【第3部・第1章】 bP5
 
 チャイムと同時に由布子は社を出た。加藤美容室はやはり他社と契約を済ませていたので、彼女の仕事はもう何もなかった。こんなに早い時間からアパートに帰ってもすることはない。由布子は名画座で古いヤクザ映画を観、山手線を一周半して渋谷で下りた。ブレスレットはあの晩以来引き出しに入れたままだった。携帯は切り、電話は留守電にしてあった。拓からのメッセージは毎晩入っていたが、由布子はまるで一切の幸福感を自分に禁じるように、彼の声にも答えなかった。
 渋谷駅前のバス乗り場に並ぼうとしてやめ、彼女は歩道橋を渡った。何時間かかるかわからなかったが、太子堂まで歩いてみようと思ったのだ。履いているのはパンプスだからかなりの無謀ではあるけれど、何だか自分を痛めつけるのが快感で、由布子は南平台へのきつい坂を昇り始めた。
 夕べの拓のメッセージはこうだった。
『もしもし、由布子? どうしてる? どっか出かけてんのか? それならそれで連絡くらいよこせっつーの。時間なんか何時でもいいからな。じゃ。』
 メモリからは消去できても、耳は彼の声を忘れなかった。新しいアルバイトにはもう慣れたのだろうか。ナヴィールにもしばらく行っていない。高杉は、陽介は、香川や泉はどうしているだろう…。泣きたい気持ちをねじ伏せるように、心の暗いところから自虐的な思いがじめじめとしみ出してくる。
(別に私なんかいなくたって、誰も何も、困らないよね。私のことなんかみんなすぐに忘れちゃうに決まってる。)
 会社なんてイザとなったら冷たいと、言ったのは拓であった。こういうことになったのはもはや誰のせいでもない。上司の不正を暴くだなどと幼稚な正義感に足をすくわれ、世の中を甘く見た由布子自身の失態だった。その報復としてホームイング・エグゼの社内は、彼女を嘲う声で充満している。
 ほらほらあの女だよ。男に入れあげて会社ごまかして、それだけじゃない業者の社長と不倫してたのもバレてクビだとよ、みっともねぇの。
 へぇ、厚顔無恥ってんだなそういうのをな。だから女は駄目なんだよ。
 あなたを見損なったわ菅原さん。もっと責任感のある人かと思った。
 君のことは浦部君にまかせてある。業務指示系統が乱れてはいけないからね。
 何でもひとりでやろうとするのが君の一番悪いところだよ。
 頭の中でふくれ上がった人声の洪水を突然、鋭いクラクションがかき消した。危ない!と誰かが叫んだ。ハッ、とした由布子の鼻先を大型のワゴン車がかすめた。飛び下がった拍子によろめいて、ヒールを側溝の金網に取られた。由布子は倒れた。ぶざまに道端にころがった。恥ずかしさに痛みも忘れて起き上がろうとしたが、もう一度つんのめって両手をついた。背後で複数の笑い声がした。ヒールが網に食い込んでいる。信号が変わり、待っていた人々が渡り始めた。片方裸足で道にしゃがみこみパンプスを引っ張っている姿を、何人もがジロジロと見ていく。ようやく外れた時には表面の革がぼろぼろで、体重を乗せたとたんヒールは折れた。
 タクシーを拾ってアパートに帰った由布子を、待っていたのは拓の伝言だった。
「もしもーし。おーい。由布子ー? 何やってんだよお前。まさか生きてんだろうな。いいかげん連絡よこさねぇと、針千本持っておしかけっかんな。…じゃ。」
 擦りむいて血のにじんだ手で、彼女は乱暴に消去ボタンを叩いた。この世で最もいやな女になってしまいたかった。さもなくば自分が惨めすぎると思った。まともな考え方のできない女なのだ。だからこういう目にあうのだ。そう思えばいっそ納得できる。仕事も夢も恋人も何もかも、失って当然の女になり下がってしまえ。
 由布子は電話機を掴み、モジュラーケーブルの端子に爪を立てた。ぶるぶると指が震えた。ケーブルを右手に二回巻きつけ、力まかせに引き抜いた。手がすべり、電話機が床に落ちた。はずれた受話器、ねじれたコード。二度と鳴らない役立たずの機械。こんなものを誰も欲しがらない。そう、この私と同じようにだ。右手に絡みついているケーブルを由布子は振りはらってほどこうとした。勢いよく打ちおろした手を、嫌というほどテーブルにぶつけた。痛みが涙を思い出させた。泣いたらとまらなくなるのはわかっていた。わかっていたのに溢れ出した。何もかも壊れてしまえばいい。滅茶苦茶になってなくなってしまえばいい。汚れた服と汚れた顔で、彼女は泣いた。東の空が白んできても、由布子は床から起き上がらなかった。
 
 とても会社へ行ける顔ではなかったが、翌日由布子は出社した。休んだとて何ら支障はないのだけれども、半ばひらきなおった行為であった。コンタクトが入らなかったので眼鏡をかけ、十五分遅刻で席についた。
 仕事はなくとも会社にいれば何かしらすることはある。古い契約書のコピーや手元資料をまとめてシュレッダーにかけていると、あたりをはばかるような小声で石原が話しかけてきた。
「菅原主任、あのね…昔の物件のフロッピーなんだけど、あれは初期化しないで、マシン室のキャビネットにまとめてしまっといてくれますか。いずれ何かで使うかも知れないから。」
 ついこの間まで『菅原ちゃん』と呼んでいた彼女なのに、ことさらによそよそしいその口調は、他の社員たちといかに由布子の悪口を言っているか証明するようなものだった。
「わかりました。」
 簡潔に答えて由布子は手を動かし続けた。石原はそそくさと離れていった。人の心の裏はこういう時に見える。毎日が穏やかだと決してわからない影の部分。そんなものを知らぬまま一生を終えるのが幸せなのか、それとも人間のいろいろな面を、広く深く知ることが幸せなのだろうか。単調な手作業を繰り返しつつ、由布子は妙に哲学的な心境になっていた。
 午後、パントリーでコーヒーを飲んでいると石原がやってきた。話などしたくないだろうと無視してやったのに彼女は、
「ねぇねぇちょっと菅原ちゃん!」
 他に誰もいないのを確認したあと、以前の調子で由布子の隣に座った。
「どしたのよ急に辞めるなんてさぁ。なんか、いろいろあったみたいだけど、上海行きももちろん蹴っちゃったんでしょ? 辞めてどうすんの。結婚でもするの?」
 由布子は石原の顔を見た。
(なんだこいつ…)
 それが偽らざる感情だった。石原の胸のうちはおそらく、
『私はあなたを嫌ってないのよ。でもみんなの手前があるでしょ。私だけ親しそうにすると後でいろいろ言われるし。ごめんね、わかってよね。』
 ああ、この精神風土こそがいじめの温床なのだろう。十人中九人がYESと言ったとき、NOと言うのは犯罪に等しい国、日本。
「ええ、実はそうなんです。」
 由布子はニッコリ笑ってみせた。
「私はまだそんなつもり全然なかったんですけど、彼がどうしても待てないって言うんで、しょうがなくて決めました。」
「へぇぇーっ、なんだそうだったのぉ!」
 驚く石原の目には明らかな疑いの色があった。これでまたしばらくはお昼の話題にこと欠くまい。由布子は飲み終えた紙コップを握りつぶし、ゴミ箱へ放り込んで立ち上がった。こんなところ、もう何の未練もない。石原を残して彼女はパントリーを出た。
 

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