【第3部・第1章】 bS
 
 アトリエ・ニートの建物を包む荒廃の色は尋常ではなかった。梅雨の頃よりも一層ひどい、何か眼をそむけたいほどの無残な雰囲気が漂っていた。営業しているのか廃業したのかさえ、わからないほど寂れている。埃まみれの取っ手に指をかけると、頼りないきしみ音をたててドアは開いた。奥の部屋に明かりがついている。彼女はホールに立っていた。ややしばらくして、大塚がのそりと顔をのぞけた。やつれている。まるでこの建物そのもののように。
「おやまぁ、何しに見えられました。」
 薄笑いを浮かべて大塚は言った。
「聞きたいことがあります。」
 彼女は言った。彼は戸口につっ立って、由布子に入れでも座れでもなく、
「何でしょうか。」
「うちの浦部に、何か変なことを吹き込んだのはあなたですね。」
「変なこと、か。」
 彼は自分の足元を見て笑い、
「いかにもおっしゃる通りです。非常に変なことをお耳うちいたしました。」
 酒の匂いこそしなかったが大塚の動きは、まるで泥酔した人間のものに見えた。自分の狙い通り由布子が窮地に追い込まれたことを喜ぶ、サディスティックな顔つきだった。彼女に対する大塚の感情は、可愛さ余って憎さ百倍にメンツをつぶされた憤怒も加わり、さながら腐臭を放つ泥の川と化しているのだろう。彼の胸には幾千の赤鬼青鬼が跋扈(ばっこ)している。
「まぁ、あの偉そうな若僧には、自分の立場がどれほどのものか、少しわからせてやるのが身のためだろうな。女にいいところを見せるのは十年早いと思い知らせたまでだ。チャラチャラ着飾っていい気になって、何でも自分が正しいと思っていやがる。ああいう世間知らずのガキには多分いい薬だろう。感謝してほしいくらいだな。」
 言いはなった大塚に、由布子は血の気が引くほどの怒りを覚えた。この低俗下劣な中年男は、あのとき拓がなぜ殴りかかってきたのかを全く理解しえないのだ。拓の心の傷口から吹きでる血を、その痛みを、知るほどの魂をこの男は持ち合わせていない。
「…話したのは、課長にだけじゃないのね。」
 由布子の声は震えた。今の言い方なら大塚は、日比谷フラワーセンターにも出向いたに違いない。彼はうそぶいて、
「まぁこれであの小僧がどう出るかが実に楽しみだな。彼も悪い女とつきあったもんだ。そいつの前の男のせいでバイトもクビか。若い男は我慢がきかないからな。君にも失望するんじゃないか?」
 グサリ、と由布子は胸をえぐられた。拓にすればそういうことになる。
「また逆上して暴力をふるったら、今度はあいつを傷害罪で訴えるぞ。彼の態度がどう変わるか、君もじっくりと見届けて現実に気づけ。え? 由布子。あんまり俺をなめるなよ。」
 やくざめいて肩を揺すり、大塚は次に意外なことを言った。
「ま、君の致命傷にはならないだろう。スキャンダルには違いないが、たかがバイトのガキとは違ってな。」
 由布子は大塚の顔を見上げた。そんな馬鹿な。拓とのことより、浦部が問題にしているのは――――
「じゃああなたは、ナヴィールのことは知らないの?」
「ナヴィール? 何だそりゃあ。」
 大塚は聞き返してきた。とぼけているとは思えなかった。彼がエグゼと日比谷フラワーセンターに話したのは、では由布子と拓がつきあっていると(汚れた関係の如く言い歪めはしただろうが)、ただそれだけなのであろうか。
「じゃあ、なんで課長は…」
 独白に似てつぶやいた由布子に大塚は、
「お帰りはそちらですよ菅原さん。」
 背後のドアを指さして言った。
「仮に今そこで泣いてとりすがられたって、もう俺にもどうにもならないぞ。彼とよく話しあって、今後のおつきあいを決めたらいかがですか。捨てられたらその時はまぁ、お相手にならんこともないですがな。」
 再び怒りがこみあげてきて、彼女は大塚を睨んだ。薄っぺらな虚勢を最後の杖にして、薄汚れた男がそこに立っていた。
「あなたの相手になるくらいなら死んだほうがましだわ。」
 彼女は言った。大塚はフンと目をそらし、
「ではどうぞご自由に。」
 バタン、とドアを閉め姿を消した。誰もいない陰気なホールに、由布子はしばらく立ちつくしていた。
 
 由布子がナヴィールを施工したことを浦部はなぜ知ったのか。地下鉄の中で彼女はひたすら考えた。あのポスターだけでそこまでわかるはずがない。せいぜい会社のコピー機を私用に使ってと怒られるくらいだ。ナヴィールの図面も積算書も、由布子は会社のCAD機で作った。しかし完成してすぐ全データをMOに吸い上げハードディスクからは消去した。そのあたり用心に用心を重ねた、手抜かりはない。
 しかし吸い上げたMOはエグゼの自席に、他の物件のものと一緒に保管してある。鍵はあるがかけてはいないから、引き出しをあけて持ち出すのはたやすい。誰もいないオフィスで密かに部下の机に座り、百五十枚はあるMOをぱたぱたと一枚ずつ調べている浦部。陰々たるその光景に、彼女はぞくりと鳥肌立った。
(そういえば私がポスターをコピーしたあの晩も、あんな時間に課長は何しに来たんだろう?)
 定休日の夜。人に言えない作業のため自分はあそこにいた。とすれば浦部も人に言えない用事があって、やって来たのではあるまいか。
(まさかね…)
 考えすぎだろうと由布子は思ったが、
(拓に言われたっけ。千枚のコピーはさすがにヤバいって。あの時いいカッコなんかしないで、言う通りにすればよかった。)
 今さら栓ない後悔とともに、彼女は大塚の言葉を思い出した。
『彼も悪い女とつきあったもんだ。君にも失望するんじゃないか?』
 失望、幻滅、そして苦い終焉。由布子は目を閉じ、声なくうめいた。わたしのひと。わたしの拓。始まったばかりの二人の時間を、止めようとするものがあるなんて。しかも自分の昔の男に…
(昔の?)
 ふと由布子は思い至った。拓の、昔の女。あの女も大塚同様、私と拓を引き離そうとした。彼はあなたの手に入る男じゃないと言いきり、抱かれてもいないくせにと嘲った。彼女は拓を愛している。彼のためなら恥も外聞も、命さえをも捨てられるだろう。だがそれほど愛する者の前で、人間はいつも無力である。拓の拒絶も心変わりも、あの女は無条件に受け入れざるをえない。だから憎しみの鉾は私に向いた。葉桜の公園で女の背後に燃えさかっていた炎は、どうか彼を奪っていかないでと叫ぶ、血を吐く悲鳴に他ならなかった。
 大塚は、違う。彼が由布子に感じていたのは、若い女に対する性欲と支配欲、のちには一種の意地でしかないだろう。拓を攻撃するのも別に、由布子への愛ゆえではない。なけなしのプライドを大塚は、何とか守りたいだけなのだ。私はしょせんただの玩具。あの男と交えた時間はなんと愚かな、馬鹿げた費えであったことか。
 地下を走る暗い窓に、自分の顔が映っていた。ゴミ捨て場に放り出されたビニール人形の顔。白く光る駅名表示が、砂漠の笑みに重なった。
 
 謎は解けぬまま、翌日も暮れた。
 由布子はエグゼの自席から、ナヴィールの図面と資料一式を保存したMOをアパートに持ち帰った。マシンに通さなければただの四角い板であるそれをライティングデスクの引き出しにしまい、彼女はほっと溜息をついた。今さらではあったがたとえ万分の一でも、危険を減らすに越したことはない。もっと早くにこうするべきだったと、後悔しても遅すぎるけれど…。
 彼女はデスクを離れた。化粧を落とそうとドレッサーのカバーをめくって、我ながら驚いた。昨日の昼からろくに食べていないせいか、病人のように青い顔だった。目の下には黒々と隈ができ、寝不足のせいで目は真っ赤。今日一日同僚があまり話しかけてこなかったのは、なるほどこの幽鬼めいた顔が原因であるに違いない。彼女は上着とブラウスを脱いでソファーに叩きつけ、いまいましい醜貌にクレンジングを塗りたくった。こんな顔も私自身も、綺麗さっぱり洗い流してしまえたらどんなにすっきりするだろう。肌色の粉を剥ぎとられた由布子の素顔は、情けなく半べそをかいていた。
 最低だ、と彼女は自分を罵った。馬鹿で貧相でええかっこしい。ナヴィールの設計も工事もオープンの手伝いも、高杉のためなどではない、みんな拓にふりむいてほしくてやっただけだ。大した力もないくせに自惚れて、大丈夫かという拓の忠告さえ聞かずにつっ走るから、その大切な人の心を手に入れかけた時に、こういうぶざまなことになるのだ。自業自得のいい見本。さらし首になっても仕方ない。
 その時であった。ルルルル、と電話が鳴った。拓だと由布子は瞬時にわかった。受話器に伸ばす手が重い。彼からの電話をこんな気持ちで、受けるのは初めてのことだった。
「もしもし? 由布子? 俺。」
 回線の向こうで彼は言った。たった二晩聞けなかった声が、砂漠に注ぐ雨に似て響いた。
「まだ帰ってねぇかなと思ったら、いたんだ。今、大丈夫?」
「うん…。」
 短く応え彼女は黙った。普通に話そうと思いはしても、悲しみを殺して明るい話題を選べるほど、由布子の心は強くなかった。沈んだ様子に気づいたかそうではないのか、真っ先に彼は聞いた。
「な、由布子。俺の留守中、なんかあった?」
 彼女はぎくりとした。拓は小さく舌を鳴らし、
「参ったぜ。ついさっき店長から電話あって、俺、バイト、いっきなりクビよ。寝耳に水。何が何だか訳わかんねぇ。」
 視界がすうっと暗くなり、由布子はテーブルに手をついた。もしや大塚のハッタリであってくれればと、一縷の望みをかけていたのに。だが拓は半分笑いながら、
「これさ、多分、あれじゃねぇ? こないだのあのオヤジの仕業。俺あいつの前歯ブッ欠いたかんな。あのままじゃ済まねぇだろうとは思ってたけど…」
 そう言って一呼吸おき、
「俺よりお前の方はどう。平気か? 何か、嫌なことあった?」
 オレヨリオマエノホウハドウ――――。問いかけられた由布子の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
 拓にどう言い訳しよう、彼は私に失望し、軽蔑して離れていくのではないか。そんないじましい考えに捕らわれていた自分に、彼が向けてくれた思いやりのなんという深さ、暖かさ。開き放しの両目から、涙はとめどなく頬を伝った。
「おい、もしもし? 由布子、どした?」
 拓の笑いが消えた。何か言わなければと焦り、逆に嗚咽が漏れそうになって、彼女は口を掌で覆った。
「泣いてんのか。どした。何があったんだよ。お前も何かされたのか。」
「なんでもない。」
 懸命に由布子は否定した。
「ほんと、なんでもないの。ごめんなさい。急に、ちょっと…」
「急にちょっと、どうしたんだよ。何かあったんだろ。話せよちゃんと。」
 拓の語調が強くなった。彼女は受話器をふさぎ、気を落ち着けるために部屋を見回した。いけない。まだ、何を話せる状態でもない。今ここで崩れ落ちたら、二度と立ち上がれない気がする。
「ごめん。今度、会ったとき話す。ほんとに、大したことじゃないの。心配しないで。大丈夫だから。」
「んなわけねぇだろ。」
 彼はムッとした様子で、
「大したことじゃなきゃ、泣かねぇだろお前。な。由布子。何があった。」
「ごめんなさい。ほんとに平気。ごめん。大丈夫。」
「ふざけんなよ…。いきなり泣きだしといて何でもねぇって、はいそうですかって聞けっかよ。」
「…」
 彼女の手は震えた。心の半分はもう叫び始めていた。悲しさも悔しさも怒りも不安も全てぶちまけて彼の胸にしがみつきたい。力いっぱい彼に抱きしめてほしい。助けて、怖い、一人でここにいるのは怖い――――だが拓に届いたのは由布子の沈黙だけだったろう、
「わかったよ。」
 諦めにも似た静かな声で彼は言った。
「お前がそう言うなら、こっちも無理に聞く気は、ねぇから。今度っていうなら今度でいい。」
 そこでまた少し黙った拓は、由布子が何も言わないのを確かめたのか、
「…じゃな。」
 待って、と叫ぶ前にプツリと回線は切れた。ツーツーツーと信号音がした。彼女は受話器を持ったままがくりと床に座りこんだ。
 拒絶への恐怖。由布子の心には常にそれがある。拓を信じられないのではなくて、求める気持ちが強くなるほど、失う怖さがつのるのだ。去っていく彼を見たくない。目の前で閉ざされる扉はもう見たくない。誰かの手にすがりつこうとするたび、何かが必ずブレーキをかける。寄りかかるな。その手を頼りきれるとは限らない。心の弓づるは切れたら終わりだ。気をつけろ、お前を守る者は世界のどこにもいないのだから…。
 今になって由布子にはわかる。大塚の扉はおそらく、最初から閉ざされていたのだ。大塚と関係を重ね、一時は結婚を夢見ながらも、心のどこかに予感はあった気がする。いつか必ず、この人との糸は切れると。逆説的だがそのことがむしろ、彼女を安心させたのかも知れない。刹那の匂いが恐怖を忘れさせ、だからあれほど簡単に体をひらくことができたのだ。
 ――――では、拓は? 拓との糸は?
 由布子は膝を抱え頭を埋めた。問うことさえ恐ろしかった。彼を失う。その痛みを思い浮かべるだけで気が狂いそうだった。光る海へ拓と歩いていける、焦らずにこのまま希望の灯を追いかけていこうと、そう決めたばかりなのに…。大塚とあの女のあざけりが、二重に絡まり渦を巻いた。拓もいつかはいなくなってしまうのだろうか。私の前から消えてしまうのだろうか。
 ピンポーン、とチャイムが鳴った。五感にいきなり現実が立ち返った。再び、今度は二回チャイムが鳴って、ガチャガチャとノブが動いた。
「由布子?」
 錯覚ではない。聞こえたのは拓の声だった。信じられない気持ちで彼女は立ち上がった。
 

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