【第3部・第1章】 bP0
 
「――――ここ。この店。雑誌とかにもけっこう載ってっから、由布子も知ってんじゃねぇかな。」
 そう言って拓が入っていったのは『びすとろだるぶる』渋谷店だった。青山に比べると店は狭くて素朴な雰囲気だが、味は優るとも劣らない。時間が早いので先客は一組しかいなかった。奥の席に二人は座った。
「俺、あんまグルメっぽい店は行かねんだけど、ここはわりと好きなんだよね。なんつうか、ヨーロッパの田舎家っぽい感じがさ、いいよな。」
「そうね。」
 オーダーを取りにきたウェイターに、拓は今日のお勧めを聞き、パスタを中心に何品かと、ロゼワインのボトルを注文した。メニューを返してタンブラーの水を飲み、由布子がつい漏らした溜息を拓は聞きのがさずに、
「なんだよ、疲れてんの? さっきから元気ねぇじゃん。」
「え? ううんそんなことないわよ。おなかすいただけ。」
「これだよ。ッたく色気ねぇ女。」
「ほんとね。」
 由布子は肩をすくめて笑い、ふと、疲れているのかと言われた自分の顔が気になった。サラ金でひどく汗をかいた。また化粧崩れしているかも知れない。
「ごめんね、ちょっと失礼。」
 椅子に置いたバッグを持って、彼女は化粧室へ急いだ。フロアと同様の暗めの照明は、女の顔にほどよい陰影をつけてくれる。うぬぼれ鏡だと彼女は思った。
 手早く顔と髪を直して由布子は席に戻った。拓は煙草をくゆらせていた。彼女を美しく見せた明かりは、生来の拓の美貌に愁いにも似たしめやかさを加えており、そのせいか紫煙の向こうの彼の表情は、何か深い悲しみに沈んでいるように見えた。
 シルバーがセットされ前菜の皿が並び、ロゼワインのグラスを触れあわせたあとで、唐突に拓は言った。
「由布子さ、俺に隠してること、ねぇ?」
 ドキッとして彼女はフォークを止めた。
「あのクソ親父がチクった他にも、なんかやっかいなことあんじゃねぇか? お前何でも一人で抱え込むのほんっと悪い癖だぞ。仏の俺もしまいにゃキレっかんな。」
 彼女は顔を上げなかった。まさか拓は知っているのだろうかと思うなり、
「お前…会社にバレたんだろ、ナヴィールのこと。」
 違う、と言おうとしたが声が出なかった。拓は溜息とともに、
「やっぱな。んなこったろうと思った。どうも様子がおかしいと思ったらよ、お前大変なことになってんじゃん。なんですぐ言わねぇんだよ。」
「…ごめん。」
 ほとんど声にならずに由布子が言うと、
「どうせまたアレだろ。俺の負担になりたくねぇとか、嫌な思いさせたくねぇとか言うんだろ。聞き飽きたよその言い訳。」
 きら、と鋭い目を拓に向けられたのがわかった。彼女は黙った。ウェイターがパスタを持ってきた。白く湯気を昇らせている料理に、二人はどちらも手をつけなかった。
「バレたんだな、会社に。」
 再び拓は言った。由布子はうなずいた。
「責任取れとか言われてんじゃねぇの。辞表、出せとか。」
「ううん…」
 彼女は首を振り、
「課長にはそうしろって言われたんだけど、部長がね。陽介さんを紹介する時も力になってくれた多田部長が、助け舟出してくれて。」
「助け舟って何だよ。金払えばいいっての?」
 思わず由布子は顔を上げた。拓はなぜこんなにするすると事を理解してしまうのだろう。彼はきゅっと眉をしかめ、
「金か。ッきしょ…。俺、ラカデミィの入学金払っちまったんだよな。主催の先生が一流なら学費も超一流でやんの。あぁおふくろの保険金これで使いきったなって、思ったんだよなちょうど。タイミング最低。」
「そんな、あなたにお金なんて…」
 由布子が言うと拓は彼女を見、
「そもそもさ、俺が、個人的に協力してくれなんて図々しいこと頼んだんだろ。それでお前が困ってんのに、無責任に放っとけっかよ。」
 グラスのワインを一口飲んでから、
「幾ら、いんの。金で済むなら何とかするっきゃねぇだろ。まさか久さんには言えねぇしな。」
「言わないで。」
 すがるように由布子は言った。
「高杉さんにだけは言わないで。あんなに喜んでくれて、せっかく経営も軌道に乗ってきたのに…。ここで、今ごろになって『実はバレました』だなんて言えない。絶対に言えないわよ。」
「わかってるって。そう悲劇的な顔すんな、わかってっから。」
 拓は手にしたグラスを揺らし、じっと何かを考える顔つきになった。少しサイド寄りに分けられた髪は、生え際をわずかに立ち上がってそこから、なだらかに額へ頬へと流れ落ちている。こころもち尖らせた厚い唇は、彼自身の指でなぶられていた。
 何を考えているのと、由布子は心で問いかけた。金を作る方法だろうか。だがそれは彼にとって、由布子以上に難しいことに違いない。拓はまだ勉強中の身で、アルバイトは定職とは言い難い。彼が金を借りるとしたら銀行や金融会社ではなく、誰か知り合いに頼むより他に…
 あっ、と由布子は息を止めた。拓にはひとつだけ方法がある。最も確実で簡単で、しかし最も屈辱的な方法。あの公園で女は言った、『お金なんて私に言えばどうにでもなる』と。
 拓は今あの女のことを考えている。由布子は胴震いした。呪わしき映像がたちまちに、脳裏に広がり動き始めた。彼は女に連絡を入れる。呼び出されたマンションの暗証ロックを、彼はまだ覚えているかも知れない。捨てたはずの過去が澱(よど)む部屋。無表情にソファーに座って、彼はぼそりと言うだろう。
『金…要るんだ。頼める奴、他にいなくてさ。』
 女はニヤリと残酷に笑う。一握りの札束をテーブルに置いて、
『ひざまづきなさいそこに。誓うのよ、二度と私から逃げないこと。判ってるわね。』
 尊大に脚を組み、女は靴先を彼の前に差し出す。感情の一切を押し殺して彼は、ヒールを支え、唇を押しあて―――
 由布子の脊髄を電流が走った。許さない、断じて許さない。拓にそんなことをさせるくらいなら、私が馬場の愛人になった方がましだ。サラ金に借りて返せなくなって、ソープに叩き売られた方がまだ救われる。
「あのね、拓。」
 重い声で由布子は言った。
「大丈夫なの。私、ちゃんとあてはあるの。」
 拓は疑わしそうに目を上げたが、
「少しは貯金もあるし、クレジットカードだって使える。私これでも五年間サラリーマンやってるんですからね。それくらいの採算は――――」
「…あてのある奴が、なんでこんなの持ってんだよ。」
 彼は由布子の前にいきなり、サラ金のパンフレットをつきだした。考えていた台詞を彼女は忘れた。
「さっきバッグ持ち上げた時に落っこったんだかんな。なんだよこれ。百五十万円までは保証人不要? 胡散臭ぇな。年利三十五%なんてこれ、馬鹿にすんなって数字だぜ? 法定金利越えてんじゃねぇかよ。」
 料理の皿越しに彼はそれをポンと放ってよこした。くしゃくしゃに折れ曲がりよじれた紙の上で、一世代前のアイドル女優が笑っている。こんなもの、なぜさっき破り捨てなかったのだろう。だが由布子の気持ちはそれ以上崩れなかった。甦ってきたあの女への憎しみが、逆に冷静を保たせたのである。
「ああ、これね?」
 由布子は手に取り、平然と眺めてみせた。
「たまたま駅で配ってたのよ。つい受け取って捨てそこねただけ。まさかこんなところから借りないわよ。実は今日ね、昼休みに東中に行ってきたの。あそこは会社のメインバンクだから平気。危ないことなんてない。窓口の人も感じよくて、ほぼ大丈夫でしょうって言ってくれたわ。」
「…」
 信じがたいといった表情の拓に、彼女は重ねて言った。
「大丈夫だったら。こんなところから借りない。会社のことだけに、銀行からきちんと借りたお金で話つけたいの。先々のこと考えてもその方がいいのよ。ね、わかるでしょ。別に意地になんかなってない。お願いだから私を信じてよ。」
「本当なのか?」
 拓はまだ納得しかねる様子だったが、彼女はゆったりと笑った。
「うん。本当。だから…ごめん、嫌な言い方するけど、あなたにはあまり動かないでもらった方が…」
「そっか。」
 彼は苦笑して、グラスにワインをついだ。
「上司に告げ口されてんだもんな由布子な。いま俺が変に出しゃばっと、もっと立場悪くしかねねぇのか。」
「ごめんね。すごい嫌味よね。ごめんなさい。」
「だからまた、んなことで謝んなよ。」
 彼はワインを飲んだ。傷つけてしまったかなと由布子は思い、安心してほしくて言葉を継いだ。
「部長にもね、もう一度よく相談してみる。多田部長は信用していいと思うの。すごく優しい人だし理解もあるの。部長ならきっとわかってくれると思う。」
「うん…。」
 拓はグラスをゆらゆら揺らしながら、
「だけど会社なんてイザとなると冷たいぜ? 現に俺、あれだけうまくやってたフラワーセンターのバイト、一夜にしてチョン!だもん。まぁ店長は同情してくれたけどな。上から急に言われて、どうしようもなかったって。だから完全に個人のルートで、ハンズのバイト紹介してくれたんだ。これには感謝しなきゃだよな。」
「そうだったの。大変だったのね。」
 大塚の讒言を受けておそらく、日比谷フラワーセンターの法人営業部あたりが慌てたのだ。『そのアルバイターをすぐ首にしろ』と、店長に命令が飛んだに違いない。
「ま、んなこたどうでもいっか。とにかく何かあったら連絡よこせよ。一人で抱え込むな。いいな。」
 グラスを置き、彼はまっすぐに由布子を見た。
「わかった。そうする。大丈夫よ。」
 うなずいた彼女の心には、少し違う決意があった。あなたにお金の相談なんかしない。あの女に会わせるようなことは絶対にしない。無言の思いが聞こえるはずもなく、拓はまた彼の意味で由布子に念を押してきた。
「本当だな。」
「本当だってば。疑り深いのね。」
「だって由布子って、おめ、ふざけんなよってくらい強がっかんな。何かあったら必ず言ってくんだぞ。な。」
「うん。わかった。」
「じゃ…約束。」
 拓はテーブルの上に、右手を差し出し小指を伸ばした。一瞬わからなかった由布子に彼は、
「ほら。指切りだよ。」
 早くしろと言いたげに手を動かした。互いの指で交わす約束は、何十枚の契約書よりはるかに重い。
「嘘ついたら針千本。マジだかんな。」
 筋の硬い男の指が、由布子の小指に絡み、離れた。
「んじゃほらこれ、食おうぜ。ボンゴレ・ビアンコ。好きなんだ俺。せっかくなのに冷めちゃうだろ。」
「そうね。食べようっと。」
 由布子はフォークを取りあげ、スプーンで受けてスパゲティを巻きつけた。
 そのあと拓はもう金の話には触れず、ラカデミィの授業での失敗談などを、おもしろおかしく聞かせてくれた。笑ってあいずちを打ちながら、彼女はひとり考えた。心の中にある半分の嘘を、嘘でなくする方法は二つ。三百六十万を何としても作るか、または多田に泣きつくかだ。多田に訴える材料はある。由布子をあれだけ責め立てたくせに浦部はどうやら不正発注をしているらしい。梶山のおかげで証拠も掴めた。これを多田の耳に入れれば、そんな浦部の下した決定など何の効力ももたなくなるだろう。大丈夫、道は開ける。何とか解決してみせる。
 拓と交わした指先だけの抱擁は、その夜の由布子の眠りに妖しい熱を帯びさせた。
 

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