【第3部・第1章】 bR
 
 二日後の昼前。由布子の席に浦部から内線があった。
「菅原主任、ちょっと小会議室に来て。」
 彼女はすぐに席を立った。わざわざ別室に呼ぶとは何の話だろう。プロジェクト絡みかなと軽く考え、由布子はドアをノックした。中には浦部一人がいた。相変わらず神経質そうにメタルフレームを光らせている。腕を組み、さも難しげな顔をしていた彼は、会議卓を挟んで座った彼女に、いきなり二枚の写真をつきつけた。
「何だね菅原主任、これは。」
 えっ、と思って焦点を合わせた瞬間、由布子のこめかみは冷たくなった。ナヴィールの写真。もう一枚は、日比谷フラワーセンターの店先にいる拓。
「君ねぇ…」
 いたぶるように浦部は、ねっとりと口を開いた。
「この男に頼まれて、会社通さずに仕事請けたね? この喫茶店、改修したのは君だろう。」
「…」
 彼女の全身は硬直した。ばれた、とその言葉だけが、工事現場めいてガンガンと頭に響いた。
「どうりで最近おかしいと思ったんだ。…これの時にもね。」
 バサリ、と浦部はもう一枚の紙を、机の下から取り出して広げた。ナヴィールのオープンで使ったポスターのコピーだった。あの夜、パソコンからMOを抜き取り忘れた時に、浦部はやはり気づいて電源を入れ直したのだ。そして今日まで黙っていたとすれば、何という陰険な男であろう。彼はチッと舌を鳴らし、
「まったくな。日比谷フラワーセンターは取引先だというのに、そこのバイトと何をしでかしてくれたんだか…。八重洲のアンプリイズの発注に、いったい幾ら上乗せしたんだ。」
「いいえ!」
 由布子は激しく首を振った。
「アンプリイズさんには迷惑かけてません。上乗せなんてそんな、そういう不正は…」
「そういう不正?」
 ぎら、と浦部は彼女を睨んだ。由布子は唇を噛みしめた。落ち着け、落ち着け。余計なことを言って墓穴を掘るな。発注委任先として片棒をかつがせたインテリア齋藤の梶山に、火の粉を飛ばすわけにはいかない。
「ならば聞くけどね。会社に黙って勝手に仕事請けて報酬を得るのは、じゃあ不正ではないと君は言うのか?」
「違います! 報酬なんて受け取っていません!」
 天地神明に誓って本当のことだ。だが浦部は、
「正直に言いなさい。いったい幾ら受け取った。え? それともこの男に…」
 下品な笑い方をして、言った。
「逆に幾らか渡したのか?」
 由布子は慄然として浦部を睨み返した。拓はそんな人間ではない。父親の愛人と関係した自分が許せなくてひととき自己を見失うほど、誠実でむしろ不器用な青年なのである。
「何だその顔は。」
 しかし浦部は憎々しげに言った。悔しいが彼女は目を伏せるしかなかった。反論はできない。会社にしてみれば確かに、由布子のしたことは業務違反なのである。
「まあいい。調べればわかることだ。それより菅原君。この、ナヴィールとかいう店にかかった全発注金額と、オーナーから君が受け取った金額、それに八重洲のアンプリイズの見積と発注書。一覧にして大至急提出しろ。今日中にだ。」
 写真とコピーを、まるで証拠品を回収する如くファイルにしまって、浦部は最後に言った。
「この件はまだ部長には報告していない。君の処分はこれからの対応をみて決めるから、下手な隠し立てはしないほうが身のためだと、それだけは忘れないことだな。」
 
 踏んでいるのが床なのか雲なのかわからない足どりで、由布子は席に戻った。ちょうど昼休みのチャイムが鳴った。食事に行こうと誰かに声をかけられたが、
「ううん、ちょっとね、ちょっと、用が…」
 視点も定まらず彼女は応えた。舌と喉がカラカラに乾いていた。落ち着け、という声は呪文のように繰り返されるものの、落ち着いて何をすればいいかがわからない。ぼんやり虚空を眺めていると、今しがたの拓の写真がやけに鮮明に浮かんできた。望遠レンズで捉えられた彼は、鉢植えを手に客と何か話をしていた。浦部の下賎な想像をかきたてるに十分なほどの、皮肉なくらい魅力的な表情で。
 ――――拓は今、京都にいる。この件はまだ彼の耳には入っていない。
 そう思った時、心のどこかがわずかに蘇生した。ナヴィールのことを知ったのは浦部一人だけだ。彼さえ納得させられれば、炎は燃えひろがる前に消しとめられる。業務違反についての叱責は謙虚に受け止めるとしても、代価はびた一文得ていないし、アンプリイズへの上乗せもしていない。インテリア齋藤に対しても、支払いはとうに済んでいるのだ。
 由布子は立ち上がった。まずは梶山に報告しなければならない。インテリア齋藤に浦部は当然チェックを入れるだろうが、梶山なしでは成り立たないあの会社の経理、あるいは彼女の計らいが大きな救いになるかも知れない。由布子は携帯電話を握りしめてオフィスを出、街路樹の影で齋藤にコールした。
 じれったくベルが鳴り続けた。向こうも昼休みではあるけれど、お弁当派の梶山は社内にいるはず。どうしたのだろうと思って九回目、ようやく相手が出た。
「はい、もしもし?」
 社名も名乗らず無愛想な、若い女の声だった。
「あの、ホームイング・エグゼの菅原と申しますが、梶山さんはいらっしゃいますか?」
 すると女は、
「梶山さんは休みです。」
「休み?」
 由布子の目は失望にかすんだ。が、彼女がいないということはすなわち、誰かが過去の発注を調べようと思っても今日のところは無理ということだ。
「明日は出てらっしゃいますか?」
 由布子は尋ねたが、
「ちょっとわかんないですね。聞いてませんから、私。」
 女はぞんざいに応えた。これがいつか梶山の言っていた『どこかの紹介で採用したアホの子ちゃん』に違いない。こういう手合いとは話をしても始まらないので、
「あの、どなたか他のかた…山名部長か白井課長はいらっしゃいます?」
「誰もいないんですよね、昼休みで。」
「午後は課長のご予定は…」
「だからぁ、わかんないって言ってんでしょ? しつっこいなぁ。」
 由布子は黙った。信じられないと思った。こんな事務員がいたのでは齋藤の信用にかかわるだろう。
「わかりました。ではかけ直…」
 言い終わらぬうち、ガチャンと受話器を置かれた。耳がキーンと鳴った。つられて由布子も乱暴に切ボタンを押したが、今は他社の事務員に腹を立てている場合ではない。暗澹たる気持ちで彼女は、オフィスと反対の方向に歩いた。たどり着いた小公園では幾組ものグループが、近くのハンバーガーショップで買ってきたらしい包みを広げてランチタイムを楽しんでいた。
 奥まったベンチのひとつに由布子は腰をおろした。そういえば梶山は結婚退職が近いのだ。休みが多くなるのは当然である。とすれば梶山の仕事はじきにあの、無礼な事務員に引き継がれるはず。由布子にとって最大の協力者であったインテリア斎藤は、今やいっときも油断のならない敵陣に変わろうとしていた。
(どうしてあの時、MO抜くの忘れたりしたんだろう…。)
 やはりそれが痛恨の失策であった。浦部の陰険さに憤りは感じるものの、忘れさえしなければ尻尾をつかまれることもなかったろうに。
(でも、待ってよ?)
 おかしいなと由布子は思った。ナヴィールを改修したことはともかく、どうして拓が噛んでいるとわかった。MOに入っていたのはポスターの画像だけで、発注書にも利益計画書にも、拓の『た』の字も書いていない。
(なぜ…?)
 由布子は考えをめぐらせた。拓と私のことを知っているのは、高杉夫妻と陽介と梶山、アルバイトの香川に泉。もちろん彼らは100%無関係だ。それ以外の人間というと―――そうだアンプリイズの馬場もいる。拓が日比谷フラワーセンターの人間であることも彼は知っている。しかし馬場は二人にかなり好意的だったし、浦部がどう疑おうと由布子はあの店に不正な請求などしていないから、馬場が何を不審に思うはずもないのである。
(となるとあとは…)
 記憶のフィルムを早回しにして、由布子は思わず、あっ、と声を上げた。拓と由布子のことを知っているもう一人の人間、それは、
(大塚だ…)
 ガラガラと瓦礫の雨が全身を打った。間違いない。帝国ホテルで拓は大塚を殴り、前歯を一本叩き折っている。あれから大塚が何も言ってこない不思議を、自分の幸せに酔い痴れるあまり由布子は思い返しもしなかった。あのプライドの高い男が、何もせず二人を見逃すはずはないのである。
『そうか…。お前、どっかで見た顔だと思ったら、バイトだろう日比谷フラワーの。』
 今の大塚なら、やる。店先で待ち伏せて写真を撮り、後をつけて拓がナヴィールに出入りしているのをつきとめるくらいのことは。そして大塚には一目でわかっただろう。店の設計者は自分が育てたも同然のIP、菅原由布子に他ならないと。
「拓…。」
 彼女は両手で顔を覆い、うめくように恋人の名を呼んだ。あなたは私を許してくれるだろうか。こういう男との不倫に身をやつし、あさましいけだもの同然に、愛欲の泥にまみれていた私を。
 どこの会社のものか、遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムが響いた。雑談に興じていたOLたちの姿もいつのまにか消えていた。心を宙にさまよわせたまま、由布子はとぼとぼとエグゼに戻った。
 悲しみに沈殿したがる心に鞭打って、彼女は浦部への提出書類をそろえた。アンプリイズの分はすぐにできた。が問題はナヴィールの方であった。
 態度次第で処分を決めると言われたが、果たして馬鹿正直にいっさいがっさい、ぶちまけていいものだろうか。あの店に由布子が係わった証拠は、梶山の手元にある署名捺印つきの発注書だけなのである。施主名なしの『菅原扱い』になっているものが全てナヴィールに使った材料であるが、まさか浦部もインテリア齋藤の帳簿を直接見ることはできないだろうから、梶山が口裏を合わせてシラを切り通してくれれば、あるいは大塚の悪質な 讒(ざん)言であるという形に持っていけるかも知れない。
 いや、それはもう手遅れだ。もし本当に何も知らないなら由布子は、午前中浦部に呼ばれた小会議室で、こんな店は知りませんと言ってしかるべきである。あまりの驚きに言葉も出なかった以上、今さら知らないでは通らない。
 ならばいっそ全てを打ち明けるか? 素直に浦部に頭を下げて、本当に金は受け取っていないしアンプリイズに迷惑もかけていないのだと、ただ一心にそれを訴えようか。
 …全て白状したら、私はどうなるだろう。会社を通さずに仕事を請け、業者に法人レートを強要した。会社の財産であり商品であるプランニングのノウハウを無許可で行使し、私的な知人のために便宜をはかった。
 懲戒免職。会社員にとってのぬぐいえぬ汚点。『この人間は会社に迷惑をかけたので強制的に解雇されました』と、社内社外に宣告する四つの文字。
 グッドラック・プロジェクト。ランファンスを認め、極秘プランとして専売すると言ってくれたチームリーダー・渡辺。頑張るねと拓に約束した私の夢。一度はつかんだその切符が、幻に変わりかけている。
 ――――嫌だ。
 ナヴィール。私の船。想いの限りを尽くした夢の船を浦部の陰険な叱責にさらし、懲戒免職を裏付ける物的証拠にされてたまるか。
 由布子は決心した。ナヴィールについては、材料を安く仕入れただけということにしよう。プランニングと施工は知人が自分の手でやったのだ。別に高杉に罪をなすりつけるのではない。持ち主が自分で店を直したものなら、エグゼにどうこう文句をつけられる筋合いはないからである。由布子が設計施工したという証拠は残念ながら今のところ、ない。大塚が何を言おうとも、工事現場を見ていない以上憶測の域を出ないのだ。
 だから、浦部に何としても頼まなくてはならないのはただ一つ。このことを高杉の耳にはどうか入れないでほしい。事実を知れば高杉のことだ、差額は俺が出すくらいの腹は据えるだろう。由布子に対して抱いてくれていた感謝や称賛と引き換えにである。心からの感謝に失望のお返しをするのは、身の竦む屈辱であった。責任は一人で取りたい。彼女の気持ちはそこへ収束した。
「課長。」
 浦部の席の前に立って、由布子は言った。
「さきほどのご指示ですが、こちらは八重洲のアンプリイズ分です。」
 差し出すと浦部は受け取り、
「もう一つは?」
 嫌味な三白眼を上眼使いにして聞いた。
「申し訳ございません、自宅に置いてありますので、明日の朝ではいけないでしょうか。くわしくお話ししたいこともございますので。」
 浦部はまともに眉を寄せ、
「明日は俺は休みなんだよ。だから今日中って言ったんだ。」
 由布子は指を鳴らしそうになった。ついている。浦部がいない間に梶山とじっくり打ち合わせできる。
「すぐ取ってこいと言いたいところだが、六時からNKでCS委員会だし…」
 時計を見、舌打ちして彼は言った。
「じゃあ月曜の朝一番、全部そろえて提出できるな。」
「はい、間違いなく。」
「しょうがない。そうしてやるよ。」
「ありがとうございます。」
 由布子は礼を言った。思ったより柔軟な浦部に彼女はふと、ひょっとしてそれほど事態は悪くないのかも知れないと思った。脛に傷を持つ身として深く考えすぎなのであって、始末書一枚、あるいは最悪でも差額を払うと言えばそれで万事済むのかも…。
(大塚に確かめてみよう。)
 彼女は思った。あの男が浦部に何を言ったのか、直接会って確認してみよう。そうすれば浦部の手の内がわかる。言わでものことを言わずに済む。終業チャイムを待ちかねて、由布子は社を出、神宮前に向かった。
 

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