【第3部・第1章】 bP7
 
「陽介さんとお母様、そっくりなのね。何だか久しぶりに『お母さん』って感じの人に会った気がしたなぁ。まだそんなお歳じゃないのに、なつかしくて、あったかいの。」
 由布子の言葉に彼も同意した。
「そうだな。うん。俺もそう思った。ああ、おふくろってこうだったよな…なんて。なんか、思い出した。」
「私…陽介さんがほんとに羨ましいな。おうちに帰ればお父さんとお母さんと、それにお兄さんが二人もいて。あとは義理のお姉さん? もし陽介さんに何かあったら、みんなが手を貸してくれるのよね。いいな。ちょっとだけ妬(ねた)ましかったりして。」
 今頃彼は母親と二人で、電車に揺られているのだろう。父ちゃんどうしてる、とか兄ちゃん元気、などの会話に通う、血の暖かさを感じながら。
「でも由布子のお父さんて、まだ生きてんだろ。」
 拓は言った。彼女は首を振り、
「生きてはいるけど、どこに住んでるか知らないなんて死んだと同じでしょ? 法律的にちゃんと調べれば住所くらいわかるのかも知れないけど、奥さんも子供もいるんだし、私が会いにいっても迷惑なだけよ。」
「そうかな。」
「そうよ。当たり前じゃない。会いたければ向こうが調べるわよ親なんだもの。父にとっては今の生活が何よりも大切なのよ。」
「ま、な。確かにそりゃそうだな。てめぇで好き好んで波風立てる奴はいねぇか。」
 すらりと拓は言った。この肯定こそが彼らしさであった。自分だけの似非(えせ)ヒューマニズムを振りかざすことなど決してない。由布子は膝に視線を落とし、言った。
「いい歳していつまでも、父が母がって、おかしいわよね。親のことが気になるっていうのは、つまりはこだわってるからよね。親と自分、ていう関係を乗り越えられなくて、幾つになっても子供時代をみっともなく引きずってるの。でも、乗り越える前に二人ともいなくなっちゃったら、こういうのってどうすればいいんだろう…。」
 どこに向かって走っているのか、車はいくたびも交差点を曲がった。フライデーナイト、恋人たちの夜を、シトロエンは彼に操られ駆け抜けていく。
「あとはもう、自分が親になってみるしかないのよね。でもね? 私、前から思うんだけど…きっと私みたいなのが親になると、育児ノイローゼみたいになって、幼児虐待とかするような気がするの。煙草押しつけたり、押し入れに閉じ込めて折檻したり。」
「…怖いこと言うな。」
「でもきっとそうよ。生まれかわらなきゃ、どうしようもないんだと思う。今もし父に会ったって、時間巻き戻せる訳じゃないし。」
 そう、あの遠い遠い夜、父が後ろ手に閉ざした扉をもう一度開いて、あそこからやり直さない限りこの想いは消えないだろう。
「お父さんに、会いたいとか思う?」
 ハンドルを支えた手を、ぴくりとも動かさずに拓は聞いた。
「実際に会う会わないは別問題として、心の中では、会いたいと思う?」
 心の、中では…。
 拓に投げられたその問いを、由布子は咀嚼し、素直に答えた。
「そうね。会いたいかな。会って、お酒でも飲めたらいいな。あんなネクラの女房じゃ、お父さんも大変だったでしょうなんて言って。」
「なに、そんな話すんだ。親父とサシで、お袋さんの愚痴大会か。」
「うん。だってそういう話は父親としかできないでしょう? …確かねぇ、ずいぶん背の高い人だったって記憶があるの。それとも私がちっちゃかっただけかしら。きっと今会ってもお互いわからないだろうな。案外どこかで、すれ違ってるのかも知れないわね。」
「いや会ったらまさかわかんじゃねぇの? 何となく、ピンと来るっていうか。」
「うん…どうかなぁ。でももしお父さんに会わせてやるよって言われても、私、会わないと思うの。思い出の中で大切に美化した方が、きっといいんだと思う。父には父の人生があるのよ。それを邪魔したって仕方ない。お父さんはどこで何してるのかなって、懐かしく思い出してた方がいい、きっと。」
「罪だな、その親父。」
 ぼそりと拓は言った。
「こんなにさ、由布子に慕われてんのにな。お前、親父に幸せでいてほしいんだろ。自分のことで悩んだり嫌な思いさせたり、したくない…。由布子の、多分全部にそれがあんだろな。」
 その言葉は、彼女の心の一番奥にある細い弦をピンと弾いた。父の幸せを、私はずっと祈っていたのか。どこにいるかもわからない父への、せめてそれだけが愛の証しであるかのように。
 拓の指に奏でられた音色は、心をつたって胸に溢れた。何かが、由布子の中で溶け始めた。あの夜閉ざされた高い扉に似た何か。彗星の核である氷に似た何か。
「ところで、さ。」
 静かだった口調が一変し、彼は横目で由布子を見た。
「さっきの話の続きだけど。針千本の件。あれってつまりはどうなったの。」
「…え?」
 いきなりで答えられない由布子に、拓は重ねて聞いた。
「金、とさ。あと、仕事? その二つ。両方解決したのかどうか。」
「うん…。解決、したっていえば、したのかな。」
 きわめて曖昧な返答に彼は眉間を険しくし、
「何だよそれ。『したってば、した』っつーの。じゃあ、しねぇってば、しねぇのかよ。」
「…ん。」
「お前な。いい加減にしろ? 俺、警察に知り合いいんだかんな。針千本じゃなくて自白剤。手にいれて飲ましてやろうか? もっともあれ使うと脳が破壊されて一発で廃人になるらしいけど。」
「…」
「何とかフォローしろよ。マジで手に入んだぞ? 俺。」
 由布子は迷い、だが心を決めた。これ以上この人に隠すことはできない。
「あのね、お金は…何とか、なったの。全部じゃないけど、高杉さんに請求がいくことだけはないと思う。方法は相談しようって、分割でもいいようなこと課長言ってたから。」
「全部じゃないってさ、全部で幾ら。そもそもお前、それも言わねぇじゃん。幾らなんだよ。」
 由布子は少し黙り、目を閉じて言った。
「三百六十万。」
「さん…?」
 拓は一瞬絶句して、
「何だそれ三百六十って…。由布子の見積、二百万切ってたろ? おかしいだろいくら何でも。何考えてんだお前の会社。」
「しょうがないのよ。契約してたらそれだけの金額、会社に入ったんだもの。」
「じゃ久さんが払った百九十万はどこ行っちまうんだよ。二重取りだろそれって。ほとんど詐欺じゃねぇか。お前まさかそんなの黙ってきいたの?」
「きかなかったわよ。」
「だよなぁ。ッたくよ、女だと思ってナメられてんじゃねぇ?」
「うん。かも知れない。浦部って上司がね? 私と同じ方法で変な発注書切ってるの。そのことを梶山さん…てほら、ナヴィールのオープンの日にスイートピーの花束くれた人。あの人に聞いて、それで、その発注書手に入れて部長に話したのよ。―――そしたら、ね。」
「そしたら?」
「クビ、だって。」
 由布子は両手で小さくホールドアップした。拓はあんぐりと口をあき、
「お前、それで、どしたの。まさか辞表とか…」
「出したわよ。何だか馬鹿馬鹿しくなっちゃったの。虚しくって。同僚もね、みんなで固まってヒソヒソコソコソ。引き継ぎの中途採用は傍若無人の礼儀知らず。あんなとこで頑張ったって、私なんか所詮は歯車なのよ。もういいわ。なんだか疲れた。会社なんてイザとなると冷たい。あなたの言った通りよね。」
「おい、ちょっと待てよ…。そんな醒めた言い方、今まで由布子一度もしなかったろ。」
「見えてなかったのよ今までは。自分が馬車馬だってこと。これでも私、ずいぶん会社に気を使って、ナヴィールの工事、したのにね。ううん、それはもう言わない。私がやり方間違ったの。あなたのせいでも誰のせいでもないわ。」
「いやそういうことじゃなくてさ。お前悔しくないの。そんなふざけた上司の思うままに辞表書かされて、しかもなに、三百六十万? 久さんの払った額と合わせりゃだいたい五百六十万? そんな嘘くせぇ大金払わされてよ、んで、おとなしくクビになんのかよ! 冗談じゃねぇだろ、ナメんじゃねぇよ!」
 彼は声を荒げた。車体がふらっと大きく揺れた。さすがに危ないと思ったのか、拓は足元を見、スピードを落とした。
「俺さ…ずっと、言わなかったけど。」
 やがて静かな口調に戻って拓は言った。
「葛生先生のフローラルアート。あれ、大して真面目にやろうと思ってなかった。初めは。」
「そうなの?」
「うん。久さんに叩きのめされてからしばらくバイト転々として、フラフラしてる頃につきあってた仲間うちにさ、たまたま先生の甥っ子がいたのね。んで、フローラルなんて面白そうだよなとか言ったら、入学手続きしてくれちゃったんだよ。前に話した失恋物語あったろ? あれで確かにフラワーアレンジには興味あったけど、しょせんは女のやることだみたいな気持ちも、けっこうあったんだよな。んで…初めは遊び半分だった。花の学校だったら女の子多いだろうなって、その程度の。」
 言いながら拓は肩をすくめた。おそらく女生徒の一人二人に、彼は手を出したのだろう。
「花屋ってね、見た目より重労働だから時給いいんだよな。日比谷フラワーセンターでバイトしたのも要はそれ目当てでさ。で…由布子と最初に会った新橋の店で、ここのインテリアプランニングは女の人だよって聞いて、びっくりして。女がこれやったのかよって…。んで、あとんなって、それがあの、男と別れて泣いてたあいつだってわかって。そんとき俺、すっげぇショックだった。あの不倫女が―――って、いや、そん時はね? そん時はそう思ったの。あの女がこのプランニングやったのかよ、どんな奴なんだって、気になってさ。で、由布子に頼んだんだ、久さんの店。」
 そうだったのかと由布子は思った。今夜と同じように私を呼び止めた、今は亡きオンボロRVのクラクション。
「予算が二百二十万だって久さんが言った時、あぁこりゃ駄目だと思った。でもさ、お前、すげぇ真剣で。それ見てて俺、これじゃまじぃって思ったんだ。遊び半分でたらたらスクール行ってたけど、ここは一発本気出してやれと思って、あの『終(つい)の夢』作ってみたんだ。そしたら先生が気に入ってくれて、俺も自分で段々面白くなってきて。フローラルなんか女の遊びだと思ってたけど、そんなことないね。あれ、体力いるし、男の仕事だよ。だってこんなでっかいスクリーンみたいなとこに、花でオブジェとか作っちゃうんだぜ? すっげぇよ。由布子にしても葛生先生にしても、何か一つ本気でやってる奴って、…いいよな。少なくとも俺よりぜってーカッコいい。」
 赤信号で車は停まった。拓は由布子の方を向き、
「お前、上海行くんだろ? まだ誰も見たことのない新しいウチ作んだろ? いつまでも由布子に負けてらんねぇよ俺。そう思ったからおふくろの保険金はたいて、高階先生んとこ入ったんだぞ。それを何だよ。しょせんは馬車馬? なに醒めたこと言ってんだよ。お前、会社のために今まで仕事してきたのか?」
 ぐっと由布子は言葉に詰まった。信号が変わると彼は再びアクセルを踏んで、
「会社が儲かるから残業したのかよ。会社の評判がよくなるから、休みも返上して仕事したのかよ。そうじゃねぇだろ? 自分の作ったものを誰かが喜んでくれる。そんために働いてんだろ? 上海でランファンス作ろうっていうのは、会社の歯車になることじゃねぇだろ? お前が考えて、お前が作ったウチに、誰かが住んで生活して、子供育てて死んでく…。そういうことと、かかわりたかったんじゃねぇの? な、由布子。違うのかよ。」
 いつしか車は、見慣れた通りに入っていた。第一京浜から竹芝桟橋。東京湾を望むコンクリートの埠頭で、拓はエンジンをアイドリングさせた。
「もう、遅いのよ。あきらめたの、私。」
 自身に告げる如く由布子は言った。暗い海の上を巡視艇がよぎるのが見えた。外の気温はかなり低いだろう、ウィンドウは白く曇り始めていた。
「自分の無力さを思い知った気がするの。プロジェクトに選ばれて、すごいすごいって言われて。…正直、気分よかった。自惚れてたのよね。一人で何でもできると思ってたの。でも、そんなの無理だった。だから代わりにあなたが頑張ってよ。スペースアーティストになるんでしょ? 高階先生のスクールだったら大丈夫よ。夢への近道だわ。陽介さん、今夜久しぶりに会ったけど、何だかすごく大人になって。彼はきっとあなたの右腕になれるわよ。二人で私の分の夢まで叶えて。」
「だから待てって。おとなしく会社辞めて、プロジェクトあきらめて、そいでお前これからどうすんの。」
「そうね、まずは職探しよね。この御時世じゃそう簡単にいい条件のところは見つからないだろうし、当分はアルバイトかな。なんにしても自分の食いぶちだけは稼がなきゃならないもんね。」
 冗談にまぎらわしたつもりだったのに、拓は全く笑わなかった。
「本当にそれでいいのかよ。ランファンスはどうすんだよ。お前が考えたウチなんだろ? そんな簡単にあきらめられるもんなのか?」
「だから、もう無理なのよ。辞表は出しちゃったの。今課長の机に入ってる。私が辞めるのを課長も部長も待ってるのよ。もし何か手を打ってあそこに残ったって…。嫌。もう、あんなところは嫌。ドラマか何かみたく面白そうに人の噂して、誰もいないところでだけコソコソ話しかけてくる。あんな最低なとこ、こっちから願い下げ!」
「情けねぇこと言うなよ。くだんねぇ噂話なんか放っときゃいいじゃん。やりたいことがあんならそう簡単にあきらめんじゃねぇよ!」
「あなたに何がわかるのよ、自分の会社でもないくせに。私がどれだけのことやったと思ってるの。それでも駄目だったんだから仕方ないでしょう!」
「何やったんだよ。え? 何やったんだよ! せいぜい銀行と、サラ金行ったくらいだろうが!」
「くらいって、くらいってあなたね…」
「できる限りのこと、本当にやったのか? 協力してくれそうな人に、全部、頼んでみたのか? みっともねぇとか恥ずかしいとかこれ言ったら嫌われるとか、そういうの全部捨てて、できる限りの方法試してみたのかよ!」
 拓の剣幕に、思わず由布子は黙った。大塚を殴った時と同じように、これは彼の内部から吹き上げている言葉なのかも知れない。拓の、拓自身に対する叫び。
「まだ言ってねぇ奴いんだろ。そいつがつまんねぇこだわり捨てて自分と向き合う気にさえなれば、解決できる奴がまだいんだろ! 父親のことはよくわかるけどな、何でも全部そこへ持ってかねぇで、思いつく限りの人間に、何とかしてくれって頼んでみたのかって!」
「拓…」
 由布子にはわかった。彼の目は遠い過去を見ている。彼の過去にある何かが、私と同じように溶け始めているのかも知れない。彗星―――――あの、暗い宇宙を旅する光。
「まだ、言ってねぇ奴がいんだろ。自分で決めて答出すなよ。いるんだよ。いんだろうよまだ。わかんねぇのかよ。いんだよここによ! お前の目の前にだよ!」
 大声で言い、そして拓は黙った。息が荒くなっている。見つめる由布子の視界の中で彼は、筋交(すじか)いが外れたようにぱたりとハンドルに倒れ伏した。けたたましくクラクションが鳴った。体をずらして音を止め、
「やっべー…。言っちまった…。あー…。問わず語りか…。」
 ぶつぶつ言っている彼を由布子は呆然と見守った。伏せている肩が震え始めた。小刻みだった痙攣が段々大きくなった。あの晩大塚を殴りながら泣いた彼は、今は笑っていた。おかしくてたまらないように笑っていた。
「吊り橋に、自分で火つけてんの俺。馬鹿みてぇな。セルフ馬鹿。とんでもねぇの。」
 意味不明のことをつぶやいて、拓はのそりと体を起こした。両腕を上に伸ばしてから頭の下に組み、シートの背にドサリともたれた。
「俺…おふくろ死んで、親父んとこ行ってすぐの頃、ムカつくといつもここ来てたんだ。海に飛び込めばいつでも死ねるんだって、マジで飛び込む勇気もねぇくせにそんなこと考えて、暗くなるまでここにいた。」
 由布子は彼を見つめ続けた。十七歳。多感な少年時代に彼は、どんな痛みを抱いてこの埠頭に来たのだろうか。三人の姉たちは女独特の残酷さで、妾腹の弟を傷つけて喜んでいたのだろう。耐えかねて逃げ込んだ先に待ちうけていたのは父の愛人。拓がくぐってきた涙はもしや、由布子よりもさらに一段深いのかも知れない。
「やり直すなら、こっからだ。ずっと、そう思ってた。」
 よっ、とかけ声をかけて彼は身を起こし、サイドブレーキを戻してクラッチをつないだ。彼が何を決めたのかわからぬままに、シトロエンはバックし、道を走り始めた。
 拓は一言も口をきかなかった。心のうちを尋ねたいのは山々だったが、そうできない雰囲気が彼をすっぽり包んでいた。問うのを由布子はあきらめた。東京タワーの足元をすりぬけ、六本木を縦断してシトロエンは走った。
 アパートの前で、拓は車を停めた。由布子はシートベルトをはずした。ドアをあけ、下りようとすると、ようやく彼は口を開いた。
「夕べ…寝てねんだろ。馬鹿だよお前。体おかしくしたらどうしようもねぇぞ。」
 片足を降ろした姿勢で、彼女は拓の方を見た。彼も顔をこちらに向けた。
「心配、しなくていいからな。今夜はぐっすり寝ろよ。余計なことは考えんな。風呂入ってリラックスして、音楽でも聴いて。」
「―――うん。」
 彼女はうなずいた。ドアを閉め、ありがとうと言おうと体をかがめると、
「由布子。」
 ウィンドウから顔を出した拓に呼ばれた。彼はじっと彼女を見ていた。海のように深い眼差しだった。
「ちょっとだけ、時間くれっか。連絡すっから。必ず連絡すっから、だから…時間くれ。な。」
 視線が、正面で絡んだ。彼の目に由布子の姿が映っていた。彼女は思った。このひとは何かを決心したのだ。何をなのかはわからない。大きな、とてつもなく大きな決心であることだけは確かだった。
「じゃあ、おやすみなさい。帰り、気をつけて。」
 彼女は後ろ歩きでシトロエンから離れた。すぐにヒールが階段に着いた。体の向きを変えなくてはならない。彼女が背中を向ける寸前に、
「由布子…。」
 もう一度、拓は呼んだ。あの日アジアンタムの向こうに覗いた二つの瞳が、言い知れぬ翳りを帯びてそこにあった。悲しみのような、怯えのような、…不安、覚悟…いや、祈りと呼ぶのが近いであろう。そんな目で拓は由布子をみていた。
 しかしそれは瞬きよりも短い時間のことだった。彼は片目をつぶってニヤリと笑い、親指を立ててGooサインをよこした。由布子が思わず笑い返したほどの、コミカルで陽気なしぐさであった。
 
 この夜の彼の笑顔を、ずっと後になってからも由布子はたびたび思い出した。彼が『拓』として見せた最後の笑顔は、由布子の心に焼きつき、しみこみ、長い時間(とき)を経ても決して、色褪せることはなかったのである。
 

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