【第3部・第1章】 bT
 
「いるのか? 由布子。あけろよ。な。由布子!」
 小さなノックがせわしなく繰り返される。電話を切って四十分がたっていた。私が部屋のうちで一人泣いたり吠えたりしている間に、彼は車を飛ばしたのだろうか。呆然と役に立たない頭に代わって、先に手足が動いた。彼女は脱ぎ散らした服をひとまとめにクロゼットへ放り込み、ガウンの紐をしっかり結んで、まだノックが続いているドアへと急いだ。ロックをはずすと音はやんだ。ドアチェーンを抜きノブを回す。小さく開いた隙間から、拓はこちらを覗きこんだ。
「いた、か。」
 ほっ、と彼の肩が上下した。長い髪は大きく乱れ、こめかみに汗がにじんでいた。そんなに急いで来てくれたのと、思うなり心の堤防が切れた。
「お、おい、由布子…」
 拓はうろたえ、隙間に体を半分すべりこませた。
「泣く…なとは言わねぇから、おい、頼む、ここで泣くな。な? 俺が泣かしてるみたいじゃねぇかよ。頼むから、玄関先でいいから、入れ。ほら。」
 気づく余裕は彼女にはなかったのだが、隣の部屋の住人が何事だと顔を出し、拓を睨みつけたのである。由布子の肩を彼の手が押した。彼女がそのまま後ずさると拓は、ロックはせずにそっとドアを閉めた。
「ごめん、拓…。ごめんね。」
 繰り返せるのはその言葉だけだった。彼は苦笑まじりに、
「なに謝ってんだよ。お前はなんもしてねぇだろ。あ?」
 彼女は首を振った。拓は流し台の方に体を伸ばし、タオルを取って由布子の手におしつけた。
「ふきん、じゃないよなこれ。いいからもう泣くな。あんまり泣くとブスになんぞ。」
 柔らかな布で彼女は瞼をぬぐった。拓は下げていた袋を掲げて見せ、
「ほら。ご依頼の『おたべ』。買ってきてやったから。これ食って元気出せ。」
 ガサ、と音をたてて由布子は受け取り、しゃくり上げの止まらない途切れがちの声で言った。
「ごめんね、帰ってきてすぐ、こんな話…」
「お前が謝んなよ。あのオヤジのしわざなんだろ? こないだの仕返し。それっきゃ考えらんねぇもんな。」
「ごめん…」
「だからもう謝るなっつの。俺があいつブン殴ったんだから、原因作ったのは俺だろ。仕返しつうか、報復。由布子が気にすることじゃねぇよ。」
 あっさりと言った彼に由布子はかぶりを振り、
「違う、もとはと言えば私のせいよ…。だってそうでしょう? あの人はそもそもは私の…」
「お前そういうこと言うわけ。」
 拓は彼女の言葉を遮り、
「ヒロイン気取ってんじゃねぇよ馬鹿。みんなあたしのせいなんだわって、よせよそういう自己満足みたいなの。」
「違うの、そうじゃないの。」
 由布子はタオルを口におしつけた。また涙がひとすじこぼれた。
「私、悔しいの。あなたにこうやって嫌な思いさせて、面倒なところにひっぱりこんで…。私のことであなたに少しでも嫌な思いされたくない。あなたの負担になるのだけは絶対に嫌なのよ。」
 それは彼女の本心だった。心底・根底の想いだった。しかし拓はスタジャンのポケットに両手をつっこんで、深く溜息をつき、言った。
「由布子さぁ…どうしてそうやって何でも自分だけで抱え込もうとすんだよ。俺に嫌な思い『されたくない』とかさ、なんでそっちに考えがいくの。レルとかラレルとか、お前そんなことばっか言ってんじゃん。」
「…」
 彼女の涙はすっと引いた。彼の語調の、軽い不快感に怯えたせいだった。
「とにかくさ。」
 今度は短い溜息のあと、拓は、
「何があったかちゃんと話せ。さっき電話で、今度会ったら話すっつったろ。その今度って今なんだから、隠してないで本当のこと言え。あのオヤジ、お前の会社にも何か言ったのか?」
 湿ったタオルを喉元に抱いて由布子はうなずいた。
「やっぱそうか。ッたくやることが陰険だよなあの年頃は。自分フッた女いじめて惨めになんねぇのかよ。どんなこと言われた。あることないこと、バラまかれたりしたのか?」
「ううん、そこまでは、ない。ただ日比谷フラワーセンターは取引先なのにって、上司が…」
「そっか。」
 拓はいまいましげに舌打ちをし、
「関係ねぇだろよそんなのよ。くっそ、ムカつく。足腰立たねぇようにしてやっかなあのオヤジ。」
「だっ、駄目よそんな! 危ないからやめて!」
 思わず必死の口調になると、拓は笑った。
「冗談だって。…あれ? まさかまだ、未練とかあんの?」
「違う!」
 自分でも驚くほどの大声が出てしまった。いそいで声をひそめ、
「大塚が言ったのよ。今度あなたに暴力ふるわれたら傷害罪で訴えてやるって。あいつは本当にやる。だからお願い、そんなことやめて。」
「やんねってば。ヤバン人みたく言うなよ。」
 拓はフンと鼻を鳴らした。
「ま、いい歳したオヤジが、たかがアルバイター一人クビにしてお気が済むんでしたら、お疲れさんって感じ? いつまでもあんな負け犬に構っちゃいらんねぇよ。」
「そんな、大したことじゃないみたいに言うけと、だってあなた、バイト駄目になったら…」
 大変じゃないのと言おうとしたのを引きとって、
「食うにも困んだろって? お前ってさ、ほんっと食うことに関しては真剣な。あ、やっぱ『おたべ』三箱じゃ足んなかった?」
「茶化さないでよ、本気で心配してるのに。」
「いや心配はありがたいけど、平気平気。ほら由布子も知ってんじゃん。こないだ高階先生が言ってた助手の話。あれ、マジで来てくれって何度か誘われたんだけど、まさかバイトまではかけもちできなくて待ってもらってたくらいだし。だからまぁ、ちょうどいいってばちょうどいいんだよな。」
「そうなの、高階先生が…。」
 由布子は息を吐いた。大塚の嫌がらせが拓にとってそれほど迷惑でないなら、胸のつかえは半分取れる。自然、心は落ち着き始めた。
「ごめんね、何だかヒステリックになっちゃった。みっともなかったね。こんな、馬鹿みたいに泣いちゃって。ひどい顔でしょ私。」
「いや。こないだほどじゃない。」
 言いながら拓は思い出し笑いをした。マスカラが落ちてすごいことになった顔を思い浮かべているのだろう。いやそればかりではなく、
「第一さ。最初に会ったとき俺が見たのって由布子の泣き顔だぜ? ほらあの新橋のレストランで。」
 そう言われれば確かにそうだ。まさかあんなところに人がいると思わなかったから、無防備に手放しで由布子は泣きじゃくっていた。
「あん時の、由布子。今だから言うけどハナ垂れてたぜ? こんな、びろーって。」
 拓は指を二本鼻の下に当て、おどけてみせた。
「ひっど…。そんなのまで見てたの?」
「だってしょうがねぇじゃん。出るに出れねぇし。あそこ寒くてさ、マジ腹立ってきた。」
 クスッ、と同時に二人は笑った。
「そうか、私って、あなたにはみっともない顔ばかり見せてるのね。」
 男は女の泣き顔に弱いとは言えど、せいぜい涙が一筋流れる程度の話で、由布子の場合洟は垂らすはマスカラで弁慶になるは、とてもそういうムーディーな演出とは言い難い。苦笑してうつむいた時彼女は、ようやく拓の立っている場所に気づいた。彼は靴も脱いでいない。
「ごめん、やだ、私気がつかなくて…」
 あたふたと由布子は回りを見た。駆けつけてくれた恋人を玄関先に立たせて泣きわめいて、何たる馬鹿さ加減だろう。
「あの、お茶、いれるから。上がって? いえあの変な意味じゃなくて。だってほら、おみやげもらったし、だから、あの…」
「なにパニクってんだよ、変な奴。」
 おかしそうに彼は由布子を見、
「いいよ、俺帰るから。もうこんな時間だしさ、車、そこの入口んとこに半分ケツ突っこんで停めてあっから、あんまりあのまんまにしとくとまずいだろ。」
「でも…」
「いいって。また今度な。」
 言いながら彼は体の向きを変え、
「あ、そうだ。」
 ノブに手をかけたところで彼女を振り向いた。
「『おたべ』さ、三箱でほんと、足りっか?」
「もう、またそうやって…。」
 由布子は拓を軽く睨んだ。彼はニヤッといつもの顔で笑い、
「また電話すんな。助手ったって俺、多分二〜三日はヒマだから。いつでもいい。何かあったらかけてこいよ。な。」
「わかった。そうする。」
「じゃな。おやすみ。あ、目薬さしとけよ。」
「うん。ありがとう。おやすみなさい。」
「お。」
 笑顔を残し、彼の姿はドアの向こうに消えた。階段を下りていくひそやかな足音がする。由布子は部屋を横切って窓ガラスを開け、大きく身を乗り出した。ウィンカーを点滅させて、シトロエンは左折し出ていった。
 いま、この部屋にあのひとはいたのだ。そう思うと心は宙を舞った。電話を切ったあとおそらくどうしても気になって、シトロエンを駆り、会いに来てくれた拓。それは彼にとって私が、特別な相手だからに他ならない…。テーブルに置かれた京都の紙袋が、今のひとときは夢ではなかったと証言している。彼女はその袋を椅子に下ろし、中を見た。菓子箱三つの他に、薄くて細長い包みが入っている。綺麗な千代紙の包装紙を破らぬよう注意してひらくと、あらわれたのは大型の京友禅のスカーフだった。グレイがかったピンク色。上品な地に散らされた華やかな紋様は、見るからに拓好みのデザインだった。
『八ツ橋だけじゃな。あんまりだろ?』
 彼の声がそう言った気がした。彼女はスカーフに唇を寄せた。絹独特の懐かしい、人肌を思わせる匂いがした。
 明日、梶山に会わなくてはと由布子は思った。インテリア斎藤内であの発注書がどのようになことになっているのか、きちんと調べるのが先決である。その上でもし問題があるなら、最善の方法を考えればよい。大丈夫、きっと解決策はある。拓がそばにいてくれるなら、私は多分、何だってできる。絹のスカーフに彼の面影を重ね、由布子はそれを深く胸に抱いた。
 

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