【第2部・第2章】bP5
 
 日比谷通りを拓はサーキットにした。交差点をドリフトで曲がり、分離帯の切れ目でスピンターンした。対向車の急ブレーキも罵倒も、拓はクラクションで蹴散らした。不思議と由布子は怖くなかった。火だるまになった車の中で、心中できたら本望だと思った。暴れ馬のようなRVは、新橋駅前の混雑すら物ともせずに、昭和通りの黄信号を突っ切った。主(あるじ)の意志に従い美技の限りを披露した、それがランドクルーザーの最期であった。ガリガリッと衝撃がきてエンジン音がやみ、するするとスピードが落ちた。歩道に乗り上げる寸前で、ガクンと車は停止した。
「うそだろ…?」
 拓はペダルをポンピングし、キーをひねりセルを回した。すべて虚しい行為であった。エンジンは二度と応えなかった。放心の目になって、彼はどさりとシートにもたれた。
「最悪…。」
 拓はヘッドレストに頭をのせた。口のはたにこびりついた血は、乾いて赤黒くなっていた。緩慢な動きで彼は唇をこすった。
「いってぇ…」
 親指の腹をちらりと見、彼は舌先で頬を尖らせた。
「大丈夫…?」
 彼の気持ちをうかがうように、由布子は尋ねた。拓は、うんともああとも聞こえる返事をして、内ポケットから煙草を取り出した。
「ンだよこれ…。」
 S字型に曲がったそれに拓は舌打ちし、傷ついた唇にくわえて火をつけた。深々と吸い込み、吐き出して、
「…俺さ…」
 言いかけて彼は黙った。銀座通りのイルミネーションの前に、白い雲がたなびいた。
「俺…」
 やがてもう一度拓は言った。今度はすぐに言葉が続いた。
「おふくろ…死んだあと、親父んとこ引き取られたって言ったじゃん。だけどそれより前に、いきなり苗字変わってんだよな。おふくろが手放さなかったせいで、父親の欄、空白だったのに、なんか知んねぇけど急に認知するとか弁護士が言ってきて、ある日突然、別の名前。」
 立ち昇る紫煙は拓の表情を、ひどく悲しいものに見せた。
「おふくろ死んで、親父んち行って、そしたら本妻の娘三人がさ、こんだ俺のこと追い出そうとして…。信じられる?一番下の奴、夜中に俺のベッド、もぐりこんできたことあるんだぜ。姉貴二人と共謀して、俺に襲われかけたって親父に泣きついて、勘当させたかったらしいんだ。ふざけんなだよな。俺にも好みってもんがあるつうの。」
 拓は思い出し笑いをして、
「親父が浮気したくなんの、まあ、ちっとはわかるんだよな。本妻ってのが…これがキツい。もう『超』だぜ。しかも娘三人、そろって母親似。初めて会ったとき俺、『うわー…』って思ったね、マジで。」
「キツいって…ブス…って意味?」
「うん。そいつらがさ、メシの時とかに、チクチク嫌味言うんだよ。俺のこと言うならいいけど…死んだおふくろのこと、ああだとかこうだとか、けなすんだよな。なんか…俺、腹立っちゃって。生きてる時は、俺もおふくろのこと嫌いだったんだ。いい加減で、わけわかんなくて、見栄ばっか張って全然中身がない。そういう女だって軽蔑してたのに…三人でよってたかって悪口言うの聞いて、俺、すっげぇムカついたの。不思議だよな。一緒になってけなしそうなもんなのによ。」
 拓はクスッと笑い、
「で…なんか『ブーフーウー』見てんのも嫌んなって、高校出てすぐ小杉にアパート借りて、これでもう、親とか苗字とか、そんなもん関係なくなったと思ってたら、親父に結局は監視されてて…。俺、馬鹿だから全然気がつかなくってさ、あいつの部屋に出入りしていい気になって…。どうしようもねぇよな。だっておふくろと同じ、親父の女なんだぜ? それなのによ…。」
 嘔吐する如く彼は言った。由布子は首を振った。知らないうち唇をかみしめていた。
「なんかもう…俺って何なんだか自分でわかんなくなっちまって、名前なんかさ、いらねぇと思ったんだよ。苗字なんて何だっていいじゃん。『拓』だけでいいよ。うるせぇよそれ以外みんな。」
 彼は苦しげに眉を寄せた。彼女は黙って聞いた。いつか芝浦で、由布子の話を静かに聞いてくれた彼のように、彼女は耳と心を傾けた。拓はフロントガラス越しに銀座通りを見た。多くの店はもうシャッターを下ろしていたが、ヘッドライトは途切れもせずに流れ、人々は残暑の街を、せかせかと歩み、行き交っていた。
「いいじゃない、『拓』で。」
 微笑んで、由布子は言った。
「あなたがあなたでいてくれれば、幸せだって人はたくさんいるわよ。高杉さんも陽介さんもあなたのおかげで、幸せ…って言うと大袈裟なら、楽しい思い、してると思うな。ほら葛生先生だってそうよ。あなたの本当の姿ちゃんと見ててくれて、あなたのよさをわかってくれてるわけでしょ? いいじゃないそれで。それ以上望んだら贅沢よ。ばちが当たるってもんだわ。」
 拓は由布子を見た。光の帯が贈り物のようにリボンを巻いたこの街で、拓の瞳が由布子を見つめた。宇宙だと彼女は思った。落ちこみそうな深い眼差しだった。
「由布子…」
 見つめたままで、拓はつぶやいた。
「…言って…いいかな…。」
 眩暈(めまい)を、彼女は感じた。大輪の薔薇が心臓の上で開いた。一秒が長く重かった。何を…彼は、ああ次に何を言うだろう。
「ごめん…。」
「えっ?」
 ぎくりとした彼女に、
「由布子、さ…」
 真剣な顔だった拓は、そこでぷうっと吹き出した。
「ごめん。由布子、目がパンダ。」
「ええっ?」
「さっき泣いたろ。だからマスカラ落ちて…。」
 拓は頭上のバックミラーを、キュッと彼女の方に向けた。
「見てみ。けっこうすごいことになってる。」
 覗きこんで由布子は息が止まった。
「やだ…あたし、こんな顔で帝国ホテル歩いてきたの?」
 パンダとは適切な比喩だった。でなければ歌舞伎の、弁慶の隈(くま)取りである。滑稽というか壮絶というか、子供が見たら泣きだすであろう。
「なんでもっと早く教えてくれないのよ!」
 頬と頭に、かあっと血が昇った。拓は拳を口にあて、必死に笑いをこらえつつ、
「だってさ…言ったら、俺ぜってー吹き出すもん。そういう雰囲気じゃなかったじゃん今。」
 由布子はハンカチでこすったが、ファンデーションと混じってかえってひどくなった。
「ね、お願い。水探してきて。」
「水? …いま?」
「こんな顔で一秒だっていたくないわよ! ねぇ、お願い。ハンカチかティッシュ、濡らすだけでいいから。」
「唾でこう、ペッ!てできねぇ?」
「ほんとに怒るわよ拓…」
「わかったわかった。Just moment!」
 彼は車から飛び降り、笑い声を残して走っていった。由布子はバッグからコンパクトを取り出し、顔を写した。見れば見るほど物凄かった。つい今しがたの、あのしんみりした会話の最中に、拓はこの化粧崩れをいつ言うかいつ言うか、タイミングを測っていたのだろうか。何て奴だ、と由布子は思った。これでもう今度こそわかった。あの男は金輪際、私を女とは思っていない。
「お待たせ。」
 はずむように走って戻ってきた拓が、手にしていたのはウーロン茶の缶だった。
「なによこれ?」
「なによって、水売ってる自販機なかったんだよ。」
「これでやれっていうの?」
「だってコーラじゃベタベタすんだろ? あ、アクエリアスの方がよかった?」
「…いいわよこれで。」
 拓はプルトップを開けてから、はい、と手渡してくれた。由布子はまずティッシュを三枚重ねて指にはさみ、ウーロン茶をその上にたらした。拓はニヤニヤと面白そうに観察している。
「見ないで。」
 由布子はドアの方に体を向けた。
「持っててやろっか? その缶。」
 伸ばされた手に、彼女はそれを渡した。たっぷりとウーロン茶を塗りつけ乾いたティッシュで拭きとると、どうにかこうにか弁慶は消えた。目の回りのファンデーションとアイシャドウも、一緒に取れてしまうのはいたしかたないだろう。
「もうちょっとちょうだい。」
 ティッシュを取り替えて手を出すと、拓はその紙に、そろそろとウーロン茶をたらしてくれた。何とか人前へ出られるくらいに汚れを落とし、由布子はコンパクトの蓋を閉めた。パチン、という音を合図のように、
「…どれ。落ちた?」
「落ちたわよ。」
「どうだかな。ちょっとこっち向いてみ。」
「いいったら。」
「怒んなってそんなに。」
 拓はクスクス笑い、首を曲げて彼女の顔を覗きこんだ。
「あんまさ、変わんねぇよな由布子って。まぁ多少は部品がくっきりするけど…それほど、あんた誰?ってほどは変わんないね。」
 幸枝が聞いたらがっかりすると彼女は思った。昼間あれだけ時間をかけたのに、拓曰く『あんま変わんない』とすれば。…いや、そうではないと由布子は思い直した。私がどう化粧しようと、拓には決して女扱いされない。幸枝が着付けしてくれたこのドレスも、無駄骨だったなと思うと悔しかった。毎晩毎晩マッサージしてパックして腹筋体操をして、あれはいったい何だったのだろう。我ながら処置なしの馬鹿だった。ぐつぐつと腹が立ってきた。拓は残ったウーロン茶を、律義にもきちんと飲み干している。この人でなし。鈍感。見かけ倒し。由布子の罵詈雑言(ばりぞうごん)が伝わったのか、彼は横目で彼女を見た。ぷふっ、とまた吹き出されて、彼女の堪忍袋の尾は切れた。
「…何がおかしいのよっ!」
 芝浦の時と全く同じ調子で、由布子は怒鳴った。拓はホールドアップして、
「悪い! ごめん。笑って悪かった。」
「悪かったじゃないわよ! ほんとに…ほんとに人の気も知らないで! 人を何だと思ってるのよ!」
「だから、ごめんって。悪かった。反省してる。うん、マジで。ほんとごめんなさい。この通りです。」
「地蔵扱いしないでっ!」
 合掌した拓の手を、ビシャッと由布子はなぎ払った。
「いってぇー!」
 彼は大袈裟にハンドルへはじき飛ばされ、
「お前、俺…手は怪我してんだぞ。ほら。」
 赤紫色になった甲をかざした。さも痛そうにこすりながら、彼はふとりヤウインドゥを見、あっと声を上げた。
「来た来た、JAF。由布子、悪い。おりてくれっかな。」
 大型トラックがすぐ脇に停まった。動かなくなったこの車は、彼らに運んでもらわなくてはならない。多分ウーロン茶を買いに行ったとき、拓が電話で呼んだのだろう。由布子はドアを開け、ステップに足を下ろした。
「だいじょぶか?」
 彼は聞いてくれたが、彼女は無視して飛び下りた。どうせ女ではないのだから、しとやかに気取っても意味はない。
 拓の愛車はJAFのトラックに積み込まれた。由布子は少し離れたところに立って、拓と運転手たちのやりとりを見ていた。連れ去られていくランドクルーザー80に、彼は手を振った。『気に入ってんだけどなこいつ』と言った、彼の声が浮かんで消えた。
「あんな無茶な運転するからよ。」
 由布子はつぶやいた。拓は銀座通りに向かいあい、片手を腰にとった後ろ姿で、夜風に髪をそよがせていた。タクシーの出払う時間帯であった。黒い絹に包まれたしなやかな背中に、由布子はじっと目を当てた。手を伸ばせば届くところにいながら、想いはついに重ならないのだ。にじみそうになった由布子の視界で、
「…な。」
 彼は突然、勢いよく振り返った。
「歩かねぇ? 地下鉄の駅まで。」
「地下鉄?」
 また何を言い出すのかと、由布子は面食らった。
「うん。タクシーなんかじゃなくて、地下鉄で帰ろう。」
「こっ、この格好で?」
「うん。」
「馬鹿言わないでよ! 何だと思われるじゃないの!」
「いいじゃん思われたって。別に裸じゃねぇんだから。」
「そんな…」
「いいからさ、行こうよ。」
 彼はもう歩き出していた。
「いやよあたしは。」
「あそ。じゃな。ああ、また電話するよ。気をつけてな。」
 後ろ姿で手を振って、拓はすたすた歩いていった。立ち止まる気配は全くない。由布子は彼のあとを追った。
「待ってよ拓! まさか本気なの?」
 彼は歩調をゆるめなかった。細いヒールで彼女は走り、
「待ってったら、ねえ!」
 ようやく追いつくと、拓は、ほらと言って左腕を差し出した。
「つかまれって。一列で歩いてたらもっと変じゃん。」
 彼は肘を揺すった。由布子はためらった。拓は彼女を見おろし、照れたような、くすぐったいような、困ったような笑みを浮かべた。初めて見せる表情だった。が、すぐに彼は、きりっとくそまじめな顔になり、
「んじゃ…こうだな。」
 すいと左腕を伸ばした。五本の指が、ぽんと彼女の肩先に置かれた。えっ、と思う間もなかった。ぐいと強い力で引き寄せられた。由布子の肩をしっかりと抱いて、拓はずんずん歩き始めた。
「ちょっ、ちょっと、拓…!」
 歩道をこちらへ向かってくる人間たちは、皆ぎょっとして二人を見た。着崩れたタキシードの男と、化粧の剥げた薔薇色のドレスの女が、肩を組んで闊歩しているのだ。その異様さに人々は目をむいた。振り向くばかりか、立ち止まっていつまでも見ている者さえあった。由布子の顔は火を吹いた。充血した耳たぶの脈動を、イヤリングが増幅した。左の薔薇は無傷であった。頬の上で燦然と咲き誇っていた。
「なんか、みんな見てやがるな。」
 挑戦的に拓は笑った。この街と行き交う人々に、挑みかかる若獅子のようであった。
「当たり前よ、誰だって驚くわよ、こんな…。」
「気持ちいいじゃんこういうの。舞台でライト浴びてるみたいで。」
 彼の背後でヘッドライトがはじけた。本舞台から張り出す花道に、この大通りはよく似ている。縁どってずらりと並ぶ街灯、喝采を思わせるクラクション。目も眩むほどのシーリング・スポットライトが、拓の姿をとらえ、追っている。金粉は由布子にも降り注ぎ、煌く粉雪となって体中をおおった。光の中にいま私は、拓と二人で立っている。彼女は瞼を閉じ、またひらいた。二回、三回と繰り返した。消えなかった。何も失われはしなかった。眼に映る全てのものが、彼と由布子を祝福していた。彼女は笑った。だんだんと声を上げて笑った。それ以外に想いをあらわすすべはなかった。銀座通り、光の王道を、二人はいま征服し凱旋している。白く輝く道はこのまま、あの港まで続いているのか…。
 由布子は右腕を拓の体に回した。拓はその手をそっと包み、握った。彼の指。彼のぬくもり。夢ではないのか、信じていいのか。このひとは私のこいびとであると。あなたのことを呼んでいいのか。わたしのひと、と。わたしの拓と。
 足元を、川が流れていた。歓喜の波によろめいて、由布子は幾度も転びそうになった。

( 第三部第一章に続く )
 

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