【第3部・第1章】 bP6
 
 その晩は何か飲み会があるらしく、チャイムと同時に席を立ったのは由布子一人ではなかった。そういえば今日は金曜日である。一緒のエレベータに乗るのは気詰まりだったが、わざわざ一回遅らせるのも悔しい。由布子は彼らから少し離れたところに立ってエレベータの到着を待った。一団の中には武藤の憎さげな顔もあり、
「菅原主任…は、行かないですよね。あったり前かぁ。」
 彼の侮言に女子社員たちが、やめなさいよと言ってつつきあい、クスクス笑っている。馬鹿な奴らだと由布子は思った。人の不幸はそんなに面白いか。グッドラック・プロジェクトおめでとうなどと言いながら、内心ではねたみそねみもあったに違いない。それがここへ来て一気に噴出したのだろうと、彼女は冷静に判断した。悩んで苦しんで泣きぬいた果てに、気持ちが奇妙に落ち着き始めている。人間の心の不思議さを、ここでまたひとつ由布子は知った。
 社員通用口を抜け道路へ出ても、一団と由布子の距離は拡がらなかった。両者が普通に歩けばそうなる。駅までの辛抱だと彼女は思い、眉間に眼鏡をキュッと押し上げたその時だった。
 パッパーッ、とクラクションが響いた。あきらかに何かの合図であった。群れも由布子も音のした方を見た。この眼鏡の度数はコンタクトより低い。彼女は目を細めた。道の反対側に停まっているのはアイボリーのシトロエン、窓を開けて顔を突き出しているのは、
「拓!」
 由布子が声を上げたので武藤たちは今度は彼女を見た。夕べの伝言メッセージを彼女は思い出した。連絡がなかったらおしかけると言った、あの言葉を拓は実行したのだ。ガードレールの切れ目から車道に出、由布子はシトロエンに駆けよった。左ハンドルであるその車には、歩道に回らなくてもすぐ乗れる。彼女がドアをあけると拓は奥に身を引いて、
「シカトすんなよ。焦ったろ俺。」
「ごめん。見えなかったの。今日、これだと0・5くらいしかないから。」
「ああ、俺も一瞬わかんなかったけどな。由布子って目悪かったんだ。知らなかった。普段はコンタクトか。」
「うん。そうなんだけど。今日はちょっと調子悪くて。」
 彼女は言い、すぐに眼鏡をはずした。これをかけると彼女の顔だちはひどくきつくなる。それは自分が一番よく知っているからだった。
「…な。ところであいつら、知り合い?」
 拓はセルを回しながら聞いた。顎で示された方に目をやると、ぼんやりと輪郭だけになって、武藤たちはまだ歩道につっ立っているらしい。
「関係ないわよ。気にしないで。」
 冷たく言い、彼女はシートベルトを締めた。拓はアクセルを踏んだ。車は走り始めた。
「あそこにいたの、まずかったかな…って今さら言ってもしょうがねぇけど。」
「平気。さっきも言ったでしょう、大丈夫だから気にしないで。」
「ならいいけど。こんな早く出てくるとは思わなかったからさ。あせってつい、鳴らしちゃった。」
「ごめんね。私もクラクション聞いて気がついたの。鳴らしてくれなかったらまっすぐ行っちゃうところだった。」
 あまりにも突然だったため体が反射的に動いてしまい、身構える暇もなかったのが由布子にとっては幸いだった。もしもあらかじめ約束した上で会ったなら、ずっと連絡しなかった気まずさ故に彼女の口は重くなっていたかも知れない。ここ十日間の鬱屈した気分を忘れてこうして普通に話せるのは、ひとえに今のクラクションのおかげだった。
 だが由布子はその時、ハンドルを握っている拓が彼女の左手首を見ているのに気づいた。しまったと彼女は思った。ブレスレットをしていない。どう弁解しようか考えをめぐらせた由布子の隣で、正面に向き直って拓は言った。
「針。千本だなやっぱ。」
「え?」
 どきりとして問い返すと、
「えじゃねぇだろ。約束したよな。だから俺、待ってたかんな。信じろってお前が言ったから。」
 あまりはっきりとは見えない彼の、しかしまっすぐに注がれるまなざしを受けて、彼女は思わず目を伏せた。このひとはもしかしたら私が思っているよりずっと大きな人かも知れないという思いとともに、馬場の三百万を受け取らないでよかった、あんな地獄の苦しみの中にあって私は唯一、それだけは間違わなかったのだと由布子は思った。
「…けどな。解決したとは、どうも思えねぇんだけどな。」
 拓は苦笑しつつ首をかしげ、
「まぁその話はまたあとで。向こうは何も知らねんだから、由布子には明るくしててもらわねぇと。」
「明るくって…」
 問い返して由布子はようやく気づいた。向かっているのは太子堂ではない。
「ねぇ、どこへ行くの。向こうは知らないって、何を?」
 すると拓は思いがけないことを言った。
「いや、実は今日ナヴィールに陽介のお母さんが来てさ。」
「お母さん?」
「うん。福島からね、出てきたんだって。久さんに電話もらって飛んでったら、陽介のことでいろいろ礼言われて…。んで、どうしても由布子さんにお会いしたいって言うから、俺が迎えに来たの。」
「そうだったんだ。」
「ああ。だってお前、携帯は切ってるし、直に会社かけんのはまずいだろうし。連絡取りようねぇじゃん、来るしかよ。」
「ごめんなさい。そうよね、携帯切ってたわよね。」
 拓は溜息混じりに、
「切ってたわよねじゃねぇって。さっきだって俺が顔出してんのにスーッて行っちゃうから、そこまで嫌われたかって、俺すげぇ焦ったぜ。」
「いや、だから、見えなかった――――」
「だからわかったよそれは。そうじゃなくて。」
 言い続けようとして彼はやめた。ナヴィールが近い。ここで喧嘩になったらまずいと、判断したに違いなかった。
 店の前の駐車場にバックで入れて、拓はサイドブレーキを引いた。由布子はドアをあけた。足元が暗い。近視の人間に暗闇はいっそうきつい。足をおろしたところに石ころがあった。ぐらっと彼女は転びかけた。
「何やってんだよ。」
 拓は呆れ声で、
「見えねぇんだろ? だったらかけろよ眼鏡。んなつまんねぇとこで気取んなって。」
「だって…すごく嫌味な感じになるんだもの。」
「んなこと言ってる場合か? ああほらそこそこ、犬の。」
 びくっ、と彼女が足を止めると拓は、
「嘘。かけろ。かけねぇならついてくんなよ。」
 そう言ってくるりと背中を向け、ナヴィールのドアをあけた。
「よお、間に合ったか由布子先生!」
 久しぶりに聞く高杉の声はあい変わらず陽気だった。奥の角のテーブルにシェフ姿の高杉とエプロンをした幸枝がいて、その前に小柄な中年女性が座っていた。まだ五十歳にはなっていまい。彼女が陽介の母親であろう。
「こんばんは。なんだかご無沙汰しちゃってます。」
 眼鏡をした顔で由布子は高杉たちに挨拶し、それから女に頭を下げた。女はすかさず立ち上がり、
「まぁまぁ初めまして。陽介の母でございます。あの子が大変お世話になりまして。」
 嬉しそうに何度もお辞儀をした。兄にお菓子を取られてぴいぴい泣いている陽介に、何やってんだよと怒鳴ったのはこの人か。由布子は陽介の母の横に座った。拓は隣のテーブルに着き、体をひねってこちらを向いた。母は由布子の手を取らんばかりに感謝の言葉を繰り返したあと、
「うちはもう兄嫁が来るまでは私以外全員男でしたからね、陽介は女っ気なんて全然ないところに育ったんです。だから女きょうだいは憧れなんでしょう、『俺には東京にカッコいい姉ちゃんがいるんだぞ』って、二人の兄に自慢するんですよ。インテリア…? ええと何でしたっけごめんなさい。難しくて私には覚えられませんでしたけど、とにかく綺麗でカッコよくて、工事の指図をテキパキやっちゃうんだって。俺も今度こそちゃんとした大工になってあんな風に現場仕切ってやるんだと、それは生き生きと話しましてねぇ。私、それを聞いて初めて、ああ、東京に出してよかったなと思いました。」
「いえ、お母様、そんな。そんな風におっしゃられたら、恥ずかしいです私。」
 しきりに首を振り否定する由布子を、高杉たちは微笑んで見ていた。彼女がいま会社でどういう立場になっているか、知っている人間はここにはいない。
「ところで陽介さんはいらしてないの? お母様、お会いになりました?」
 話題を変えると母は、
「いいえ、あの子には会わずに帰ります。」
「そんな…せっかくいらっしゃったのに。」
 由布子が言うと高杉も、
「そうなんだよ、連絡とりますって言ったのに、怒るからいいっておっしゃるんだな。」
「怒るって、陽介さんがですか?」
 問いかけると母はうなずいた。
「ええ。『何しに来たんだよ!』って目玉真ん丸にして怒るのわかってますからね、子供扱いしたってプリプリふくれます。ですから皆様も、もしできたら今日私が来たことは内緒にして下さるとありがたいんですが。」
 母がそう言った時だった。入口のカウベルがコロコロと鳴り、
「ちやーっす! 久さーん! こんばん…」
 少しハスキーな陽介の声が店内に響いた。が、彼はそこではたと立ち止まり、母親が言った通りに大きな目を見開いて、
「かあちゃん! なんで…こんなとこで何してんだよ!」
 肉親というものの間には、時としてこういう不思議な呼び寄せがある。母はケロリとした顔で、
「別にお前にいちいち報告する必要はねぇ。んなでっけえ声張り上げたらお客様にご迷惑だ。」
 気取らぬ言葉になって、アイスティーのストローをくわえた。つられたか陽介も地言葉になり、
「んな俺に断りもなく出て来てェ、まァた俺がガキの頃の話、べちゃくちゃしゃべったんだろ!」
 誰が見ても親子とわかる同じ形の目で、陽介は高杉に言った。
「久さんね、かあちゃんの言うことなんか信じんなよ。昔話し出すと止まんねぇんだこのかあちゃんは!」
 母はしらっとした口ぶりで、
「昔話なんぞお聞かせしてねぇよ。あの馬鹿がお世話かけますってお礼言っただけだ。」
「嘘つけぇ。馬小屋で昼寝してて夜んなっても戻んねぇんで近所中大騒ぎになったとか、金魚池に落っこちて溺れかけて、水吐かせたら金魚まで出てきたとか、畑でトマトもいで逃げる途中モグラ獲りにかかったとか、そんなん話したんだろぉ!」
「…ああ。今おめぇが全部しゃべっちまったな。」
 由布子たちはどっと笑った。拓も手を叩いて笑っていたが、
「おいおい、ちょっと待て。うちらがウケんのはいいけどお客さんいるんだから。迷惑迷惑。静まろう少し。」
「おおそうだそうだ。」
 高杉はすぐ反応して立ち上がり、他の三組の客たちに、
「どうもすいません、皆さん常連さんなのをいいことに、内輪ですっかり盛り上がってしまいました!」
 そう言って深く頭を下げた。客たちは皆笑い、中の一人が、
「いやいや聞いてるだけで面白いからどんどんやって下さいよ。」
 店中がまた笑った。陽介一人が唇をとがらせている。高杉は彼の肩を押し、
「まぁまぁそうムクれんな。いっぱいおみやげ頂いちゃったぞ。ほれ、ここ座れ。話があんだろうゆっくりしてけ。」
 だが母はアイスティーを急いで飲み干すと、言った。
「いいえ、私はこれで失礼します。思いがけず馬鹿息子の顔もおがめたし。」
「あらそんな、ごゆっくりなさいませよ。」
 幸枝が引きとめるのを柔らかく制し、
「いえ新幹線の時間もありますんで…。何せ東京に慣れないもんですから、早め早めに着いてないと不安なんです。今度また皆さんでぜひ、郡山におでかけ下さい。」
 彼女はバッグと紙袋を一つずつ持ち、どっこいしょと立ち上がって、
「そいじゃな。しっかり仕事すんだぞ。」
 ズボンのポケットに手をいれて体をゆすっている陽介に言い、四人には深々とお辞儀をした。陽介はぶすっとしたまま、いきなり手を伸ばして母の荷物を取った。
「送ってってやるよ上野まで。田舎もん一人で歩かすと、どこで迷子になっちまうかわかんねぇかんな。…んじゃ久さん。にいさんたちも、また。」
 彼はすたすたと歩き始めた。母は驚いたように、またひどく嬉しそうに笑ったあと、もう一度彼らに頭を下げ、息子について店を出ていった。
「陽介の奴、本当は嬉しいんだな、あれな。」
 ドアの方を見て拓は微笑んだ。三人は同時にうなずいた。高杉は、
「そうだよな。末っ子がたくましく育っていくのを見るのは、母親にとってもまた格別なんだろうなぁ。」
 しみじみと言って、さりげなく幸枝の背中を叩いた。そこへ絶妙のタイミングで、厨房から香川の声がした。
「久さーん! ねー! いつまでくつろいでんだよ! キッチン! シチュー! 焦げても知んねーよっ!」
「お、おおそうだそうだった! かー君一人ですまなかったねぇ! おじさんがすぐ行くからね!」
 高杉はバタバタ走っていった。幸枝は由布子たち二人に、
「何か食べてくでしょ? ね、ゆっくりしてって。」
 そう言ってくれたが拓は、ちらと由布子の顔を見たあと、
「いや、今日は帰るわ。ちょっと用あるし。また今度にする。」
「そう? あら、さてはデートかしら?」
 幸枝がいたずらっぽく笑うと拓は、
「当然じゃん。フライデーナイトだぜ? 盛り上がんねぇとな。」
 意外にもウィンクまでしてVサインを出し、由布子を促して外へ出た。シトロエンに乗り、シートベルトをしながら彼は尋ねた。
「お前、ずいぶん顔色悪いな。大丈夫か?」
 ナヴィールの明るい店内で、拓はそれに気づいたのだろう。昨夜由布子は眠っていない。涙でぶす腫れた瞼がどうやら元に戻ったのは午後も遅くなってからであった。
「うん、ちょっとね。でも、それほどじゃないから。」
 拓に会うとは思わなかったので、化粧直しもしていなかった。眼鏡をかけている方がむしろごまかしがきいていいかも知れない。彼はハンドルを回した。シトロエンは走り始めた。
 

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