【第3部・第1章】 bP1
 
 始業前のオフィスで梶山は由布子を待っていてくれた。インテリア斎藤の男子社員は朝が早い。八時だというのにもうざわついている事務所のドアを開けると、梶山はすぐ由布子に気づいて、社封筒を手に駆けよってきた。
「はい、証拠書類のコピー。原本はまさか渡せないけど、全部あたしの手元に持ってきちゃったから、いる時はいつでも言って。コピーならいくらでも取ったげる。」
「ありがとうございます。」
 玄関ホールで由布子は深く頭を下げた。梶山はいいよいいよと笑い、
「じゃね。あとで結果報告ね!」
 庶務で忙しいのだろう、すぐに室内に戻って行った。
 エグゼの自席で、由布子は封筒を開け発注書を調べた。おどろくほどの枚数だった。一枚ずつは大した額面ではないけれども、サッシの枠だのクロスの単品だの化粧タイルだの、何の関連も脈絡もない滅茶苦茶な発注内容であった。
(課長って、自分こそ誰かから礼金貰ってるんじゃないの…。)
 ざっと電卓を叩いてみると、発注総額は八百万円を越えた。これだけの発注書を自分の判一つで処理している浦部の、不正はもう疑いようがなかった。彼が由布子に支払えと言っている三百六十万は、もしかしたら自分の穴埋めに必要な額なのかも知れない。何と卑怯なことであろう。高杉と陽介という二重の壁で脅しておいて、ちゃっかり彼女に肩代わりさせようという腹なのだ。そのためならMOを洗い出すくらい造作もないだろうし、会社の信用は二の次で馬場に会ったのもうなずける。
 由布子は多田の出社を待って、昨日の件で話があると告げた。彼はそうかと明るい表情でスケジュール表を見、十時ならいいと言ってくれた。その時刻に彼女は多田の応接室へ行った。もちろん発注書の束を持ってである。
「どうかな。何とか都合ついたかな?」
 期待十分の様子で多田は尋ねてきた。それが…と由布子は言葉を濁し、銀行に融資を申し込んだことと、貯金などを集めても二百七十万にしかならないことを話した。多田はうーんとうなって天井を見、
「あと九十万か…。たいした額じゃないよなぁ。それくらいは何とか歩み寄れそうなもんだが…」
「本当ですか。」
 由布子は救いを得た思いで聞いた。分割でいいと言ってくれるなら、食費を削ってでも返済しようと思った。
「銀行は、百万か百五十万ならいいと言ったんだね?」
 多田は再確認した。彼女は松本の言葉を思い出し、
「でも、あくまでも窓口の人の個人的な予想だと言われましたので、あまりあてにはできないかと…」
 だが多田は気にもかけぬふうで、
「なに、そんなものは予防線だから気にしなくていいんだ。本当に危ないなと思ったら、銀行ってところは口がさけても金額は言わない。だから百五十万はほとんどOKしてもらったと思って大丈夫だよ。世の中はそういうもんだ。」
「そうなんですか…。」
 世間の裏を、自分はまだまだ知らない。由布子は素直に多田の考えを受け入れた。
「まぁただし決定に時間がかかるのが銀行の欠点でね。どんなに早くても一週間は待たされる。その間浦部君がああだこうだ言わないでくれりゃいいがな。どうも彼は自分の予定が狂うと我慢できないらしい。困ったもんだね。」
 苦笑しつつ多田はまた愚痴めいたことを言った。これを見せるなら今がベストかも知れないと、由布子は膝に乗せていた発注書の束をテーブルに置いた。
「じつは、部長。浦部課長の件で、お耳に入れたいことがあるんですが。」
 話を切り出すと多田は、何だという顔で彼女を見、続いて発注書に視線を移した。
「インテリア齋藤の事務員さんが、たまたま見つけたそうなんです。これ、多分課長の何か個人的な…あれだと思うんですけれども。」
 多田の顔色が変わった。ダブルクリップではさんだB5の束を、彼は奪うように取って調べ始めた。手応えありだと由布子は思い、さらに言葉を付け加えた。
「トータルで八百万越えてるんです。そんな馬鹿なと思ったんですが、でも確かにうちの書式ですし、印鑑はみんな課長のものです。一番古いのが一年半前で、半年前から急に多くなってます。」
 多田は食いいらんばかりに発注書を見ていたが、全てのページをめくり終えると、
「菅原さんはこれを誰から手に入れたって?」
 目以外は、いつもの穏やかな表情で言った。由布子は答えた。
「インテリア齋藤の事務員さんです。彼女が見つけて、私に…」
「そう。で、このこと誰かに話した?」
「いいえまさかそんな。とにかく最初に部長にお目にかけるべきだと思いましたので。」
「うん、そうだね確かに。そういうところ君は本当に訳知りで助かるよ。」
「ありがとうございます。」
 多田はトントンとコピーを揃え、
「これは、僕が預かっていいね。」
 一も二もないことだった。由布子は溜飲の下がる思いで大きくうなずいた。
「はい。そうして頂ければと思います。」
 これを多田につきつけられたら、浦部はさぞやうろたえるであろう。少しは思い知るといいのだ。あの、蝶の羽根でもむしるような陰険なやり方に、私がどんな思いだったか…。
「じゃあ、まぁ、君の件はなるべく前向きに考えるから。でもお金はできる限り、用意してもらうと助かるね。」
 何か早々に切り上げる雰囲気で多田は応接室を出て行った。由布子はほっと息をついた。前向きに考えると言ってもらえただけで、第一段階は成功である。銀行融資の百五十万も大丈夫と思っていいらしい。全部うまくいったよと、拓に報告できる日は近い。由布子は自席に戻る前に化粧室へ行って、携帯から梶山に電話をかけた。待ちかねていた様子の梶山は、
「守備はどうだった? 多田さんの反応は? かなりびびってたんじゃないの?」
 まるで野次馬の如く浮かれた口調で言った。
「いえ、まだ話をしただけですけど…でもおかげで何とかなりそうな感じです。」
「ほんとぉ! よかったじゃない! そんなさ、やられっ放しでいることないわよ菅原ちゃん! 逆襲してやんのよ逆襲! 自分の不正棚に上げて部下の女いじめるなんて、最低よ浦部って奴は。でもこれで完全に弱み握れた訳だし、ひょっとして口止め料とか、入っちゃうんじゃないのぉ? ケッサクだわぁ!」
 からからと声高に笑う梶山に、由布子はふと嫌な気がした。ワイドショーじゃないんだぞと言ってやりたくなった。結婚退職が秒読みに入っている梶山にとって、この事件は対岸の火事。物見高さを満足させる出来事にすぎないのだ。由布子にすればここが正念場、人生の岐路に他ならないというのに。
 まずかったかなと、悪魔の一瞥に似た思いが頭をよぎった。もう少しじっくり考えてから、事を運んだ方がよかったのではないか。梶山の興味本位にひきずられて、軽率な先走りをしでかしたとしたら…。
「守備よくいったら口止め料でおごんなさいよ! あたしも結婚したらしばらくは大人しくしてなきゃなんないんだから、独身最後の大宴会、ひとつよろしくね!」
 上機嫌で電話を切った梶山とは逆に、由布子の心は重く沈んでいった。上司の不正を摘発する動かぬ証拠―――いわば会社への切り札を、私はあまりにも早く使いすぎたのではないだろうか。
 いいやそんなことはないと由布子は思い直した。浦部の下した決定を無効にするのが狙いなのであって、口止め料などを欲しがっての話ではない。大丈夫だ、多田ならわかってくれる。あの人は珍しく女子社員を見下さないと、関根が太鼓判を押したのだから。
(待っててね、拓。)
 パントリーの窓から空を見上げ、由布子はつぶやいた。あなたをあの女にひざまずかせたりは決してしない。思い出したくない過去は、二度と振り返らなくていい。あなたや高杉さんに手出しすることだけは、たとえ誰であろうとも許さない。
 胸のうちを吹き荒れる昂ぶりがいかに幼稚で滑稽なものか、不幸にして由布子は気づかなかった。たかが五年の社会経験で会社と渡りあおうなどと天狗もはなはだしい。それを彼女が思い知ったのはその日の夕刻、再び多田に呼ばれて向かい合った小会議室においてであった。
「いろいろとね、検討した結果…」
 多田は彼女と目を合わさずに通告した。
「辞表を、出してもらうのが一番いいだろう。一身上の都合ということで。そして会社あてに借用書を書いてもらって。」
 床にすべり落ちかけた体を、由布子はかろうじて両腕で支えた。首から上が氷詰めにされたように冷たくなり、視界が狭まり耳鳴りがした。
「君のことは直属上司の浦部君にまかせるのが順当というものだろう。僕もそこを間違っていたようだ。業務の指揮系統が乱れるのは会社として最も避けるべきことだし、社則は守ってもらわなくては他の社員への示しもある。第一取引先のあちこちと不穏な噂があるようじゃ、それだけで会社の信用に傷をつけたわけだからな。ま、あとは全て浦部課長と話をして、引き継ぎその他のスケジュールを決めてくれ。僕は彼に報告を聞くから。」
 一方的に述べ終わると、由布子を置いて多田は出ていった。真っ白になった頭の中、壊れたエアーポンプのように言葉が浮き上がっては消えていった。辞表。借用書。社則。浦部と相談…。乗せてくれるはずだった助け舟が、みるみる艀(はしけ)を漕ぎ去っていく。
 浦部の不正が真実であった場合、会社にとって由布子如きとは比べ物にならぬ不祥事である。一つのセクションをあずかる課長と、たかが主任の女子社員。安泰のためどちらかを切り捨てるとすれば、誰が考えても答は明らかだ。企業は教育機関でもなければ福祉施設でもない。裁断の刃は正邪でなく損得の間に下ろされる。
 由布子はこのとき、男たちがなぜああも権力に狂奔し、人を押しのけてまで大樹の影を争うのかを真に理解した。権力の権とは『秤(はかり)』の意。どちらが重くどちらが軽いか、何が真実なのかさえをも、決め得(う)るのは秤の持ち主なのだ。自分には何の力もない。不要ならすぐに取り外せる歯車の一つにすぎないのだ。
(三百六十万、死んでも作らなきゃ…)
 由布子は立ち上がった。骨の髄がにぶくきしみ、胃袋から苦い水がこみあげてきた。
(そうしないと高杉さんに請求がいく。そうしたら拓はきっとあの女のところへ…)
 ぐっ、と吐き気が口元まできた。由布子は化粧室へ駆けこんだ。鍵をおろす手がわなないていた。土下座のように両膝をついて、茶色い胃液を彼女は吐いた。
 

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