【第3部・第1章】 bV
 
「自己都合、でいいから退職願を出すんだな。」
 月曜日、またも小会議室に由布子を呼び出し、浦部は言った。テーブルの上には彼が集めた証拠書類として、インテリア齋藤宛の菅原扱いの発注書、納品書、MOから読み出したに違いないナヴィールの設計仕様書、原価計算書、加えて先日と同じポスターと、拓の写真が並べられていた。
「ノルマも達成せずに業務違反。主任という責任ある立場にありながら会社に大きな損害を与えた。これは十分に懲戒免職となる事項だが、まぁそれだけは勘弁してやろう。」
 由布子は膝の上に組んだ手を、痛いほど握りしめていた。覚悟はしていたがこれだけのものを目の前に広げられると、羞恥と悔恨が一緒になった、恐怖に近い感情が生まれる。
「就業規則第三条第一項。従業員はいかなる場合においても会社の許可なく資材およびそれに付帯する加工工事を、提携業者に発注してはならない。」
 浦部は規定集の一文を朗々と読み上げ、
「聞こえてるか、菅原主任。」
「…はい。」
「この期に及んで嘘はつくな。この写真の男に君は、いったい幾ら貰ったんだ。」
 浦部の考えはどうしてもそこから離れないらしいが、
「いいえ、それだけはありません。私は誰からも一円も受け取っていません。」
 由布子の否定を彼は鼻で笑って、
「まだ白ばっくれる気か? 図々しい女だな君も。」
「本当です課長。確かに安いレートで発注はかけました。会社の名前を出したことも認めます。でも報酬は受け取っていないんです、信じて下さい。」
 必死の思いで由布子は言った。が浦部は溜息をついて足を組み直し、
「信じろってねぇ…その台詞は聞くわけにいかないな。大したキツネだよ菅原さんは。君、アトリエ・ニートの大塚社長ともつきあってたんだってね。とある人に聞かされたんだが、いやこれには僕も驚いた。」
 彼女の背中を氷の汗が流れた。悪意はどこまで私を責めたてるのだろう。
「全く見境ないというか、取引業者の男を片っ端から相手にしてるんじゃないだろうな。こんなことが顧客に知れ渡ったら今の御時世、逆セクハラだなんて言われかねないぞ。そう、このアルバイトの男なんか特にね。」
 ぴん、と浦部は写真をはじき、いやはやという感じで首を振った。
「全くもって今回のことはキツネとタヌキの化かしあいだよ。間にはさまれてうちの会社がいい迷惑だ。責任は君に取ってもらう。わかってるな菅原主任。」
 下唇を由布子は噛みしめた。退職願。とうとうそうせざるを得ないのか。上海も、新商品ランファンスも、幻となって消えていく。しかし浦部はさらにもう一つ難題を持ち出してきた。
「それと君が会社に与えた損害だがね。これはうやむやにするわけにはいかない。退職すれば済むという問題じゃないからな。ことを荒立てれば会社側は君を業務上横領罪で訴えることもできるんだが、そうなるとNK本社にも話が及んで中野社長も黙っちゃいないだろう。だからね、このナヴィールという店の請負契約が遅れたことにして、都合三百六十万、会社に支払ってもらうよ。」
「さ、三百六十万?」
 思わず由布子は問い返した。そんなばかな。齋藤へのレート差額は七十万。それがどうして五倍以上の金額になるのか。
「あのなぁ主任。」
 浦部は軽蔑の笑いを浮かべ、
「請負ベースなら三百六十万なんだよ。原価だけ発生する工事がどこにある。材料だけの販売なんて、設備屋じゃあるまいし当社はやっていない。設計施工にコンサルティング。まともに計算すれば五百万近い契約だ。それを君が勝手に請けて勝手に施工した。三百六十万にしてやっただけでも、会社はずいぶん譲歩していると思ってもらわなくちゃな。」
 彼はナヴィールの平面図をバサリと由布子の前に放り出し、
「どこかで見たと思ったら、君がコンペに出したものとほとんど同じじゃないか。本当にやることが大胆だな。会社をなめるにもほどがある。そうだ、そういえば君は多田部長に口をきかせて、内山建設に誰だか知り合いを入社させてるだろう。」
 由布子はギクリとした。浦部はわざとらしく書類の束をさばき、
「ああこれか。廣沢陽介ね。十七歳じゃあまさか君のお相手じゃないと思うが、この話が大きくなれば、この廣沢って子にも類が及ぶな可哀相に。」
 そんな、と由布子は浦部を見た。陽介とエグゼは何の関係もないではないか。
「それはおかしいです。廣沢さんはちゃんと内山社長と面接の上で採用して頂いたんです。私の知り合いだというだけで、そんな筋違いなこと…」
 反論すると浦部は口元を醜く歪め、
「筋違いねぇ。だが業務上横領罪に問われた人間が紹介してきた奴を、かりに内山が疑ってかかるようになったとしてもだ。常識からいってこれは仕方のないことじゃないか?」
「やめて下さい、課長!」
 由布子は哀願の口調になった。社内試験の合格証を真っ先に見せにきてくれた陽介の笑顔。毎日会社へ行くのが楽しいと言って、瞳を輝かせていた。あの笑顔を、あの瞳を、今度は私が曇らせてしまうのか。
「まぁ、だからここはね。」
 ところ狭しと広げた紙を浦部はガサガサ片付け始めた。
「君に三百六十万支払ってもらうしかないんだよ。もし君が払えないというのなら、この店の登記上のオーナー、高杉久雄さんに話を持っていかなきゃならない。まぁ本来は高杉さんが支払うべき金なんだ。今からでもその点相談してみたらどうだ?」
 椅子を引いて浦部は立ち上がり、座ったままの由布子の脇をすり抜けて出ていった。
 あまりにも多くの矢をいっぺんに射かけられ、彼女の心は動揺を通り越して麻痺していた。退職願、業務上横領罪、三百六十万円。立ち上がることさえ忘れて由布子は、それらを繰り返しつぶやいた。これはきっと悪い夢だ。目が覚めたら何もかも、元通りになっているに違いない。ランファンスの原価計算書だって、まだ作りかけのままなのに…
 トントン、とノックが響いてドアが開いた。顔を出した男が言った。
「すいません、ここ、打合せで使いたいんですけどいいですか?」
 由布子は我に返った。小会議室にいつまでも一人で籠ってはいられない。自席へ戻って彼女は、机の上をぼんやり見回した。プロジェクトのスケジュールをびっしり記入した卓上カレンダー。その隣に白い電話機。縮小コピーした内線番号表の中に、彼女をあらわす『菅原』の二文字。
 会社。社会に出てからの人生のほとんどを過ごす場所。単に給料をもらうため以上の、深い意味を持つ集団生活の場。私はもう、ここにいられなくなる。組織図からも番号表からも、私の名前は抹消される。そんな人間は一度も存在しなかったかのように。誰も知らない余所人(よそびと)のように。
 ふいに、白い機械が鳴った。不思議なものの如く彼女はそれを見つめた。同僚が怪訝な顔を向けた。由布子は受話器を取り上げた。
「…はい。」
 出ると、受付嬢が事務的に、大塚からの電話だと告げた。回線がプツリと切り替わり、何かに慌てた男の声がした。
「もしもし、由布子か? 急ですまん。聞きたいことがあるんだ。この前はすまなかった、追い返すような言い方をして。」
 彼女は黙っていた。耳の中をただ音が流れた。
「あいつ…長谷川あかりが、とんでもないことをしただろう。浦部さんと齋藤社長に俺たちのことを話して、他にも何社か言いふらしたらしい。こういうのは広まったら早いんだ。君の耳に何か入ってないか?」
 ああそうかと彼女は思った。由布子と拓がつきあっていることを浦部に話したのは大塚で、大塚と由布子がつきあっていたことを彼に話したのは、あかり。とんだ「キツネとタヌキの化かしあい」で、これには浦部も笑ったろう。大塚は間違いなく、エグゼからも齋藤からも二度と相手にされなくなる。
「もしもし、聞いてるな由布子。俺は知らなかったんだぞ、信じてくれ。あかりが勝手にかぎまわって、ヒステリー起こしただけだからな。しかし困ったことをしてくれたもんだ。何とか齋藤社長に取りなしてもらえないかな。あそこのベテラン事務員と君は知り合いなんだろう?」
 今さらどうにもならない保身を願ってきりきり舞いしている大塚のみじめな姿が目に浮かんだ時、由布子の心から煙のように、彼に対して抱いていたすべての感情が消えた。かつては愛し、尊敬さえし、やがて悲しみに変わり憎しみと化し、少しばかりの同情と哀れみ、ついには後悔に変わった彼への感情。
 電話の向こうで大塚はなおも繰(く)り言を重ねていたが、由布子はそんな言葉を無視して、短く尋ねた。
「大塚さん、ご両親は?」
「なに?」
 いきなりの質問に驚いたか、彼は不審げに、
「…二人とも実家で元気にしてるが…それが、どうした。」
 由布子は目を閉じ、薄く笑った。
「親御様は大切になさいませね。」
 受話器を彼女は耳から離した。もしもし、もしもしと呼びかける声を、由布子は静かに葬った。
 

 終業ベルが鳴るとすぐ、誰とも口をきかずに由布子は社を出た。
 彼女の頭は一切の思考を停止していた。今日は何も考えるなと、どこか遠くで声がした。動いているのは肺と心臓と手足だけ。心は雨に見捨てられた大地さながら、カラカラに乾いてひびわれていた。

 山手線に揺られ、彼女は向かいの男が読んでいる新聞広告に目を止めた。大手サラ金会社のものだった。五十万円まで即ご融資、ご来店はお気軽にとある。彼女は算数の宿題を解くように足し算をしてみた。銀行口座に預金が約七十万、クレジットカードの上限は五十万。さて三百六十万作るには、あと何軒のサラ金から五十万ずつ借りればいいのでしょうか?
(三百六十万だなんて、どうしてそんな金額になるのよ。七十万でいいはずじゃない…。)
 はかない恨みごとを彼女はつぶやいた。
(原価だけの工事はありえないだなんて、そんなの課長の采配一つでどうにでもなる。それくらい私にだってわかるのに。)

 逃げ場のないところへ由布子を追い込み、反撃を封じておいてじわじわと網を絞るような浦部のやり方には、精緻かつ周到な計画性さえ感じられる。そこまでされなくてはならない理由が、彼女はいまだにわからなかった。何となくソリのあわない上司ではあったけれど、別に彼の昇進の邪魔になるとか、私はそんな存在ではないはずだ。

 どうでもいい、と彼女は思った。浦部が何を考えていようと、辞めてしまえば終わる関係だ。渋谷で下り、バスに乗り、アパートに帰り着くと由布子は留守電の再生ボタンを押した。拓の明るい声がした。
「俺。今夜はスクールで、そのあと飲み会。遅くなると思うけど、何かあったら携帯まで。んじゃな。」
 屈託のない、呑気なメッセージだった。由布子は立ったまま受話器を撫でた。これでいいと彼女は思った。拓には笑っていてほしかった。自分を締めつけている今の苦しみを、彼には感じさせたくないと思った。

 由布子はその晩拓にはダイヤルせず、干からびた心のまま眠りについた。
 

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