【第2部・第2章】bP4
 
「いっ…てぇ…」
 胸をおさえてよろめいた彼に、大塚は言った。
「なんだ、ついに間男のご登場か。」
 拓は、薄暗い部屋に目が慣れていないのだろう、眉を寄せて大塚を睨んだ。
「すまないが大事な話の最中なんだ。遠慮してもらえないか。」
「ふざけんなよてめぇ…。」
 大股に拓は歩みよった。
「女、口説く場所じゃねぇだろ。どう見たって嫌がってるぜ。」
「嫌がってる、ね。嫌がってみせながら、裸にすると淫乱なんだこの女は。」
「なに訳わかんねぇこと言ってんだよ。ほら、離してやれって。」
「ほ、カッコいいな。気分はスーパーヒーローか。」
「うっせぇんだよおやじよ。離せよおら。マジぶん殴んぞてめぇ。」
「この女がそんなに好きなのか?」
「おめぇが嫌いなんだよ俺は。」
 由布子を捕らえている大塚の右腕を、拓はグイと掴んで、
「ふられた女に、いつまでもめそめそつきまとうような男がだよ!」
 真上から手首に肘打ちをくらわせた。たまらずに離れた腕を拓はねじり上げた。由布子は逃れた。ころがるように数歩走った。拓はいまいましそうに、
「見苦しいんだっつうの。恥知れよいい歳して。」
 そう言って大塚を押しやり、由布子のところへ来た。舌打ちして顔をのぞきこみ、
「ッたく、探したぞあっちこっち。…大丈夫か?」
 由布子は答えられなかった。膝ががくがくしていた。拓は彼女の肩を引き寄せ、
「行くぞほら。やってられっかよ阿呆くせぇ。」
 歩き出して、ドアに手をかけた。と、大塚は、さも重要なことを思い出したかのように言った。
「そうか…。お前、どっかで見た顔だと思ったら、バイトだろう日比谷フラワーの。」
 拓は一瞬だけ動きを止めた。が、すぐに黙殺して、彫金のほどこされた取っ手を引いた。廊下の光が床に扇をひらいた。そのまま外へ出ようとした彼の足は、
「格好つけやがって。ていのいい男娼ふぜいが。」
 大塚の嘲笑に、凍りついた。斜めに切りこむ影が、拓の顔を半分だけ照らした。無表情の目が虚空を見ていた。大塚は侮蔑を浴びせつづけた。
「その顔武器にして、バイトのくせに大胆にもエグゼの女に手ェつけたのか。どうやってこんなパーティーにもぐりこんだ。さぞや要領よく、女コマしてんだろうな。え? 手当たりしだいに媚売って、金には一生困らんか。大層なもんだよ。」
 大塚は、べっと唾を吐いた。
「男めかけが!」
 拓の全身がこわばった。由布子の心臓は早鐘を打った。拓の腕が彼女の肩を離れた。由布子は悪寒を覚えた。
「…もう一度言ってみろ。」
 不気味なほど静かな、しかし語尾の掠れた声で拓は言った。
「あぁ?」
「もう一度…言えってんだよ。」
「なんだ、そんなに聞きたいのか? ああいくらでも言ってやる。こぎたない男めかけが。いいご身分だ。女エサにしてチャラチャラ生きて、その顔くれた親にせいぜい感謝するんだな。」
 拓は大塚の長身を見上げた。
「謝れよ。」
「何だと?」
「土下座して謝りゃ許してやるよ。今のうちだぜ。」
「馬鹿か、きさま。」
 大塚は声をたてて笑った。
「男娼に下げる頭はないんだよ残念ながら。男めかけならそれ相応に、人のお古の女でも抱いて、すかしたパーティーでへこへこ、お小姓つとめてるのがお似合いだ。」
「めかけって…何だかお前知ってんのか。」
 拓の声は震えていた。大塚は傲然と答えた。
「めかけ? ああ、めかけってのはな、ダニだ。でなけりゃ蛆(うじ)虫だな。人の相手を横からかすめとって、べたべたに嫌らしく媚びへつらって、金せびり取る虫けらのことだよ。そうだ、お前みたいなな。」
「じゃあ、お前は何だよ。お前のしてることは何なんだよ。女房子供、お前いるんだろ?」
「子供?」
 大塚は、クッと頬を歪めた。
「あんなもの、やりゃあ出来るだけだ。俺の子かどうかなんて、わかったもんじゃない。」
 ぴくっ、と、拓の肩がはねた。背中が痙攣した。黒い上着の裾がまくれあがるや、瞬きよりも早く腕が宙を切った。
「てめぇ…!」
 大塚の口から唾液とともに前歯がふっ飛んだ。もんどりうって大塚は倒れた。身を躍らせ拓はとびかかった。大塚は抵抗して拓の襟を掴んだ。横倒しに引きずりおろされ、拓の唇からも血が吹き出した。
「この野郎…」
 拓は両足を振り上げ、全身をしなわせて大塚をふりおとした。
「教えてやるよ、子供ってのはなぁ!」
 馬乗りになった拓の拳が、骨に食い込む音がした。
「親選べねぇんだよ! どんな腐った父親でも、どんな馬鹿な母親でも、生まれちまった子供にはもうどうすることもできねぇんだよ! わかんのかよ、おめぇにわかんのかよ!」
 拓は大塚の胸ぐらを掴み、がくがくと揺さぶった。
「めかけってのはな、おめぇみてぇな腐った男のせいで、独りで子供育てなきゃなんねぇ女のこと言うんだよ! 子供はな、自分に何の責任もないのに、私生児だって後ろ指さされて生きてくんだよ! どうしろってんだよ。子供にはどうしようもねぇじゃねぇかよ! 私生児だって…誰の子供だかわかんねぇ、犬の子同然だって言われたってよ!」
 声はすでに悲鳴であった。拓の目から涙があふれだした。由布子は指先を噛み、自分の身を抱いた。彼女にはわかった。この涙は由布子のためではない。いま彼に見えているのは、ただひとり膝を抱えて泣いていた幼い自分自身だ。望みもせずに産まれた時空で、どうすることもできない不条理を背骨の髄に刻まれ、抵抗の術もなくただ時を耐えた、小さな手と、弱々しい肩と。
『なーんだよぉ、これ、サザエさんの波平じゃねぇかよぉ! へーんなの!』
『あら本当だ。嘘描いちゃだめよ。先生は、あなたのお父さんの顔を描きなさいって言ったでしょ?』
 誰も、彼を守らなかった。愚劣で残酷なあざけりの中、彼はひとり、静かな諦めを抱いてうなだれたのだ。
「てめぇにな、てめぇに父親の資格なんかねぇよ。だけど…だけどてめぇの子供にとって、父親は一人しかいねぇんだよ! 代われねぇんだ。誰も代わりはいねぇんだよ! 腐ったようなけだものでも、父親は世界にてめぇたった一人なんだよ ―――――っ!」
 拓の叫びが鼓膜を突き刺した。
 …この、言葉を。
 誰かに言ってほしかったのだ、拓は。
 世を捨てて逃げることさえ、許されなかった幼い頃に。誰かの強い大きな手が、父の肩をつかんで揺さぶって、自分の想いを告げてくれるのを。父をぶん殴って、罵倒して、ねじふせて、はりさけんばかりに。言ってくれる人が欲しかったのだ、彼は。
 今、二十四歳の彼がそれをしている。遠い、幼い日の自分を、彼自身が守ろうとしている。
 彗星。太陽の背中に、命をかけてひた走る氷。終(つい)の夢と彼は名付けた。自分を拒絶する冷たい背中に、最期に叫ぶ魂の悲鳴。この想いにだけは、母は気づかなかった。あまりに純粋だった母親の愛情と虚像。
「拓…!」
 由布子は駆け寄った。ふりかざした拳を下ろさずにいる拓の背中を抱きしめた。
「やめて、もう、やめて…! 殴る価値ない、この男にあなたが怒る価値なんてない…! もういい。もういいよ。もういいんだよ拓…! 帰ろう? ね、ナヴィールへ帰ろう?」
 拓の髪に由布子は唇を埋めた。胸に深く、彼を抱きしめた。小刻みに震えが伝わってきた。拓の魂が泣いている。由布子は神に、天に祈った。このひとを、どうか神様、私の命に代えてこのひとを守って…。
 暖かさを、手の甲に感じて由布子は目をあけた。拓の背中が静かになっていた。彼の掌が、由布子の手を押し包んでいた。
「そうだな。…帰るか。な。」
「うん…。」
 由布子は立ち上がった。拓も体を起こした。うめきつつ上体を持ち上げようとしている大塚を、見捨てて二人は歩き始めた。
 エレベーターでまっすぐ一階に下りて、正面ドアから外に出た。ゆがんだ蝶ネクタイにボタンの飛んだシャツ、くしゃくしゃの髪で唇に血をつけた拓に、ボーイは一瞬ギョッとしたが、彼が車のナンバーを告げると、かしこまりましたと言って、すぐにランドクルーザーを出してきた。
「サンキュ。」
 ボーイの上着のポケットに、彼は小さく折った千円札をはさんだ。由布子は自分で助手席のドアをあけ、乗りこんだ。拓はシートに着くなりアクセルを踏んだ。タイヤが鳴いた。重力が彼女を背もたれに押さえつけた。
 

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