【第3部・第1章】 bP2
 
 翌日由布子は会社を休んだ。
 恥ずかしいの何のと、もう言ってはいられない。図々しいのは承知の上で、まず銀行に電話を入れた。松本を呼び出し決定はまだかと尋ねたが、彼はあくまでも礼儀正しく、『決済がおりないと何とも言えない』の一点張りを崩さなかった。
 ついに彼女は勇気をふるって、駅の向こうのサラ金のドアをくぐった。女店員はやはりガムを噛みながら、彼女に記入させた申込用紙を眺め、ついと奥に姿を消したが、
「ちょっとこの年収だと百五十万は無理ですね。五十万まででしたらいいですけど。」
 くちゃくちゃとガムの音がひどく耳に障る。迷いはしたが由布子は結局、契約書に捺印し紙幣を受け取った。少しずつかき集めてでも三百六十万にしなければならない。彼女は次に五反田へ向かった。いつも見ている車窓の景色にサラ金の看板があったことを思い出したからだ。狭くて汚い雑居ビルの四階。由布子は何かにかりたてられるように―――いや何も感じずにいることに全力を尽くして、エレベータの昇ボタンを押した。
 殺風景な四角い部屋で、いらっしゃいませと彼女を迎えたのは五十歳くらいの男であった。
「ご新規ですね。それではこちらに必要事項をご記入下さい。」
 ボールペンを受け取って、彼女はさっきの店とよく似た紙に住所氏名を書いた。生年月日、本籍地、勤務先と書き進み、そこでペンはぴたりと止まった。他店借入額。ここに記入があるとないとで、融資の可否は変わるだろう。バッグの中には今借りたばかりの五十万円が入っている。同業他社から借りている客は警戒されるかも知れない。とぼけて記入せずにおこうか。いや、データバンクのコンピュータを検索されれば多分わかること。だったら書かない方がかえってまずい。ここを空欄にするのは嘘をついたと同じで心証を悪くしかねない。だが、いや、まてよ…。
 カウンターの向こうの男が怪訝な顔になっているのに気づいて、由布子はボールペンを握り直した。五十万、と書こうとしたとたん今度は別の疑問が湧いた。さっきの店で五十。ここでさらに五十。合計百万の借入は、東京中央銀行の審査にひっかかるに違いない。サラ金などから借りたばかりに、頼みの綱である太い柱、百五十万円が駄目になってしまっては元も子もない。
「どうかなさいましたか。」
 男は尋ねた。歳嵩なだけあって物腰はやわらかだが、目の奥には妙な光があった。銀行員には絶対にない、底光りというものであった。
「このご記入でけっこうですよ。審査はこちらでいたしますので。」
 最後の欄を埋められない彼女の手から用紙を取り、男はドアの向こうへ姿を消した。データベースに登録された菅原由布子のプライバシーが、いまあの男の目にさらされている。なんと便利で恐ろしい、機械文明の至高・オンラインシステム。
「お待たせして申し訳ございませんでしたが…」
 男はすぐに戻ってきた。語尾の逆接に耳が鋭く反応した。
「今回、当店でのご融資は致しかねますので、こちらの申込書はお返しいたします。」
 そんな、と由布子は思った。同時に顔から火が出た。あちこちに借りまくろうとしていたことを、この名も知らぬ店員に気づかれたのだ。
 彼女はビルを飛び出し、商店街を呆然自失の体(てい)で歩いた。これでもうどこからも借りられまい。銀行だってもしかしたら危ないかも知れない。多田の件にしてもサラ金にしても、自分から余計なことをして、一番大切な協力者をむざむざ失ってしまっている。ひたすら下手に出て同情をかえば、多田はもっと力を貸してくれたに違いない。浦部への非難めいた話に由布子は、本音と建前は別だという世古たけた対応をした。そんなところに多田は好感を持っていたかも知れないのに、私がこの手で全てを覆してしまったのだ。『女の浅知恵』という言葉を彼女は思い出した。何て失敬な化石言葉だと思っていたがそうではない。私を初めとする女たちの、現実社会への挑み方はまだまだ、甘い…。
 くらりと目まいがした。視界が変に伸びたり縮んだりしている。急激な貧血の症状だ。夕べ一睡もしていないせいだろう。このままでは意識を失いかねない。彼女は目の前の看板を頼りに喫茶店へ入った。幸いすいていた店内の、奥まったシートに倒れこむと、アルバイトとおぼしき短大生風のウェイトレスがすぐさま飛んできてくれた。
「お客様、顔が真っ青ですよ。具合でも悪いんですか?」
 心配そうにのぞきこむ彼女に由布子は首を振り、少し休ませてほしいと頼んだ。彼女はいたわりに満ちた声でどうぞどうぞと応え、観葉植物の鉢をわざわざずらして、他の客の目から姿を隠せるよう気を使ってくれた。さらにはオーダーもしていないのに人肌のミルクと熱いおしぼりを三本持ってきて、
「気分が落ち着いたら、牛乳、噛むみたくゆっくり飲むといいですよ。おしぼりは首のとこに当てると、少し楽になると思います。」
 見も知らぬ彼女の優しさは、まるで女神のようだった。由布子は涙をこぼしそうになって、妹ほどの歳の彼女にありがとうと言った。
 膝の間に頭を埋めんばかりにうなだれていると、段々脈が戻ってきた。冷たい汗は次第に引いていき、回りの音も普通に聞こえるようになった。そっとミルクに口をつけ、由布子はあたりを見回した。
 店構えもろくに見ず飛びこんでしまったにしては、予想外に趣味のいい喫茶店であった。シュガーポットはぴかぴかで、陶器の灰皿が各テーブルにきちんと置かれている。壁のあちこちに掛けられた風景画は、店内に爽やかな風を呼びこむ大小の窓のはたらきをしていた。
 正面の壁には、針葉樹の森の絵があった。多分カナダあたりの景色であろう。広々とした空の色があきらかに日本とは違っていた。カナダ…。つぶやいた彼女の頭に、最後の手段だという声がした。拓をあの女に渡すくらいなら、それくらいなら私が、堕ちる。
 気持ちと体を何とか立て直し、親切なウェイトレスに礼を言って由布子は店を出た。まだ十月だというのに、風の底に冬の匂いがした。彼女は携帯のアンテナを引き、アンプリイズのナンバーを押した。
 
 馬場が指定してきたのは、センチュリー・ハイアットのティーラウンジだった。
 人と会う用事があるので九時過ぎになる、それでもいいかとの問いに由布子はYESと答えた。一度アパートに戻って着替えをし、十五分前から彼女は男を待った。すでにラブ・アフェアの時刻、意味ありげな人待ち顔の一つになって由布子は、人影行き交うロビーに視線を向けていた。左手首には時計だけがある。拓のブレスレットはハンカチに包んでバッグの底に入れてあった。
 九時に五分遅れて馬場はやってきた。グレイのスーツに枯葉色のシャツとネクタイ。秋にふさわしい落ち着いたコーディネイトは馬場の腹を幾分か引き締めて見せ、巨漢だけに押し出しのいい彼がこちらへ歩いてくる様子は、魅力的とは言い難いけれどもそれなりに人目を引いた。由布子が立ち上がって礼をすると彼は、
「お待たせして申し訳ない。すぐで恐縮ですが、出ましょう。綺麗な人と話をするなら、もっとふさわしい場所がある。」
 気障なことを言って伝票を取り上げ、由布子の返事も待たずにレジへ歩んだ。慌てて彼女は後を追った。馬場はさっさとロビーに出、
「お食事はもう済んでますよね。それともまだだったらそういう店にしますが、いかがです。菅原さんのご希望通りにいたしますよ。」
 小走りに由布子は追いついて、
「いえ、お気遣いなく。こちらからお呼びたてして申し訳なく思っておりますのに。」
 言うと馬場は苦笑いした。
「あのね…そのビジネス口調はよしませんか。今夜は個人的にお会いしてる。客だの会社だの、そういう立場は置いておきましょう。ね。こんな綺麗な女性とゆっくりできる幸せを、僕に満喫させて下さいよ。いいでしょう?」
 外へ行くのかと思ったが、馬場が向かったのはエレベータホールだった。行きつけのバァがあるという。そこでいいかと言われれば否はなかった。二人きりのエレベータの中、不自然に緊張したのは由布子の方だったが、馬場はあくまでも紳士的に彼女をエスコートし、クルボアジェの芳香を楽しみながら、そつのない洒落た会話で彼女の警戒を解きにかかった。
 

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