【第3部・第1章】 bX
 
 長い午後の時間、由布子は何度も電卓を叩いてはわかりきった不足額をじっと睨みつけたり、カード会社のパンフレットを引っ張り出して規約を隅々まで読み返したりした。
 不足額は少なくて九十万、多ければ百四十万だ。これをどう埋めるかがさしあたっての問題であった。よくニュースなどで、何千万の借金を苦にして自殺というのを耳にするけれど、そんな大金をいったいどこが、どうすれば貸してくれるのだろう。
(やっぱりサラ金しかないのかな…。)
 夕べ山手線で見た新聞広告が頭をよぎった。五十万までは即融資。三軒から借りれば百五十万になる。確かああいうところはコンピュータで借入状況を調べるはずだが、短時間で三軒回れば登録が間に合わずに、ちゃっかり借りられるのではないだろうか。
 いや、そんな詐欺師まがいのことをして後でばれたら、ヤクザが四〜五人で取り立てにくるのかも知れない。借りた金を返せなくてソープで働かされる女の話を彼女は寒々と思い出した。由布子のようにドラマを通してしかサラ金の知識を持たない人間は、どうしてもこういう陳腐で漫画的な先入観を抱いてしまう。実際怒らせたら銀行の方がはるかに怖いのであるが、そこまでの人生経験はまだ彼女にはなかった。
(他の方法っていったら、あとは個人的な知り合いに頼むとか…)
 こちらはもっと無理であった。金持ちの友人もいることはいるが、音信不通で丸五年が過ぎている。いきなり電話して金を貸せでは、頭がおかしくなったと思われておしまいだろう。
 考えあぐねるうち終業チャイムが鳴った。帰り支度をしていると石原に、
「どしたの菅原ちゃん。なんかここんとこ早いわね。深夜残業の常連さんがどうしたの。」
 笑いながらそう話しかけられ、由布子は気まずさとともにわずかな怒りを感じた。あんたに何がわかるんだと、内心で完全な八つ当たりをして、
「お先、失礼します。」
 無愛想に告げ、フロアを出た。
(百四十万…。)
 その数字が頭から離れなかった。金というものの重たさを由布子は生まれて初めて知った。友情や恋愛の悩みとは、ちょっと質の違う辛さであった。恋の苦悩が胸を焦がすなら、金の苦労はちりちりと肌を焼く。泣きながら眠りについたところで何の解決にもならない。手を動かし足を運び、人に恥を曝して初めて得られるのが金である。二十七歳の女の手には、少々余る苦労であった。
(でも何とかしなくちゃ。)
 彼女は自分を叱咤して、ふと一人の男を思い出した。力になると言ってくれた男。それくらい持ってやるよと確かに言った。馬場啓一、喫茶店のオーナー。三百万くらいあの男なら出してくれるのではないか。いやせめて保証人になってくれはすまいか。そういえば彼の取引銀行も東中である。馬場が付いてくれれば芝浦支店も、文句なくOKをくれるに違いない…
(何を馬鹿なこと考えてるの私は。)
 由布子は頭を振った。忘れたのか、あの撫でまわすような目つきを。素朴な山男だなどと考えるのは甘すぎる。誰にも頼らず自分で金を作る方法があるはずだ。サラ金が何だ。金を貸すのが彼らの商売ではないか。ひと昔前ならいざ知らず今は法律も整備されたと聞く。怖いことなどきっとない。びくびくする必要はないのだ。
 彼女は意を決して、駅の反対側にある無人契約機のコーナーに足を踏み入れた。雑居ビルの一階である。いらっしゃいませ、と機械の声が迎えた。ATMにそっくりな画面に向かうと、脇に注意書きが貼ってあった。操作を始める前に由布子はそれを読み、中の一文に目を引かれた。
『無人契約機によるご融資は上限五十万円までです。それ以上の場合はご来店下さい。(百五十万円までは担保&保証人不要!)』
 百五十万円。それだけあれば銀行で百万しか借りられなくとも大丈夫だ。彼女は同じビルの五階にある店舗へと続く、薄暗い階段を昇り始めた。毒々しい赤と緑のリノリウムの床に、手すりはところどころ錆びて塗装が禿げている。壁や踊り場の隅々にしみついているこのみじめさは何なのだろう。金を借りようという時、普通の人間が思いつくのはまず銀行、続いてクレジット会社だと由布子は思った。もしくは信頼のおける友人知人。そういった相手にとりあってもらえない人間だけが、こういう場所にやってくる。まともなところでは借りられない者だけが…。
 ドアの開く音がして、足音が下りてきた。彼女は上を見、ギクリと身を引いた。どう見てもチンピラとしか思えない男が、薄茶色のサングラスをかけ、ズボンのポケットに両手を入れて歩いてきた。男はちらっと由布子を見た。あわてて彼女は目を伏せた。ニヤ、と男が笑うのがわかった。
 学生時代に新宿の喫茶店でアルバイトをした時、店のママに教わった。ヤクザはカタギさんには礼儀正しい。自分とは違う世界の人間だと思う相手には、絶対手出ししないから安心しなさいと。だが今目の前にいる男は、ゆっくりと彼女の全身をねめまわし、黄ばんだ歯を見せ下品に笑った。こんなところに来る人間だ、ろくな女じゃないと思われたのだろうか。
 だがそれも一瞬のことで、男は何も言わずに彼女とすれ違い、トントンと階段を下りていった。由布子の足はいっぺんに重くなった。このまま昇らずに帰ろうか迷った。しかし金は何としても要る。彼女は歩き続けた。五階に着き汚れたマットを踏むと、ガタガタと音をたてて自動ドアが開いた。
 いきなり子供の泣き声が耳にとびこんできた。五歳くらいの男の子が、母親とおぼしき女の長いスカートにしがみついて、火がついたように泣きわめいていた。
「だからさぁ、あと三日だけ待ってもらえない? 頼むわよ。お客にツケ入れてもらったらすぐ持ってくるから。利息だけって言われたってアンタ、いま財布には千円も入ってないのよぉ。」
 女がカウンターの男に半分色目を使っているのがわかる。子供に黙れとも言わないのは、店員の同情を引くために違いない。由布子の足は震えた。借金地獄…ああこれが、金を返せない女の姿なのだ。
「いらっしゃいませ。ご新規ですかぁ?」
 入口に立ちすくんでいる由布子に気づいたか、別の女店員が奥から出てきた。まっ茶色の髪に濃い化粧、あまつさえクチャクチャとガムを噛んでいる。
「いいえ、あの、ちょっと…」
 しどろもどろになって由布子は咄嗟に、ラックに入っていた案内パンフレットを手に取った。
「これ、貰っていこうと思って。それだけです。」
 情けないほど動揺して彼女は逃げ出し、階段を駆け下りた。歩道を渡り、駅にたどり着き、はぁはぁと苦しい息を柱の陰で整えた。
(何やってるのよ、私…)
 夢中で持ってきたパンフレットを、彼女はグシャッと握りしめた。
(百五十万いるんじゃないの? せっかく部長が力貸すって言ってくれてるのに、何よあれしきのことで。)
 自分を叱り奮い立たせようとしても、今見た中年女の姿が胸に焼きついて離れなかった。それから自分を眺めて笑ったあのヤクザの嫌らしい顔。駄目だ、危ない、やめた方がいい。あんな店に借りたが最後、きっととんでもないことになる。
 破り捨てようとパンフレットを持ち変え、しかし彼女は手を止めた。金を作れなかったらそれこそとんでもないことになるではないか。由布子が払えない分の請求は高杉に行くのだ。もし話がこじれれば陽介にまで災いが及ぶ。彼女はパンフレットの赤い文字を見た。『お申し込みはお気軽に。百五十万円までは担保も保証人も不要です!』…
 バッグの中で、そのとき携帯が鳴った。取り出してアンテナを伸ばしボタンを押すと、
「由布子? 俺。ごめんな、こっちかけて。」
 拓だった。彼女は目を閉じ、全身を耳にして彼の声を聞いた。暗い茨の迷路の中で、一輪のコスモスに出会った気がした。
「今日さ、今までのバイト料、精算してもらったんだ。臨時収入って訳じゃないけど、いちおうまぁ、リッチ? だからどっかで一緒にメシでも食おうかなって。あ、何時でもいいよ。仕事終わるまで待ってっから。」
 憎しみや悲しみで傷ついた心には、些細な言葉もひどくしみる。由布子の無言はそれゆえだったが彼は、
「もしもし、どした? あ、今まずかったか。わり。あとでかけ直――――」
「ううん違うの、もう会社は出てる。帰りがけ。ここ駅なの。」
「なに、もう帰りなんだ。早いじゃん。んじゃ今からすぐ待ち合わせで大丈夫?」
「あなたはいいの? 今、どこ?」
「代々木。ラカデミィ終わったとこ。すぐ出られるよ。どこ行く? 久さんとこにする?」
「ううん、ナヴィールは…」
 即座に反対してしまったが、拓は気にせず、
「そっか。んじゃ渋谷でいいな。南口改札。いい?」
「南口ね。わかった。」
 通話を切って彼女は時計を見た。まだ六時過ぎである。石原に言われた通り、由布子にしてはずいぶん早い時間であった。パンフレットをどうしようか一瞬迷ったが、彼女はそれを二つ折りにしてバッグのポケットにはさみ、山手線のホームへ急いだ。
 渋谷駅で拓は待っていた。肩におろした髪が、吹きこんでくる北風に小さくなびいている。彼もすぐ由布子に気づき、手を上げて合図してきた。
「ごめんね、待った?」
 駆けよると彼は、
「いやほんの五分。」
 そう応え、歩き始めた。東急プラザに向かう横断歩道を渡りながら、
「さぁてどこにすっかな。たまにはちゃんと食えっとこ行くか。俺のバイト決まりました祝いもかねて。」
「あ、正式に決まったんだ。よかったわね、おめでとう。」
「サンキュ。いや前の店長がさ、いろいろと口きいてくれたおかげ。池袋ハンズのグリーン売場。ハンズ好きだしラッキーかも知んない。池袋だったらうちからも近いしな。」
 由布子は驚いて拓の横顔を見上げた。この前とは話が違う。
「ハンズって…高階先生の助手やるんじゃなかったの? まさかかけもちする気?」
 問うと彼は少し間をおいて、
「ああ、あれな。ん…ちょっとな。いざ行ってみたら、ちょい、いまいちでさ。先輩の助手たちがなんかムカつく奴らで、多分ケンカしそうな気がしたから、やっぱ断った。もちっと勉強して、あいつらと肩並べられるようになってからだな。そしたらまた考えるよ。」
「そう、断ったんだ…。」
 小さくつぶやき、由布子は思った。助手の話はもしかしたら嘘だったのかも知れない。帝国ホテルでは確かにそんな話も出たけれど、ど素人の拓がいきなり助手をつとめるのは泳げない人間が太平洋に飛び込むようなもので、高階の意向はともかく、実現は最初から無理だったろう。あの晩由布子が大泣きしたとき拓は、ここで自分が、次のバイトのあてはないなどと言ったら彼女がいたたまれなくなるだろうと考え、クビになってちょうどよかったんだよと、優しい嘘をついてくれたのではないか。そう、多分間違いない。このひとはそういう人なのだ…。
 由布子の推察は正しかった。そしてこういう点、彼女と拓はまことによく似ていた。相手に対して気が回りすぎ、人の気持ちが読めすぎるのだ。ゆえにこそ一層臆病になり、心の入口で立ち止まってしまうことが多い。この二人のどちらかがもし、もっと無頓着であったなら、通いあう深さは別にしても、男女間の発展はずっと早かったのであろうが。
 

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