【第3部・第1章】 bP4
 
 浦部の前に、由布子は退職願の封筒を差し出した。眼鏡の向こうで彼の目が笑ったように見えた。
「日付は十月末にしてあります。」
 事務的に彼女が言うと浦部は、
「そうか。まぁ引き継ぎもあるからな。いちおう預かっておこう。」
 白々しさの極みといった顔で引き出しを開け、中に封筒を納めて、
「そうそうあっちの件は、部長に聞いたらとりあえず二百七十くらい何とかなりそうなんだって? そうしたらね、残りについては方法を相談しようか。ま、それも月末までに決めればいいことだ。」
 あっさり言い放たれたが、もう腹さえ立たなかった。一礼して席に戻り、彼女は卓上カレンダーを見た。
 渡辺に指示されているランファンス原価計算書の提出期限日に赤丸がついていた。これを記入した時の喜々とした気分は、もう永久に味わえないだろう。グッドラック・プロジェクトの上海ドリームは、どこかの誰かが頑張ればいい。
 彼女はプロジェクト資料を綴じたキングファイルを取り出し、中身を全部はずして机の上に積んだ。四冊分なのでかなりの高さになった。湯沸室からビニール袋を持ってきて足元に置き、その中へ資料を、たてよこ四つに引き裂いて捨てた。細かな書き込みとマーキングはさながら儚い夢の跡。次の誰かに渡さずに、せめて自分の手で捨てたかった。室内に響くビリビリという音は同僚たちの耳にも届いたはずだが、噂はとうにひろまっているのか、誰も話しかけてはこなかった。
 由布子の担当物件は現在四件あった。仕掛り中の現場が二つと、契約済の未着工が一件。もう一件は契約に向けてプレゼン中であったのだが、ここのところアポも取らずに放ってしまったので、おそらく他社に流れているだろう。そちらは午後にでも電話で確認することにして、由布子はCAD室で引き継ぎの準備を始めた。それが彼女に残された最後の仕事であった。IPとして悔いのないよう、きちんとやりとげてから辞めたかった。
 ディスプレイに向かっていると、浦部に連れられて一人の青年が入ってきた。先月中途採用された武藤という男だった。浦部は彼の肩を叩き、
「菅原さんが担当してた物件は、全部この武藤君にやってもらうから。申し送りをしっかり頼むよ。それと業者にも会ってもらって、話をつなげとくように。いいね。」
 よその部のメンバーもいるCADルームだというのに、浦部は声もひそめずに言い、出ていった。武藤は椅子をガラガラ引き寄せて座り、少し浦部に似た骨ばった顔でニヤニヤ笑いながら、
「ま、資料だけもらえればいっすよ。あとはこっちでテキトーにやります。」
「そうもいかないでしょう。お客さんに迷惑かけたら困るし。」
 態度の悪さにムッとした気持ちを押さえて、由布子は施主ごとのファイルを渡し説明を始めた。なのに武藤は聞きながら遠慮もなくあくびをし、しまいにカクッと首を落とした。これには黙っていられずに、
「ちょっと武藤君。ちゃんと聞いてよ。そんなに何度も言わないわよ。」
 肩をこづくと彼は、どろりと濁った目をあけてまたもあーあと大あくびをした。
「はいはいわかったわかりましたよと。えーと? ウェストホールとティーサロン・オカノと、未着工がスタジオアルファですね。はいはいと。うわ、なんだこの原価表。こんなちゃちい計算してんだ。遅れてんなー。信じらんない。」
 大手ゼネコンにいたとかいう武藤は、リフォーム業界全体を内心で見下しているのかも知れない。人を食った態度は不愉快この上なく、エグゼもなぜこんな人間を雇ったのだろうと彼女は苦々しく思った。
「えーとぉ? それでぇ? これで全部ですかね。確かもう一軒あるんじゃないですか?」
 ファイルの背表紙を見て武藤が言ったので、
「ああ、加藤美容室? あそこは契約になるかどうかわからないから――――」
「いえいえそんなんじゃなくって、あれ。」
 武藤は下品な笑い方をし、
「ナビとかナブとかいう変な喫茶店。そこのごまかしは引き継がなくていいんすか俺。」
 由布子の顔つきが変わったのだろう、武藤はヘラヘラ笑い、おっかねおっかね、などとつぶやいて、
「じゃあ、そしたらこの図面書き直しますんで、ちょっとそこどいてもらえますか。」
「どいてって…」
 スタジオアルファの施工図を、たった今まで由布子は書いていたのだが、
「俺がやったが早いですって。まったくいつまでこんな旧式のマシン使ってんだかな。今はもっと安くていいのがいっぱいあんのに。俺、うちからパソコン持ってこようかなぁ。」
 彼は椅子ごと由布子を押しのけ、強引にマシンを乗っ取った。マウスを乱暴に転がしていきなり強制終了する。抗議しかけて彼女はやめた。この手の人間には、何を言っても通じまい。
「じゃあ、おあとよろしくね。資料はちゃんと読んどいてよ。」
 外に出ようとノブに手をかけたところで、
「ああそうだ菅原主任。今度飲みにいきませんか?」
 馬鹿に明るい武藤の声がした。彼女は思わず振り返ったが、
「よかったら俺のお相手もしてくれません? 年下が好きなんだって課長に聞きましたよ。」
 由布子はパーティーション全体が振動するほどの力でドアを閉めた。軽薄な笑いが耳の底に残った。
 
 噂はさまざまな尾ひれをまとって会社中を泳ぎ回っているらしく、同僚たちは申し合わせたように、揃って由布子を敬遠した。昔の結核患者はこうもあったろうかという疎外感の中、彼女は一本の電話を受けた。関根であった。
「菅原さん? ねぇちょっと、あなた会社辞めるって本当なの。」
 心配そうな声に、ああこの人も失いたくない人だったと、由布子は受話器を握りしめた。
「どうしてなの。何かあったのね? あんなに頑張ってた菅原さんが、そんな急に辞めるなんて考えられないもの。だめよ辞めるなんて。独占企画の新商品はどうするつもり。プロジェクトの第一陣は年内には上海行くのに、菅原さんのフランス語、私がどれだけ頼りにしてると思う?」
 引き裂いた時にあの紙たちが上げた悲鳴を、由布子の指は思い出した。Wユウコだよと言ってくれた大先輩の関根係長。あなたと一緒に戦えるはずだったビジネス・ウォーズの舞台に、私はもう上がれないんです…。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません。」
 泣きだしそうな胸のうちから、信じられないほど冷静な声が出た。関根は一瞬黙ったが、
「ね。私に、何かできることはないの。へんな言い方だけど、子会社の人事に口をはさむくらいの力、私にはあると思うわよ。」
 一段と低い声になって、
「ここだけの話、菅原さんとこの浦部課長ね。あの人には前からちょっと嫌な噂があるの。多田部長は知ってるのかどうかわからないけど。…ねぇ、こっちの人事にかけあってみようか? 今菅原さんに辞められたらプロジェクト全体が困るって。そう、渡辺さんにも頼めると思うわよ。菅原さんが辞めるらしいけど一体何でだって、私に教えてくれたのはあの人なんだから。」
 販売設計施工チームの渡辺リーダー。ランファンスを認めGOサインをくれた人。由布子の味方は自社のホームイング・エグゼではなく、むしろ親会社NKホームクリエイトの中にいたのかも知れない。多田でも東中でもサラ金でも馬場でもなく、真っ先に関根に相談していればあるいはと、頭に思い描く寸前で由布子は打ち消した。今となってはもう全てが遅い。
「お心遣いに感謝いたします、係長。」
 平坦に、由布子は言った。
「菅原さん…」
「お借りしてる本は、ご挨拶に伺った時にお返しします。それと八重垣さんに頂いたID証も。」
「――――そう。」
 ふっ、と関根が息を吐くのが聞こえた。この人ともこれで終わりだと由布子は思った。
「本当にありがとうございました。失礼いたします。」
 受話器を置いてふと顔を上げると、フロア奥の多田と目があった。浮かんでいたのは憐憫なのか安堵なのか、見定める前に彼はくるっと椅子を回し、ファイルを持って席を立っていった。
 

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