拓の半身が許さなかった。まともにドアに挟まれながら、彼は小広間に飛び込んできた。
 

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