【第3部・第1章】 bW
 
 翌日、針の筵に座る思いで由布子は出社した。浦部の顔など見たくもなかったが、自分が休んだら高杉に連絡されるかも知れないと思うと、出ずにはいられなかったのである。当然仕事になるはずはなく、気がつけば放心している彼女に、運命の女神は少しだけ同情したのか、思わぬ情報をもたらしてくれた。梶原からの電話である。
「ね、ちょっとさ、外から連絡入れらんない。話があるの、重大な話。」
 意味深長な口ぶりに由布子はすぐオフィスを出、コールした。梶山の方は例によって一人でいるらしく、特に声もひそめずに、
「あのね、あれから気になってさ、エグゼからの発注書の束をね、調べてみたのよ。そしたらさぁ、何かちょっと変なのよね。」
「変って、何がですか?」
 ただならぬ様子に由布子も緊張した。
「今回さ、菅原扱いの伝票が問題になってるでしょ? それと同じくね、エグゼの営業部扱いになってる発注書がけっこうあんのよ。普通は全部あたしの手元通らないと経理処理されないのに、あたしの知らない発注書がずいぶんあるの。それがみんな営業部扱いでさぁ。でね、こっから先が問題なんだけど。」
 梶山が受話器に口を寄せるのがわかった。
「その伝票をね、全部浦部さんが切ってるのよ。」
「えっ…?」
 おかしい、と由布子は思った。課長職になれば現場は持たない。彼が発注などする理由がない。
「ねぇ、浦部さんてさぁ、なんかヤバいことやってんじゃないの? もしかして今回菅原ちゃんのしたこと、自分がやってるのと同じだったりして。それであんなにアセッてんのよ。ね、そうだと思わない?」
 興味津々の様子で梶山はささやいた。まさにその通りかも知れなかった。偶然とはいえ部下が自分と同じ手口を使ったと知ったなら、なんとしてもクビにしようと画策するのは道理である。
「梶山さん、その伝票、コピー取れますか。」
 尋ねると梶山は共犯者の口ぶりで、
「そう来ると思ったわよ。感謝しなさい、全部コピーとっといた。浦部のハンコがくっきりよ。」
「ありがとうございます。」
 持つべきものは年長の、同性の、訳知りの友人である。由布子は電話のこちら側で彼女に頭を下げた。
「で、どうする。あしたでも取りに来る? 今日はちょっとね、あたし早退すんのよ。でも大丈夫、あのバカに絶対見らんないように机にカギかけて帰るから。」
 ならば明日の始業前に寄ると約束して、由布子は携帯を切った。
 道が、ひらけるかも知れない。そう思うと闘志が沸いてきた。スカーレット・オハラの台詞ではないが、明日には明日の風が吹くのだ。夕べは絶望に閉ざされていた心が、今日はかくも前向きに攻撃的になっている。エグゼのフロアに彼女は大股に歩み入った。浦部は外出していた。由布子は席に座った。と、そこへ部長の多田がやってきて、
「ちょっと、いいかな。」
 さりげなく彼女を呼んだ。小会議室ではなく部長用の応接室で、由布子は多田と向かい合った。
「浦部課長に、聞いたんだけどね。」
 やはりその話かと彼女は身を固くした。しかし多田は浦部とは正反対の、思いやりに満ちた心配そうな眼差しを向けてくれ、
「単刀直入に言うが、菅原さん、何とかお金作れないか。そうすればさほど難しい話にはならないんだ。退職願ももちろん不要だし。」
「部長…」
 冷酷な叱責で痛めつけられていた胸に多田の優しさがしみいる気がして、由布子は思わず目をうるませた。
「まぁ君の直近上司は浦部君だから、彼の意見は聞かないでもないんだけれどね、…どうも彼はその、融通がきかないというか、ものごとを四角四面にとらえすぎるんだな。上海プロジェクトのメンバーにせっかくうちの社員が選ばれたものを、そういうところが全く考えに入っていない。いやいやこれは僕の独り言だけどね。」
「わかっています。」
 多田の苦笑に、由布子も笑ってうなずいた。部長が課長の悪口を課員に聞かせるなど言語道断なのだけれども、この場でそれを暗黙の了解事項とすることにより、二人の間にはいわば法外の同盟が成立する。多田はテーブル越しに少し顔を近づけ、秘策でも授ける如く言った。
「あれこれ細かいことはもういいから、とにかく三百六十万だけ会社に入れられないものかな。施主理由で契約が遅れていたことにして部内処理をしてしまえば何も問題はないんだよ。浦部君にああこう言われなくても、先に僕がハンを押しちゃうから。」
「三百六十万、ですか…。」
「そう。ご両親に相談―――といっても、そうか君にはいらっしゃらないんだったな。」
「はい…。」
 由布子がうつむくと、
「だったらなおさらだ。普通の女子社員と違って、簡単に辞めるわけにもいくまい。実家に帰って家事手伝いと、そうはいかんのが君の事情だろう。」
 ああ、多田はわかってくれている。彼女の胸に熱い感謝が満ちた。
「そうだな…たとえばご親戚に相談するとか、もしくは、あまり強くは勧められないが、銀行でローンを組むとか、そんな方法もあるだろう。うちの給与口座はみんな東京中央だから、あそこなら多少無理はきくと思うがな。」
「銀行ですか。」
「うん。バブルの頃のようにホイホイとは貸してくれないだろうし、もしかしたら保証人はいるかも知れないが…ご親戚のかたに保証人くらいなら頼めるんじゃないか。」
「…はい。」
 応じながら由布子は、それは難しいと思った。あてと言えば仙台の叔母しかいないが、借金の保証人になれなどと言ったら、こっちに帰ってきて見合い結婚しろと説得にかかられるのが関の山だ。
「僕がなぁ。個人的に力になってやれればいいんだが、なんせ上の娘が来年結婚、下の娘は今度成人式でね。蓄えはほとんどそっち行っちゃうんだなぁ。」
 そう言った時多田は部長ではなく、一人の父親の顔になっていた。ちくりと鋭い痛みが心の真ん中を走ったが、もとより多田に関係のあることではない。彼女は背中を伸ばし、言った。
「いいえ、そこまでのお願いはできません。こうやって方法を教えて頂けるだけで本当にありがたいです。大丈夫です。お金、なんとかしてみます。」
「そうか。」
 多田はほっとしたように笑い、
「社内融資なら一千万まできくんだがな、まさかこれは無理だからなぁ。結婚、住宅取得、学費、治療費…そういう明確な理由がいるし、第一浦部課長のハンがないと駄目か。」
 シニカルな冗談を言ったあとで、
「じゃあよく考えてみてくれ。大変だと思うが一両日中に見通しを教えてくれるかな。それ以上押さえると浦部君がまたごちゃごちゃ言い出すだろう。ここを何とか乗り切って、上海に行きなさい。せっかくのチャンスなんだ。NKの関根係長がいたく君を買っててね。第二の関根目指して、頑張るんだぞ。」
 ぽん、と肩を叩いてくれた多田の手は、大きくて暖かかった。彼女の知らない父親の手であった。
 浦部と違って多田はおそらく、金は受け取っていないという由布子の主張を信じてくれたのだ。直近上司の意向を覆してまで手を差し伸べてくれている部長の、期待と思いやりには応えたかった。彼女は昼休みを待ちかねて、会社の近くにある東京中央銀行芝浦支店に出むき、個人融資の相談をもちかけた。
 窓口にいた中年の男性行員・松本は、非常に感じのよい誠実な態度で由布子の話を聞き、融資申込の書類をカウンターに揃えてくれた。がしかし彼は、融資希望額にだけはいささか首をかしげた。
「三百万円…でございますか…。」
「難しい、ですか?」
 記入の手を止めて由布子が尋ねると、
「はあ。いえ菅原様も御存じの通り最近はどこもなかなか条件が厳しくなっておりまして…。」
 日本中が狂っていたあのバブル全盛期においてさえ東中は『お堅い銀行』で通っていた。そのおかげで他行に比べ不良債権の締めつけがなく、巨大銀行がいくつも合併している今日においても、泰然たる独立経営を誇っているのだ。長期的な不況のただ中にある現在、融資条件が一層厳しくなっていても不思議はない。
「とにかく上部と諮ってみますので、ご希望額はそのまま三百万とお書き下さい。ですがもしかしたら、保証人様をお願いすることになるかも知れません。その点をあらかじめお含み頂ければ…。」
「そうですか。」
 少なからず由布子は失望した。松本の言いたいのは要するに、できる限り努力はするけれどもあてにはするなと、そういうことなのであろう。一通り記入して申込書を渡すと彼は、
「ではこちらを内部審査させて頂きますので、内定が下りましたらご連絡申し上げます。その際に揃えて頂く書類は、課税証明書と住民票、それに印鑑証明…」
「――――あのぅ。」
 松本の言葉を遮って、彼女は聞いた。
「もし、保証人は無理だったとして、その場合は幾らくらい、お願いできるのでしょうか。」
 すると松本は困った顔をした。
「いや、そちらは私が今ここでお伝えできることではございませんので…。もしそれによってお客様が何らかのご予定を立てられてしまった場合、かえってご迷惑をおかけする結果になりますし。」
「いえ、そんなことはありません。参考までにあなたの単純な予想で結構です。こんな感じじゃないかなという金額を教えて頂けませんか。仮に駄目だったとしても文句は言いません。言質(げんち)はとらないです、大丈夫。」
 彼女もそこは営業職である。うまくニュアンスづけて食い下がると、松本は小声になって、
「あくまでもご参考にしかすぎませんが、おそらくは三分の一…ないし半分といったところかと。私の個人的な考えですが。」
「わかりました。どうもありがとうございます。よろしくお願いします。」
 頭を下げて、彼女は銀行を出た。自動ドアを抜けると冷たい風が吹きつけてきた。足元をかすめて枯葉が飛ばされていく。由布子は衿元をかき合わせ、信号が変わるのを待った。すぐ脇は東中のウインドゥで、四角いガラスの中に吊り下げられた広告ボードには『お客様一人一人の暮らしを支えるパートナー、東京中央銀行』とうたい文句が大書してあり、代表取締役のガッツポーズと、東中がいかに誠実な銀行かを仰々しく書き立てた文章が並んでいた。鼻白んだ気分で斜め読みし、由布子は昔どこかで聞いた『銀行というところは、金を借りなくても何とかなる人間にしか金を貸さない』という風刺のジョークを思い出した。
 

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