【第3部・第1章】 bQ
 
 拓はランクルの80を廃車にしたあと、白に近いアイボリーのシトロエン・パラスに乗り替えていた。ずいぶんと毛色の違う選択は、外車のバイヤーをやっている友人の勧めによるものらしい。旧型でデザインも古く昔のフランス映画に出てきそうな車だったが、RVとは別の意味で彼には似合うかも知れない。そのシトロエンがナヴィールの駐車場に停まっていた。彼女は駆け込まんばかりに店のドアをあけた。
「いらっしゃいまぁしー。」
 香川の明るい声に続いて、
「よ。」
 拓はいつもの笑顔で軽く手を上げた。珍しくドリアを食べている。彼の向かいに座る前に厨房へ挨拶に行くと、
「おお、いらっしゃーい!」
 高杉はニコニコと手を振ってくれた。幸枝も隣でこんばんはと笑った。明日の仕込みらしい作業に高杉は汗を浮かべ、
「いやぁもうねぇ、ここんとこ連日ランチタイムは満席で。モーニングも好評だし嬉しい悲鳴あげてますよぉ!」
 肘折温泉のお地蔵様は、思いのほか霊験あらたかだったのかも知れない。トレンチを抱えて香川もやってきて、
「ほんっと忙しいですよ最近。ホールでね、手休めてるヒマもないくらい。おかげで俺も時給アップしてもらったし、世の中そんなに不景気かい?って言いたくなりますよね。ね、久さん。」
 その呼び方も板に着きだしていた。店構えやメニューのよしあしも重要だが、ナヴィールに客足を呼んでいるのはこの、スタッフのチームワークのよさであろう。何とはなしに『感じがいいな』と思った店を、客は贔屓にしてくれる。
 ドライカレーをオーダーして席に戻ると、紙ナプキンで唇をぬぐいつつ拓は言った。
「俺ね、あしたっからちょっと京都行ってくるわ。」
「京都?」
「うん。葛生先生のアシスタント。だいぶ前から話は聞いてたんだけど、明日、つうのは急に言われて。京都にオープンする博物館のイベントで『古今華錦(こきんはなにしき)』ってのをやんのね。そこに先生が大作出すのと、俺にもさ、出さしてくれるっていうんで。」
「へぇ、すごいじゃない。出展できるんだ。」
「ま、な。いろいろアイデアはあんだ。でもどれにすっかは向こう行って決める。」
「ふうん。なんだかすっかり『アーティスト・TK』って感じね。」
「コムロじゃねぇっつの。」
「どれくらい行ってるの? 一週間くらい?」
「いや、そんなにはない。三日間…二日半だな。金曜の午後にはこっち着く。でもちょっと向こう行ってる間は、電話できねぇと思うんで…」
「いいわよそんな。遊びに行く訳じゃないんだし。」
「そのかわり何かみやげ買ってきてやるよ。リクエストある? 西陣の帯とかじゃなきゃ…」
 彼が言い終わらぬうち由布子は即答した。
「『おたべ』。」
「あ?」
 何だそれ、という顔の拓に、
「生八ツ橋。京都名物でしょ? いろいろ銘柄があるけど『おたべ』がいいの。」
「まぁた食いもんか? お前らしいのな。」
 呆れた様子で、だが彼はクスッと笑った。由布子は続けて、
「中学の修学旅行が京都でね。新幹線おりてからはずっとバスで、あっちこっちぐるぐる見て回ったの。そのバスのシートの裏のところにズラッと『おたべ』の広告が並んでたのよ。それが強烈にインプットされちゃったのよね。生八ツ橋っていえば『おたべ』のことだって、いたいけな十五歳の頭には。」
「へぇ。なんかそれ、すげぇコマーシャル効果じゃん。そんなん見てっとみんなして、京都タワーの売店で『おたべ下さぁい!』とか言うんだろ。」
「そうそう。売り上げに貢献してると思うわよあのバス広告。」
「俺も修学旅行は京都だったけど、そんなんなかったな。バスガイドさんがさ、俺らの車だけすっげ美人で、やったラッキー!なんて喜んでた。」
「そうなのよね。男の子ってバスガイドさんのチェック好きよね。やっぱり制服には弱いものなの?」
「俺に聞くなよ。…あ、そう言えばプロジェクト、どした。」
「あれ? 強引に話題変えた?」
「変えてない変えてない。なんか…ほら、新しい住宅提案するとか言ってたじゃん。どうなったかなーとか思って。」
「うん、おかげさまでね、Goサインもらいました。」
「マジ? へー、よかったじゃん。苦労した甲斐があったろ。」
「そうなんだけど、さっそく現地価格で見積まで出せって言われちゃった。まぁた明日から大変。嫌になっちゃう。」
「贅沢な悩みだろそれ。ボツったら今ごろ、くれー顔してたくせに。」
「そうね。『自信なくしちゃったぁ』なんて愚痴ってたかも。」
「だろ? まぁ愚痴は愚痴でちゃんと聞いてやっけどさ。」
「ほんと?」
「ああ。そりゃそうだろ。愚痴の一つや二つ、いつでも聞くって。」
 拓はストローでアイスコーヒーをかきまわした。氷がくるくる回っている。優しさの続きを聞きたくて、由布子はためらいがちに言葉をつないだ。
「一つ二つ…じゃ、ないかも知れないわよ? たまたま今日はOKもらえたけど、いつつまづくかわからないし、没になっちゃうかも知れないし。そしたらあなたが嫌になるくらい、グチグチ泣きごと言っちゃうかも。それでもいいの?」
「いいよ。いくらでもお聞きしましょ? だってほら、俺ら…はさ。」
 人差指を素早く動かして、拓は由布子と自分を交互に指した。言いたいことは言葉を介さず、心に直接飛び込んできた。―――俺らはさ、つきあってる訳、だから――――
「まぁもちろんうまくいった話の方が、聞く方としても嬉しいけどな。お前だってそうだろ? だから、Goサインもらったんなら頑張れよ。な。」
「そうね。」
 彼女は拓の瞳にうなずき返し、
「ハードルは一つずつ跳ばなきゃね。あなたも京都で、納得のいく作品が作れるといいわね。」
「そだな。でもバイトもスクールも離れて何か作んのって、初めてなんだな俺。やっべ、そう考えたら何か緊張してきた。」
「大丈夫よ、愚痴なら聞いてあげるから。」
「なに、もしかして失敗するって決めてねぇ? んな失敬な奴にはみやげ買ってきてやんねぇぞ?」
 そんなやりとりをしていると香川が、やけにしずしずと控えめな動きでドライカレーを運んできた。そっと由布子の前に置き、
「あーあーいいですねぇお二人はらぶらぶで。なんかアテられちゃうよなー。…ねぇ久さぁん、ホールにクーラー入れませぇん? 熱くってかなわねっすよぉ。」
 会話を聞かなかったとしても香川には、感ずるものがあったのだろう。わざとらしい大声で言いながら、厨房の方に戻っていった。
「何言ってんだあいつ。馬鹿じゃねぇ?」
 笑いに紛らわして言う拓の顔を、赤面した由布子は正視できなかった。ふわふわと湯気を立ち昇らせている茶色いライスの粒に、彼女はスプーンを差し込んだ。幸せだった。
 
 ナヴィールを出、車に乗ると拓は、
「わり、今日ちょっとスクール寄んなきゃなんないんで…中目黒の駅まで、な。」
 助手席の由布子を片手で拝んだ。
「あら、じゃあ遠回りでしょ? いいわよ歩くから。下りようか?」
「いいよ。駅までなら目と鼻じゃん。」
 彼はアクセルを踏み、シトロエンは車道に出た。
「明日っからの京都行きの件でさ、今夜は先生とちょっと打ち合わせ。資料とか、いちおう目通しとかなきゃな。あの先生も元気っつうか、イタリアから帰ってきて今度は京都。カンが狂ったりしねぇのかな。」
「そうね。でもイタリアと京都なんて、案外面白いミキシングができるんじゃないの? 一見水と油なのに、合わせてみたらすごくいいってこともあるし。ほら、『鬼平犯科帳』のエンドテーマ! あれと同じで。」
「鬼平? いやー…俺、時代劇は観ねぇからな…」
「あのね、エンディングでスタッフロールが流れるじゃない? そこの画面がね、江戸の四季の風物詩なのよ。桜に花火に紅葉に雪。日本情緒の極みって感じの映像にかぶるのは、なんとジプシーギター。これがね、もぅ、すっごく素敵なの。江戸情緒にジプシーギター。これ並べて出されたらびっくりしない?」
「ジプシーギターって、モロ、ラテンだよな。スペインとか、あっちの方の。」
「そうそう。江戸の風物詩にラテンが合うなんて、普通想像もつかないでしょ? いったい誰が選曲したんだろうって、観るたびに感心するわ。」
「へー。それってさ、ビデオ録ってないの。」
 拓は俄然興味のある顔になったが、
「ごめん、そこまではしてない。あ、でもね、映画版はビデオでレンタルしてるんじゃないかしら。それとテーマ曲はレコードが出てるはずよ。」
 曲名と演奏者を教えると、彼は三回復唱し、
「よし、帰りに探してみよ。面白いわそれ。日本情緒に何かこう、びっくりするような意外なもん合わして、もっと日本らしさを出す…。京都で俺、そういうの作りてぇなって思ってたから。サンキュ。グッタイミングだわ。」
 歩いてさえ近い駅に、車はすぐに着いてしまった。拓がどんな作品を作ろうとしているのか、本当はもっと聞きたかったが、
「じゃあね。気をつけて行ってらっしゃい。」
 他の車にクラクションを鳴らされないうち、由布子は急いでドアをしめた。なのに拓はウィンドウを下げてこちらに首を伸ばし、
「生八ツ橋の『おたべ』だよな。一ダースもありゃ足りっか?」
「やめてよね。あなたって本当に買ってきそうなんだから。」
「だってそんくらい食うだろ、お前。」
「…百円玉で屋根ひっかくわよ。」
「うそうそ冗談。会社の友達とかで食やいいじゃん。」
 立ち去り難くて話をしていると、案の定、後ろのクラウンにパッパーッとやられた。
「おっと、やべ。んじゃな。帰り気をつけろ。」
「ありがと。あなたも京都でバスガイドさん追いかけたりしないようにね。」
「だからしねぇっつの。んじゃな。」
 拓はハンドルを回した。遠ざかるシトロエンを由布子は見送った。彼を乗せた白い車はすぐに、ライトの波にのみこまれていった。
 ふと、薄雲に似た不安が胸をかすめた。そのことに驚いて彼女は足を止めた。この嫌な感じは何だろう。寂しさ? 満月がおのずと持っているあの凶々しさ? 幸せを前にした人間が皆感じるという理由のない不安?
 違う、と由布子はつぶやいた。この重苦しい陰りは、認めたくはないけれども『不吉な予感』に他ならない。
(まさか、京都で拓の身に何か…)
 思い浮かべてしまった言葉を、彼女は即座に否定した。
「嘘よ。そんなことがあるわけ、ないない!」
 今夜はいつものように太子堂までの時間を彼と過ごせなかった、多分それが悲しかっただけだ。三日間彼の声が聞けないと思ったのも原因だろう。それとも京都のバスガイドにまで私は嫉妬したのだろうか。そういう感情を今でも素直に出せない分、内に鬱積させてしまいがちな自分の性格なのである。
 電車が来て、乗りこみ、吊り革をつかんだ手首のブレスを見ているうち、徐々に気持ちは落ち着いてきた。
(おみやげには京扇とか、友禅の小物とか言えばよかったな。『おたべ』がいいなんて色気のないこと言っちゃって。)
 これでは絶対、食い物で釣れる女だと思われるだろう。いや、既に思われているかも知れない。一人笑いして他の乗客と目があい、彼女はあわてて顔と気持ちを取り繕った。
 この時点で由布子はまだ知らない。さっきの嫌な予感が本能のひらめきだったことを。運命の急転直下が近づいたとき、生物はみな一種の予知能力を持つものらしい。ただし『何か』が襲うのは拓の身ではなかった。それだけは彼女の勘違いだった。由布子が感じた薄雲の不安はやがて現実のものとなり、彼女と拓の運命を、大きく変えることになるのである。
 

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