【第3部・第1章】 bP
 
 爽やかな秋の陽差しが、窓下に連なる街路樹の葉を光らせていた。NK本社会議室ではその日、チームリーダー渡辺以下八人が集まっての、グッドラック・プロジェクト販売設計施工チームの打合せが行われていた。メンバー一人ずつに渡辺は、前回出した宿題、『付加価値を強調した提案型の営業戦略』の例を発表させ、ある者には鋭い示唆を、またある者には的確な改良案を与えた。彼が由布子を指名したのは七人目、最後であった。
「じゃあ次、菅原さん。」
「はい。」
 彼女は立ち上がった。用意してきたコピーを取り出し、
「一部ずつ取って回して下さい。」
 隣の席の男性社員、岡山に手渡した。大ベテランの先輩たちに注視されているのに、不思議なくらい彼女は落ち着いていた。いずこからともなくやってきた勇気の神が、胸のうちに宿っている気分だった。とある大きな幸福感が由布子を支えている。その正体は言うまでもない、拓であった。
 銀座通りを歩いたあの夜以来、由布子と拓は互いの距離をゆっくりと確実に縮めていた。恋人、の行為はまだ何ひとつ存在せず、言葉という記号で心を表しあってもいなかったが、友達とは断じて違う甘い光を由布子は、自分を見る彼の目の中にはっきりと認めていたのであった。
 由布子にはプロジェクトとIP(インテリア・プランナー)の仕事が、拓には高階(たかしな)に入学を許されたラカデミィの授業と葛生のスクール、それに相変わらずアルバイトがあって、毎日会うのはとても無理であったけれど、拓の声を聞かない日は、あの夜を境に彼女にはなかった。今日はこんなことがあったとか、お昼には何を食べたなどの他愛もない話をし、今度の休みにはどこへ行こうか相談しあう。恋の、あるいは最も幸せな時期を、彼女は大好きなケーキを少しずつ味わうように噛みしめていたのだ。
 資料が各メンバーに渡ったのを確かめ、由布子は話し始めた。
「私は、皆さんと違って、いわゆる営業系管理職の知識は全くありません。もちろん現在勉強中ですが、今の段階で私に考えられるのは具体的な商品なのではないかと思いまして、上海で販売する新しい住宅のプランを今日は発表させて頂こうと思います。」
「うん。なるほどね。具体的っていうのはいいことだね。」
 渡辺は言った。『プランなんか宿題の答えにならない』と言われるかなとの不安を、由布子は今の一言で捨て去ることができた。彼女は説明を始めた。四ケ月前の梅雨の夜、大塚に見せられたプランを反面教師として思いついた建物である。必要最低限の設備以外は全て取り払い、屋根と壁と床と窓、それに階段と水回りだけの、シンプルこの上ない住宅だった。建物本体にさまざまなプラスアルファを付けて割安感と高級感を出そうというのがこれまでの主流であったから、そういった商品を見なれた目には奇異に映るかも知れない。七人の反応が全くないのが気がかりだったが、由布子は説明を続けた。
「住む人と共に家も成長する、という表向きの意味と、プロジェクトの全てはここから始まるという意味をこめてL’enfance(ランファンス)…『黎明(れいめい)』と仮称をつけてみました。いらないものを外してしまえばその分価格は下げられますし、NKが現在提唱している『一世紀住宅』としての質も、全く落とさずにすみます。」
 彼女は一同を見回した。座がしんとしてしまっている。これでは先へ進めず、彼女は救いを求めるように渡辺の顔を見た。彼は片手を口元にあててじっと紙面を見ており、代わって口を開いたのは河本という男だった。
「まぁしかし…なんて言うかな…。ここまでやっちゃうか。女ってのは大胆だなぁ。」
 感心と嘲笑の真ん中あたりの感情が言葉にこもっていた。左右の男たちがざわざわと笑った。
「そうでしょうか。」
 こういう態度をされるのが一番悔しい。だがここで感情的になったら負けだと彼女の経験が教える。由布子は冷静に反論した。
「中途半端に設備をけずると、むしろ手抜きの感じが強くなりますし、アイテム数を減らさずに価格を下げるとすれば、質を落とすかまたは利益率を落とすか、どちらかの方法しかないと思います。でもこのように設備自体を除いてしまえば、何より大きなメリットは利益率を21%確保できるということです。」
 昨夜の電話で拓は、男には数字で説得すると案外効くぜと教えてくれた。そのアドバイスは正しかったらしい。渡辺は大きくうなずいて、
「なるほど。いいね、こりゃ面白いわ。今までの常識を覆すような戦略的な商品だ。少なくとも発想は間違ってない。いいよ菅原さん。」
「本当ですか。」
 褒められて、由布子の声ははずんだ。
「ああ。こういう斬新なアイデアは歓迎だ。今日出たいろんな提案の中で、俺としてはトップだと思うねこれが。ねぇ河本くん。君の意見は絵に描いた餅どころか、絵に描いた富士山だったもんなぁ。」
 例えの妙に一同は笑った。それがおさまると渡辺は、
「じゃあね、菅原さん。これにもう一つだけバリエーション加えて、早急に仕上げてくれるかな。二階を最初から二間(ふたま)に区切って、一部収納スペースをつけたやつ。その両プランで現地価格も試算して出してくれ。レートは現在のでいいからな。」
 由布子ははいと答えたものの、心では嘘でしょとつぶやいていた。プラン追加ばかりか積算及び見積もすぐにやれとのリーダー命令。次に跳ぶハードルをいきなり高くされた気がした。
「ああ、それと菅原さんね、あと一つ大事なこと。」
 思い出したらしく渡辺はつけ加えた。
「このプラン作るにあたって、NKの商品企画部に相談した?」
「…いいえ、してませんが。」
 答えると彼はニヤッと笑い、
「よーし、上首尾だ。これからも言うなよ。グッドラック・プロジェクトのオリジナルプランとして独占販売するからな。国内商品として先を越されちゃ困る。極秘プランだ、いいね。」
 渡辺は営業畑特有の競争心をのぞかせた。彼は今後このメンバーに、いい意味でのライバル意識を植え付けていくつもりだろう。女の―――という言い方は癪にさわるけれど、由布子がまず一歩先んじれば、遅れてなるかと男たちも俄然馬力を上げてくる。そこまで読んでの渡辺の作戦だったのかも知れないが、ともあれ『ランファンス』はGoサインを出された。出されたからには実現させなければならない。会議が終わると由布子はそのままコンピュータルームに向かった。IDカードは八重垣から正式版を渡されている。彼女はもうNKの大情報バンクに自由に出入りできる身になっていた。
 カードを通し、暗証番号を入力するとドアが開いた。ディスクの回転音に満ちた部屋の中には、偶然関根の姿があった。
「おやま、いらっしゃい。」
 スーパーレディーは端末越しに手を振ってくれた。会釈して近づいていくと、
「どうかなプロジェクトは。おじさんたちとうまくやれそう? セクハラされたら言いなさいね。私がぶん殴ってあげるから。」
 こういう上司を持てたら女子社員は幸せである。由布子は関根の隣に座り、アカウント『YUKO2』を入力した。
「ありがとうございます。皆さん大ベテランですし、私なんてまだまだ。でも渡辺リーダーが『女だから』って扱いはしないで下さるんで、嬉しいです。」
「ああ、その点渡辺さんは大丈夫。奇妙な偏見、ないからね。そのかわり女だろうと容赦しないんで、逆に新人の女の子が重圧でやめちゃったりして。なかなかうまくいかないわねぇ。」
 関根のキー操作はさすがに手慣れていて、会話をしながらも両指は滑らかに動いている。だがそんな離れ業は由布子には無理だった。ウィンドウズしか使ったことはない。
「何のデータが欲しいの?」
 少しすると関根が尋ねてくれた。じつはかくかくしかじかで、現調材の材料費と加工費が知りたいと答えると、
「ん、だったらいいのがある。ちょっと待ってね。」
 手を伸ばして受話器を取り内線コールして、
「もしもし、関根です。八重垣くんいる? …あっそ。じゃあ終わったらすぐマシン室来るように言って。大至急。走って来い!って。はいお願い。」
 まもなく本当に息をはずませてやってきた八重垣に関根は言った。
「あのね、NK・CAD(キャド)で使えるようにコンバージョンしたプロジェクト用の単価マスタがあるでしょう。あれを菅原さんにあげてくれる?」
 八重垣は由布子を見ると明らかに嬉しそうな笑顔になった。
「こんにちは。なんかちょっと、久しぶり、ですよね。」
 だが由布子は、
「お世話になります。お忙しいところすみません。」
 としか言えなかった。彼はいそいそとフロッピーを取り出し、
「現地価格のデータですか? もうそんなのが必要なんだ。順調みたいですね。すごいな、さすがだなぁなんか。」
 しきりに話しかけながら、魔法めいたコマンドを次々マシンに打ち込んでいった。あっという間にフロッピーを五枚作りラベルまで貼って、ゴシック体を思わせる筆致でタイトルと連番を記入してくれた。さらにエグゼにあるCAD機へのインストール方法を図解つきで説明する彼に関根は、
「なぁにサトルちゃん。やけに親切ね。フェミニスト八重垣の本領発揮ってところ?」
 少しばかりオヤジ的なことを言ってからかった。が彼はサラリとかわし、
「いやだな係長がおっしゃったんですよ? 菅原さんには色々教えてあげてねって。それでなくても同じプロジェクトのメンバーなんだから、協力しあうのは当たり前じゃないですか。ねぇ。そうですよね。」
 同意を求められて由布子は微笑み返し、内心複雑な気分だった。女は、自分に向けられる男の好意に対しては天性の嗅覚をそなえている。しかし申し訳ないが八重垣のそれに、応えることはできないのだ。
「あれ? そのブレス。」
 由布子の左手首を見て彼は言った。腕時計の他に、細い銀鎖のブレスレットが巻かれている。
「こないだうちは、してなかったですよね。菅原さんて係長と同じで、女の人なのにアクセサリーしないんだなぁと思ってたけど。でもそれ、似合いますよ。素敵なブレスじゃないですか。」
「え、…ええ。」
 無意識に手首を隠すしぐさの意味を気づいたかどうか、彼は丁寧に説明を終えると、じゃあまたと言ってマシン室を出ていった。
「変わった子でしょ、彼。」
 関根の口調はまるきり女教師だった。
「個性的っていうか、面白い子よ。外見はけっこうカッコいいと思うんだけどね。」
「そうですね。」
 肯定するのにやぶさかではない。確かに八重垣は世間水準からすれば文句なしの美青年だ。細身でノーブルでファッションセンスもいい。もし拓がいなければキープしておくべきレベルだなと、由布子も、いつか幸枝の言った『相手を量(はか)る目』で彼を値踏んだ。そう、このカリキュレーションが完全に停止することを『惚れる』と言うのかも知れない。損得も勘定も抜きで、そのひとしか見えなくなることを。
 由布子の手首に光る銀のブレスレット。実はこれは先週の日曜日、拓にプレゼントされたものだった。
 いや、プレゼントというほどあらたまってはいないかも知れない。二人で渋谷を歩いていて―――それもデートというよりは散歩に近い雰囲気で、腕さえ組まずに、でも笑いあいながら、公園通りを下ってきた時のことだった。たまたまステーショナリーの小物やアクセサリーをワゴンに入れて歩道に出している店があって、その中の、あひるの形をしたペーパーウェイトに目をひかれ、由布子は足を止めたのだ。
「そういや由布子って、アクセサリーあんましないのな。」
 つきあうようにワゴンを覗き、拓は言った。彼女は首をかしげ、
「うーん…別に、しないって訳じゃないんだけど、よく、なくすのよね。」
 それは本当のことだった。ひょいと外してはどこかに置き、置いたのを忘れてはなくすのである。
「二十四金のペンダントどこかにやっちゃった時は、悔しくて涙出たくらい。まぁ、まず大丈夫なのは腕時計くらいかなぁ。はずさないしね、そんなに。」
 何の気なしにそう言って、由布子はペーパーウェイトを一つ選んだ。ほら可愛いでしょと言いかけると拓は、すぐ隣のワゴンから何かよりわけている最中だった。
「なに?」
 問うと、彼は台紙とセロファンでラッピングされた五種類のブレスレットをトランプのように扇形に広げた。
「どれがいい?」
 予想もしなかった質問に彼女の心臓は跳ねた。
「時計なくさねぇならブレスレットは平気だろ。俺的に好きなやつ選んでみたから、最終決定は使用者。」
「私…に?」
「たりめーだろ。俺がしてどうすんだよ。」
「でも…」
 喜びが大きすぎて反応が遅れた。信じられないほど鼓動が高い。
「全部とか言うなよ。限定一個。はい、どれにすんの。決定は迅速に。神様のゆーとーりでも何でもいいから、ほら。」
 拓は腕を伸ばして由布子の前にそれらを突きだした。太いチェーンや二重になったものや、飾りがいろいろ付いたものの中から、
「…じゃ、これ。」
 細い鎖に一つだけ四分音符が下がっているデザインを彼女は選んだ。
「これか?」
「うん。」
「OK。」
 他の四つをワゴンに戻し、ついでに由布子の持っているあひるもひょいと取り上げて、拓は店の中に入っていった。レジの女店員がキーを打ち出したところで彼女はおいつき、
「あの、今、していきます。」
 彼の肩越しにそう言った。ブレスを受け取り、先に店を出た。Gパンのポケットに財布をしまいつつ拓が出てきた時、由布子は歩道で左手首に銀の鎖を巻き終えていた。
「ありがと。すごく素敵。」
 手首をかざし、揺らして見せると彼は、
「んな大したもんじゃねぇよ。」
 怒ったように言い、歩き出しながら、
「あのさ、そこの、本屋つきあって。買うもんあっから。」
 親指でさしておいて、くるりと背中を向けた。あれ?と由布子は思った。こんなに照れ臭そうな拓は初めてだった。こころもち肩をそびやかして、ずんずんと歩いていくジャケットの背中。すぐ後ろに由布子がいることを、十分感じている広い肩。彼女の胸を満たす幸福感はこの世に比べるものとてなく、銀鎖のブレスレットは一瞬にして、由布子の一番の宝物となった。
 彼女がそれを外すのは入浴時と洗顔時だけで、しかも外したあとは必ず指さし呼称し、
「ここに、置いたっ!」
 これでなくすはずがない。あの時の拓の、ちょっと鼻を鳴らしながらそっぽを向いた横顔を思い出すたび、由布子は自分の左手首を、まるで彼のものであるかのように抱き締めずにはいられなかった。
(なんだか中学生みたいね。)
 自嘲の笑みさえ幸福に彩られる、恋というものの甘さ、不思議さ。拓に贈られた初めての『形あるもの』を手首に光らせ、彼女はNK本社を出てナヴィールへ向かった。
 

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