【第3部・第1章】 bP3
 
「本当にね、嬉しかったよ君から電話をもらった時は。夢じゃないかと思ったくらいだ。こんな日にヤボ用を入れた自分を呪ったね。まぁいちおう商談だからはずすわけにいかなくて。さっきラウンジで君を見た時は胸が踊った。こんな気分は何年ぶりかな。自分を待っている美女の風情というのは、これはもう男にとって天上の美酒だよ。」
 饒舌すれすれの口説き文句を、馬場は惜し気もなく連射し、
「君が僕を思い出してくれたことに感謝するよ。それ以外の感情は一切ない。僕にしてあげられることなら、してやりたいんだ。君の希望を聞かせてくれるね?」
 じっと由布子を見つめて言った。脂ぎった顔ではあるが、意外と涼しい目をしている。彼の指に光るマリッジリングを、彼女は意識して視界からはずした。
「…お金を、貸して頂きたいんです。」
 由布子が言うと、馬場はグラスを揺らしながらさらりと聞いた。
「幾ら?」
「できましたら、三百万ほど…」
 驚くほど自然に言葉が口を離れた。
「それでいいの。」
 クルボアジェを一口飲んで、馬場は言った。由布子はうなずいた。
「お安いご用だよ。前にも言ったろう。あの浦部って男はどうも気に食わない。君の顔が立つ方法があるならしてあげるけど…どうなのかな。お金だけで、済むことなの。」
「はい。」
 もう一度彼女はうなずいた。あの発注書を全てアンプリイズのものにする、その手はもう打てなくなっていた。あとはただ高杉に請求がいかないようにと、由布子が抵抗できるのはそれだけだった。
「わかった。」
 短く馬場は言い、グラスを置いてふところに手を入れた。ペンと、もう一つ取り出した何かをテーブルの上でめくっている。ボールペンのノック音がした。彼が書き込んでいるのは小切手帳であった。そういえば九時までは商談だったのだなと、由布子は醒めたことを考えた。
 ピリ、と一枚切り取って、馬場はそれを彼女の前に置いた。¥マークと数字の3、カンマで区切った0が六つ、最後に太いダッシュ記号。東京中央銀行八重洲支店、馬場啓一名義の小切手であった。
「借用書なんかいらないよ。これは僕から君への投資。君がもし気持ちの上で返済したいと言うのなら、できる時にできる額だけ返してくれればいい。」
 由布子は紙片を手に取った。銀行もサラ金も貸してくれなかった大金が、いともたやすく手の中にある。そう、いとも、たやすく――――
「ありがとうございます。」
 彼女は頭を下げた。前髪がテーブルに触れた。馬場はシートを鳴らして脚を組み替え、
「ございますは取ってくれないかな。さっきも言ったでしょう、仕事じゃないんだ。」
「いえ、そうであればこそ、感謝しなければなりませんから。」
「感謝してくれるならさ、少しは親しげにして欲しいんだ。お堅いなあ菅原さんは。くそ真面目というか不器用というか…。まぁそれが君らしさなんだろうけどね。」
 笑いかける彼に由布子は首をかしげて見せ、小切手をしまおうとバッグをあけた。ブレスレットを包んだハンカチが見えた。彼女は紙片をバッグの中にではなく、外側のポケットに挟みこんだ。
「さ、今夜は楽しくやりましょう。菅原さんはいける口と見たが違うかな? カクテルの方がよければそれでもいいし、クルボアジェはお好みにあいませんか。」
 話題を馬場はくるりと変えた。女の扱いに習熟している男の態度だ。由布子はグラスを持ち上げて口に運んだ。
「いえ、とてもおいしいです。ブランデーはめったに飲まないんですが。」
 大塚はワイン党だったのでこれは本当であった。女の酒は男によって変わるのか。では男の何を、女は変えることができるのだろう。
「初めて会ったときから思ってたけど、君は多分、非常に女らしいひとなんだろうね。」
 ブランデー・バルーンに琥珀の酒をつぎ足して、バリトンの声が言った。
「男に立ち混じってバリバリ仕事して、そういうビジネスレディである一方、気持ちがすごく細やかで思いやりがあって優しい。少々神経質なくらい気の回る人だ。無神経な女を見慣れてると、君の繊細さは本当に貴重だと思えるよ。」
「そんな、過大評価です。私はそんな、バリバリなんて。」
 笑顔を絶やさぬよう注意して彼女が言うと、
「いや、そうじゃなくて、さ。魅力的だという話だよ。女は頼りなくて可愛けりゃいいと思ってる男が多いだろうけど、僕は反対だな。自分の考えやスタイルをきちんと持ってる人は、話をしてても面白いけどね。何より手応えがあるのがいい。まぁ電車の中で英字新聞読んでる女性。あれだけは頂けないが。」
「ああ、わかります。あれは私も、ちょっと。」
「うん。読むこと自体は別にいいんだ。だけどねぇ、すごいでしょって意識が丸見えなんだな。やってる本人が見構えてるから相手にわかる。それが嫌味なんだろうね。」
「ええ、そう思います。男の人でも、やたら自分の手柄話ばかりする人…俺ってすごいだろみたいな。あれも何だか鼻につきますものね。」
「うんうん、いるねそういう奴も。聞こえよがしに言うんだな、今度の取引も絶対成功させてみせるとか何とか。いじましいねぇ。能ある鷹は爪隠すって言葉を知らんのかと思うよ。」
「ほんとですね。」
 由布子は馬場に話を合わせ、少しうつむき加減に言った。
「私…いつか馬場さんに言われた一言、ほんとはずいぶんこたえたんですよ。」
「え? 僕が? ごめんなさい何かきついこと言ったかな。」
「いえ、感謝してるんです。『頑張ってますって強がりが見えすぎて疲れる』って意味のことをおっしゃられましたでしょう、いつか。」
「そうだったかな。そういえばそんな気もするけど。」
「確かにそうだなぁって思いました。馬場さんから見たら私なんてきっと小娘ですよね。全部見抜かれてるんだろうなって、そう思ったら少し、自分で楽になりました。もっと素直でいいんだなって。」
「へぇ、嬉しいことを言ってくれるな。じゃあ僕も少しは、君の役に立ってたわけだ。」
「少しだなんて。教わっていることはずいぶんあると思います。」
「安心したよ。それなら僕が君よりだいぶ前に生まれたってことも、マイナスなだけじゃないんだな。いや僕くらいの歳になるとね、女の人の感性とか才能を育ててみたいなんて思うようになるんだよ。若い時分の無軌道かつ非常識なつっ走りじゃあなくってさ。」
 それがさしずめ、私か――――。由布子はブランデーをごくりと飲み下した。そのためなら三百万くらい惜しくないという腹なのだ。生身の女で人生ゲーム。道楽としては最高だろう。
 そのあとも馬場は次から次へと、快い話題を提供してきた。時には経済論、時には映画、ひるがえって登山とロッククライミングの話。契約前、突然パストラルへ連れていかれた時には、その強引さに腹が立ってろくに耳を傾けなかったけれども、馬場は話題が豊富だった。自己愛の強い大塚などとは比べものにならない巧みな話術であった。
「ああ、もうこんな時間なんだね。」
 やがて彼は腕時計を見て、言った。
「君は明日も仕事だろう。そんなに遅くまでつきあわせちゃ申し訳ないな。そろそろ出ようか。送るよ。」
 腰を浮かせた馬場に、由布子はおやっと思った。なぜかそう思った。立ち上がろうとしない彼女に、
「どうした? 酔ったの?」
 馬場は笑った。いいえ、と膝を伸ばした時、バッグがすべって床に落ちた。
「いやだ、ごめんなさい。」
 はずんだ角度のせいで思いがけず遠くまでころがってしまったそれに、由布子は歩みよった。馬場は先に出口へ向かった。彼女はバッグを拾うべく手を伸ばした。
 小切手が、ポケットから飛び出して床に捨てられていた。
 無理にねじこまれた食べ物を戻すように、由布子のバッグは紙片を拒否していた。
 今夜当然起きるであろうことを、彼女は予想し覚悟していた。会話の間じゅう由布子は、馬場の抱いている自分のイメージに迎合する台詞を吐き続けていた。男をおだて悦ばせるテクニックを女は本能的に知っている。馬場の情婦になることを、彼女は自分で諾(だく)していた。当たり前のように、むしろそうなれれば楽だというように。今夜このまま帰ることを私は不自然だと思った。シナリオが違うととまどった。部屋を取ってあると言われるはずだった。言われたらついていくだけであった。部屋に入って、シャワーを浴びて―――そう、そのために今夜私は、真新しい下着を着けてきたのだから。
 由布子はぞっとした。どうすれば愛人になれるかを、ここにいる女は知っている。馬場の毛むくじゃらな手で体中撫で回されることを、嫌悪しつつも…
 待っていないか、私は。
「馬場様!」
 小切手とバッグをつかんで由布子は走った。ちょうどバァを出ようとしていた彼は驚いて振り返った。
「これ、お返しします。申し訳ございません。今夜のことはどうかお忘れ下さい。」
 彼の手に紙片を押しつけ、由布子は頭を下げた。男の驚きが伝わってきた。彼女は馬場の靴先を見て言った。
「ご好意を振りかざすような真似をして申し訳ございませんでした。お願いすべき筋ではないのに突然お電話してお時間までとらせておいて、挙げ句の果てにこういう――――」
「菅原さん。」
 怒りを含んだ声で馬場は遮り、
「頭、上げて下さい。人が見てるよ。何て声を出すんですか、野原の真ん中じゃあるまいし。」
 はっとして彼女はあたりを見回した。好奇の目がいくつも注がれている。眉をしかめている老婦人もいた。
「まぁいいから、とにかく出ましょう。僕が何かしたみたいでみっともない。」
 彼は歩き出し、エレベータのボタンを押した。すぐにでも姿を消したかったが、窓から飛び降りる訳にはいかない。一階に着くまでさすがに馬場は黙りこくっていた。怒るのは至極もっともである。由布子は顔を伏せていた。
 ロビーでエレベータが扉をひらくなり、
「あの、馬場様、私はこれで…」
 由布子は言ったが、彼は渋面を向け、
「タクシー乗り場は一箇所ですよ。僕も乗るんだからそこまでは嫌でも一緒でしょう。」
 そう言い捨てて歩き始めた。
 客待ちの車が行列していた。先頭の一台がすぐにドアを開けた。先に乗れと馬場は手で示した。もう一度頭を下げた由布子に、彼は溜息とともに言った。
「菅原さん。世の中一人で生きていけると思ったら大間違いだよ。君は、誰かに頼るのをまるで恥か何かに思ってるみたいだけどね、その考え方のほうが問題だ。助けが必要なときは助けてもらうしかないでしょう。」
 決めつける言い方に感じた不快を、まさか今、顔には出せない。
「申し訳ございませんでした。」
 それだけ言って、彼女はタクシーに乗りこんだ。ああともうんとも、馬場は応えなかった。
 行き先を告げ車に揺られていると、ブランデーの酔いは頭痛となって回ってきた。彼女はこめかみを親指の関節で押した。びくびくと脈が伝わってきた。
 世の中一人で生きていけると思ったら大間違いだ――――痛みの中にその言葉が甦った。助けて欲しいなら助けてと言え。言えない女は可愛くないと、つまりそれが馬場の本音なのだろう。
(笑わせないで。)
 反対車線のライトを彼女は睨みつけた。
(助けてもらうってことは、最終的にあんたの女になるってことじゃない。私への投資? 馬鹿馬鹿しい。きれいごと言っててもいつかは必ずそういう関係になるのよ。ならざるをえないのよ、助けてもらうのと引き換えに。)
 肩を張るなと、力を抜けと、歌の文句のように繰り返すのは簡単だ。人には自分のものさししかない。由布子はバッグをあけた。底に横たわるハンカチをめくり、銀色のブレスレットをつまみ上げた。ぶら下げてそのまま顔の前に持ってくる。テールランプと街の明かりが、四分音符の後ろを流れていった。
(あなただってそうよ、拓…)
 憮然とした表情の彼の面影に、彼女は冷たく言った。
(一人で抱えこむななんて言って、でも私が助けてって言ったら、あなたあの女のところに行くんでしょう。それしか方法、ないんでしょう。お金借りるだけで済むなんて、そんなこと考えるのが甘いのよ。今夜の私みたいに、あなたも覚悟してあの女に会うんでしょう。それでも助けてって言わせたいの? あなたにすがりついたらそのとたん、私の前からいなくなっちゃうくせに…。)
 拓は目をそらし、横を向き、静かに背中を見せた。長い髪が揺れ、後ろ姿は、靄に埋(うず)もれ見えなくなっていく。
 一人でいい。失うくらいなら一人でいい。一人でいれば決して傷つきはしない。
 助けて、と言える相手は、私には最初からいなかった。
 お金がいるの。そうじゃないと高杉さんに迷惑がかかるの。やっとつきあい始めた恋人も、私のそばからいなくなっちゃうの。会社クビになるの。プロジェクトもあきらめなきゃならないの。どうすればいいかわからない。助けて。怖い。一人でここにいるのは怖い。助けて。お願い。いかないで。おいてかないで。
「おとうさん…」
 金と赤がにじみ、ゆがんだ。唇までつたい落ちた雫の辛さは、舌先にひどくしみた。
 

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