【第3部・第1章】 bU
 
 翌、土曜日。運命はあたかも由布子の決意を試すかのように、容赦ない揺さぶりをかけてきた。
 初めの波は、オフィスに入った馬場からの電話だった。
「菅原さんの上司だって人に、ちょっと嫌なことを聞かされたもんでね。」
 彼女はアンプリイズへ飛んでいった。馬場は近くの喫茶店に由布子を連れ出し、実はねと話を聞かせてくれた。
「浦部さん、か? 君の上司。彼が…三日前だったかな、うちに来てね。菅原の工事に何か不審な点はないかって、薮から棒にそう聞くんだよ。」
 馬場はコーヒーカップを脇にどけ、一枚の紙をテーブルに広げてみせた。自分の顔が青ざめていくのが由布子にはわかった。着工前に彼女が作ったアンプリイズの原価計算書ではないか。利益額の欄だけはさすがに隠してコピーされているものの、これは純然たる社内文書、客の目にふれさせていい書類ではない。馬場も同感なのだろう、あからさまな軽蔑口調で、
「こんなものを見せられてもねえ。僕には何が何だかわからないよ。業界最大手のホームイング・エグゼともあろうものが、何を考えているんだろうなあの人は。」
 それは彼女にもわからなかった。どうして浦部はここまでするのだ。三日前ということは、小会議室で由布子に写真をつきつけた前日である。由布子の不正を何としても立証しようとする彼の執念は私怨に近い。何か個人的に恨みをかうようなことを、私はしてしまったのだろうか。
「立ち入ったことを聞いて申し訳ないが、何か仕事上の失敗があったのかな、菅原さん。」
 馬場は煙草に火をつけ、言った。
「こういうえげつないやり方はね、男が男を追い落とす時に使う手だよ。些細なミスの証拠をつかんで、強引にどこかへ左遷するとか更迭するとかだね。普通、女の人相手に使うとは思えないが…君は仕事ができるからな。浦部さんも男並みに攻撃してるのかも知れない。」
 話しながら彼の目が、じっと自分を見ているのがわかる。由布子は書類に捺してある浦部の課長印を凝視した。馬場の吐いた煙がゆっくり視界に落ちてきた。
「僕もね、いったい何があったのか説明してくれって言ったんだけどね、それはお話しできないと来たよ。それじゃこっちも何も言えないって、もとより君の仕事に何の不審もないからね? そう言ってやったら、ちらっと漏らしたよ。うちの店の工事に君が、何か上乗せして発注したらしいって。」
 そんなことをなぜ浦部は客に話すのだ。由布子は怒りを越えて情けなくなった。彼女の行為は業務違反かも知れないけれど、であればなおさら会社の恥ではないか。課長が会社の信用を落としてどうするというのだ。
「まぁ、菅原さんはそんな人じゃないでしょうと言っておいたがね。実際、君のセンスは大したもんだ。惚れたよ僕は。改修してもらって以来店の評判もいいしね。売り上げだって少しずつ増えてきてるんだ。だから、もちろん君のことは信用してるけど――――」
 馬場は煙草の灰を、トン、と灰皿のへりで落とし、
「もし…そうすれば君が助かると言うんなら、うちの分になってるんだか何だかよくわからないその発注、全部、僕が依頼したことにしようか?」
「えっ?」
 彼女は顔を上げた。余裕を帯びた馬場の笑顔があった。
「かまわないよ僕は。うちの店を生まれ変わらせてくれた菅原さんへのお礼だと思ってね、それくらいは持ってやってもいい。でなきゃ、知り合いの会社を紹介しようか? 国内…いやカナダでもいいかな。木材の輸出をやってるちょっとした中堅企業だ。カナダではフランス語は公用だからね、むしろ君にはいいかも知れないよ。」
 由布子は半ば唖然として、うっすらと脂が光る馬場の顔を見つめた。なぜそこまでと思った彼女の心に応えるように、
「僕はどっちでもいい。君が好きな方を選んでくれたら、力になるよ。こんなに仕事のできるデザイナーをつぶすに忍びないんだ。君はもっともっと伸びる。浦部さんみたいな嫌味な上司の下にいることはない。」
 彼女は答えられなかった。こんな言葉は予想だにしなかったからだ。
 企業に対する絶対君主は、社長でも株主でもない、顧客である。その馬場がもし、うちが頼んだんだ文句あるかと言ってくれれば、浦部は平身低頭せざるをえない。馬場の言葉は今の由布子にとって、奈落に垂らされた一本の蜘蛛の糸と同じであった。
 しかし彼女はためらった。助かるには一つだけ条件を飲まねばなるまい。恩義と引き換えのベッドへの誘い。日本育英会でもあるまいに、何の下心もなく女を救おうという男は、この世の中に多分、いない。
「お気持ちに、感謝いたします。」
 Noのニュアンスをこめて由布子は言った。一度の間違いなら致し方ないが、性懲りもなく同じことを繰り返したら、本当に拓に顔向けできない。馬場はふうと息を吐いて、力が抜けたようにシートにもたれた。
「まぁ、事情も何も知らない僕があまり強いことは言えないけど…。人間風向きが悪い時はいくら抵抗しても、やることなすこと裏目に出かねないもんだ。落ち着いて状況を見て、それで、もしも必要だったら言ってきてくれればいいからね。僕はいつでも喜んで力になるよ。」
「ありがとうございます。」
 頭を下げて由布子は一瞬、もしや馬場は、真剣に自分を心配してくれているのかも知れないと思った。濃い体毛と脂ぎった顔に、どうしても精力旺盛なイメージを持ってしまうだけで、体の大きな生物に乱暴者はいないと言われる通り、彼は誠実で律儀な山男なのかも知れない。自意識過剰なのは由布子の方だ。
 だが、ナヴィール分の発注を全てこの男の依頼だということにして、レート差額七十万を払わせるのはあんまりであった。まがりなりにもプロのインテリア・プランナー、していいことと悪いことの区別くらい、つく。恥知らずなのはむしろ浦部の方ではないかと、東京駅へ向かう道すがら由布子は、こらえがたい怒りを奥歯で噛み殺した。
 行く手に電話ボックスが見えた。由布子は中に入った。梶山へ連絡するためだった。またあの事務員が出たら間違い電話のふりをして切ろうと思ったが、運よく梶山が取ってくれ、
「ああ、ちょうどよかった菅原ちゃん! 今かけようと思ってたとこよ!」
 由布子が何も言わないうち彼女は、
「ねぇねぇちょっと、あたしが休んでる間に何があったの。社長に聞いたんだけどね、浦部さんからうちにチェック入ってるわよ、例の、菅原ちゃん扱いの発注書について!」
「えっ…」
 やはり、と由布子は言葉を失った。客にまで会いに行った浦部だ、業者である斎藤にはもっと遠慮のない態度で接したに違いない。
「今からこっち来なさいよ! ヤバいよ菅原ちゃん! あたしがいない時の事務は全部あのハクチ女がやってんだから、出せって言われたら何でもホイホイ出しちゃうわよ!」
 すぐ行く、と答えて彼女は地下鉄への階段を駆け下りた。この前電話に出た不躾な小娘。彼女はまさか梶山の留守中に、あの発注書を浦部に渡してしまったのだろうか…!
 インテリア齋藤のオフィスには、昼間はほとんど人がいない。社長を初め男子社員は全員、現場などで外へ出てしまうためだ。故に梶山は暇になるとあちこちへ私用電話をかけている訳だが、そのガランとした事務所で梶山は、青ざめている由布子をソファーに座らせ、詳しく話を聞かせてくれた。浦部から社長の齋藤に由布子の件で電話が入り、齋藤はあわててあの使えない事務員に書類を調べさせた。言われたあの娘は梶山の机をあちこちかき回して、奥にこっそり隠しておいた伝票までも全てひっぱり出したのだと。
 アリバイを崩された犯人の気分で、彼女は事務所の天井を見上げた。ホームイング・エグゼでは請けていない工事を菅原が発注した物的証拠。それはもう浦部の手にすっかり渡ってしまっているのだ。
「なんかねぇ…菅原には男が絡んでるらしいって、浦部さん社長に言ったみたいよ。なんなのあんたの上司。普通そこまで言う?」
 梶山の表情も苦々しげだった。干からびた軍鶏(しゃも)を思わせる浦部の風貌と雰囲気は、大抵の女に嫌悪感を抱かせる。
「あたし思ったんだけどさ、こないだのほら、あのスーパーウルトラ超美青年。絡んでるって、あの人のことじゃないの? 彼は目立つしさぁ、一回見たら忘れらんないでしょう。男の嫉妬って女より強烈だし、彼、誰かにやっかまれてんじゃない?」
 女の第六感は時に超能力に近い。ほぼ正解であるその推測に由布子がうなずいた時、背後のドアがあいて誰かが入ってきた。
「もどりましたぁ。」
 ガサガサと紙袋の音がする。甘ったるい声は電話で聞いたものと同じだ。これが梶山の言う使えない事務員か。どんな子だろうと振り返って、由布子は息を飲んだ。茶色く染めた長い髪、不自然なほど細い脚。ALCOHALLの前ですれちがった時、大塚が連れていた若い女がそこにいた。
「ああハセちゃん、紹介しとくわ。」
 梶山は由布子の顔色には気づかないらしく、女を手招いて言った。
「長谷川あかりさん。あたしが辞めたあと、うちの経理と事務やってくれる子。こちらはホームイング・エグゼの菅原由布子さん。第三営業部の主任さんよ。」
 よろしく、とはどちらの女も言わなかった。あかりは食い入るように、由布子は愕然として、互いに相手を凝視しあった。あかりの視線にこもる憎しみの色に由布子は、大塚と自分の関係をこの女は知っていると直感した。
 くるっ、ときびすを返してあかりは歩きだし、荷物を下げて湯沸室に入っていった。バタンと乱暴に閉められたドアを梶山は、憤懣やるかたないといった様子で睨みつけ、
「ね? 万事あの調子。あったま来るでしょ。礼儀も何もさ、わかってないのよね今どきの若い子は。いくら紹介だからってさ、あんなの早いとこクビにしちゃえばいいのに。学生アルバイトの方がよっぽどましよ。」
 罵ったあとで梶山は、あかりのせいで自分が毎日どれほど苛々させられるかを語り始めたが、由布子はもう聞いていなかった。浦部にナヴィールの件がばれた背後には、思いがけず固くもつれた人間関係の糸がある。インテリア齋藤にあかりを紹介した取引業者とは、アトリエ・ニートの大塚に違いない。
 やがて現場から社員の一人が戻ってきた。それを潮に彼女はソファーを立った。また連絡するからと言う梶山に、頼むと答え外に出た。駅への道を歩き始めたところで、
「ちょっと、待ちなよ。」
 背後からあかりに呼び止められた。つかつかと目の前へ歩みよってきて、
「あんた、今でも脩二さんと寝てんの。」
 彼女は言った。緑のアイシャドウで強調した目が般若のように吊り上がっている。
「聞いちゃったよあたし。あんた、どっかの若い男ともつきあってんだって? その男に頼まれて、うちの店に汚いことさせたんだろ。脩二さんと二股かけてさ、そっちの男も利用してんだ。」
 あかりは通行人が振り向くほどの大声を張り上げ、
「そういうのってサイテーだよな! 信じらんない! 主任だか何だか知んないけどさ、あんた仕事にかこつけて、手当たり次第に男漁りしてんだろ! こんな女に騙されてる、脩二さんもあきめくらだよ。あんたのせいであたしは彼に捨てられたんだ。許さない。あんたも脩二さんも、絶対に許さないからね。」
 まくしたてられて由布子は正直、当惑した。自分の受けた痛みに狂乱しているあかりには、何が事実かそうでないのかも、わからなくなっているのだろう。
「覚えてろ。あたしが必ず吠えづらかかせてやるからね。あたしがどんな気持ちだったか少しは思い知るといい。覚悟してろよ。そのままじゃ絶対、済まないからな!」
 どん、とあかりは肩で由布子を突き飛ばし、走っていった。ガードレールに腰をぶつけ、由布子は彼女の背中を見送った。
 ダーツの的のように自分に集中する複数の悪意を由布子は思った。初めに大塚、次に浦部。あの発注書が浦部に押さえられているなら、彼女にもう打つ手はない。浦部は最初から全証拠を突きつけようと思えばできたものを、わざと由布子に伏せておき、じっと出方を待つようなやり方をしている。これが悪意でなくて何であろう。そしてまたあかりの罵倒と、いわれもない逆恨み。
 なぜなのだ、なぜこんなにも憎悪のつぶてばかり投げてよこされる。拓のそばを離れろというのか。彼の恋人になる資格など、私にはないというのだろうか。泣く力も失せて彼女は、目の前を走り過ぎる車の列に虚ろな視線を投げていた。
 

第3部第1章その7へ
インデックスに戻る