【第3部・第2章】 bP

 由布子は、拓からの連絡を待った。
 彼が何を決意したのか、詮索すまいと彼女は思った。拓の言葉を信じよう、不安も疑問も忘れるほど強くだ。つまらぬ怯えは不要である。電話は必ず鳴るはずだ。自宅か携帯に、多分、夜――――いやそうとは限らない。昼間かかってくる可能性もある。普段はバッグに入れている携帯を由布子は上着の胸ポケットに抱き、心の位置を確かめるように何度もそれを掌でおさえた。
 アパートに帰りつくとすぐ、由布子は留守電を再生した。メッセージはありませんと機械は答えた。食事の時、テレビを見る時、常に手の届くところにあちこち電話機を移動させ、テレパシーを送りこむ如く彼女は、じっとボタンを見つめたりした。
 二日が過ぎ、三日が過ぎた。ベルはチリンとも鳴らなかった。まさか故障しているのではと受話器を耳に当ててみたくらいである。ちょっとだけ時間をくれと彼は言った。ちょっと、とは果たしてどれくらいをさすものなのか…芽生えかけたクエスチョンに、由布子は慌てて蓋をした。駄目だ、考え始めたらおそらく歯止めがきかなくなる。余計なことは考えず連絡を待つと、私は彼に約束したのだ。
 四日目の夕方六時半。自室の電話のベルが鳴った。由布子は飛びついた。しかし相手は拓ではなく、
「菅原、由布子様ですか? 私、東京中央銀行芝浦支店の松本と申しますが。」
「ああ…。」
 失望の溜息をどう解釈したのか、松本はひどく気を使った愛想のいい口調になり、
「大変ご連絡が遅くなって申し訳ございませんでした。お申し込み頂いていたご融資の件ですが、本日支店長決裁が下りまして、ご希望に副(そ)えることになりました。」
「そうですか。」
 ぞんざいに彼女は言った。待ちわびたはずのOKなのに、もうどうでもいいことのように思われた。
「金額の方は菅原様のご口座にお振り込みさせて頂きますので、ご確認下さいませ。覚え書きなどの書類はご郵送させて頂きます。ご記入とご捺印を頂きましたら、お手数ですが必要書類とともにご返送願えますでしょうか。よろしくお願い致します。」
「わかりました。どうもお世話様でした。」
 それだけ答えて受話器を置き、由布子はベッドにあおむけに倒れた。百五十万円、これで確定である。かき集めた金額は他に、貯金の七十万、クレジットカードの五十万、サラ金の五十万で、締めて三百二十万円。浦部が提示した額との差はたったの四十万円だ。これくらいなら分割もきくだろう。胃がただれそうだったあの苦しみはわずか数日前のことなのに、なんだか遠い過去の記憶に思えるのが不思議であった。金はしょせん、金でしかない。痛みはいっとき焼けつくほどでも、通り過ぎてしまえば簡単に忘れられる。金というものが人間に与える苦労の、それが特徴であり限界であった。
 けれど心はそうはいかない。時がたつにつれて由布子の不安は募った。迷ったり悩んだりせずひたすら拓を信じようとの高尚な誓いにも、ぴしぴしと亀裂が入ってくる。封印は脆くなりついには破れ、あの女の前に膝を折る彼の呪わしきビジュアルが、濃い陰影を帯びて甦ってきた。女の隣に横たわる拓の裸の肩を、由布子は必死に打ち消した。違う、違うそんなはずはない。別れぎわの彼の目には、もっと大きな決意が見えた。小手先の、枝葉末節の解決策ではなくて、人生の根底にかかわるような、重くて深い大きな決意。
 …ただ、それが何であるかはわからない。由布子は溜息をついた。言葉だけ信じて待ち続けるのはこれほど辛いことなのか。同じ苦しみを私は拓に、ついこの間まで強いていたのだ。
 彼に、電話してみようか。沈黙している電話機を見て彼女は思った。もし留守電になっていたら、さりげないメッセージを入れておけばいい。そう…例えばこんなふうにだ。
『もしもし、由布子です。かけちゃってごめんね。おやすみって言おうとしただけ。連絡くれるの待ってます。おやすみなさい。』
 彼女は受話器を取り上げ、拓の携帯にコールした。だが答えたのは彼ではなく、
「電源が入っていないか、電波の届かないところにいます。」
 うそ、と由布子はつぶやいた。今まで一度もなかったことだ。携帯を切ってまで彼はいったい何をしている。まさかあの時の私のように、電話にも出たくないほどの自虐にさいなまれているのだろうか。二軒めのサラ金を出たあとの、ぼろ雑巾にも似た陰気なみじめさ。道ばたに転んだ自分を見下ろして笑った、人間たちの冷たい顔。拓の喉元をまさに今、あれと同じ思いが締めつけているとしたら…。
 不安が、由布子の胸の中で沸騰した。考えるまいとしていた反動がそれに拍車をかけた。惑乱は彼女を飲みこんで渦巻き、爆発しそうな高さにまで心の水銀柱をおしあげた。
 
 翌日の夕方、由布子は池袋ハンズへ行ってみた。バイトには出ているかも知れないと思ったからだ。だが店に足を踏みいれたところで耳に入ってきたのは、店長らしき男の不機嫌なぼやき声だった。
「なぁおい、今度きたバイトな。いくら何でも勤怠悪すぎないか? また今日も休みだろ? 連絡もないんだって? 紹介だから採ってやったのに、明日も来なかったらこりゃちょっと考えなきゃな。」
 タールのようにどす黒い疑惑が由布子の心を塗りつぶした。店の迷惑も考えずに無断欠勤する彼ではない。やはり何かただならぬ事態に、なっているとしか考えられなかった。
(どこにいるの、拓…。あなたいったい、何をしてるの。)
 赤い高層灯を点滅させているサンシャインに由布子は問い、改めて思った。拓のことを私は本当に何ひとつ知らない。こういう状況に陥ったが最後、探す手立てなど全くなかった。
 楽天家とはとてつもなく意志の強い人をいうのだろう。彼女の考えはどんどん、悪い方へ悪い方へと傾いていった。昔いっとき新宿でグレていたという拓が、かつての知り合いに声でもかけていないかと、しまいにはそんなことまで頭に浮かんだ。犯罪すれすれの危ない仕事。パトカーのサイレンとパイロットランプ。自白剤が手に入るというドラマじみた大仰な台詞も、笑い飛ばすどころかおかしいほど現実味を帯びてくる。翌日の晩ついに由布子は、最後の砦ともいえるナヴィールを訪れた。
 時計の針は十時半を回っていた。扉には閉店の札がかかっていたが、中に明かりがついていた。通用口へ回るとアルバイトの泉がいた。ごみ袋の口を結んでいた彼は由布子に気づいて顔を上げ、
「あれぇ由布子さん。こんばんは。」
 ぺこりと会釈して、
「きょうはお一人なんですか? どうかしました? こんな時間に。」
 由布子はそれには答えず、
「高杉さんはまだお忙しいかしら。」
「いや、大丈夫だと思いますよ。さっきまで仕込みやってましたけど。」
 彼女は店内に足を進めた。キッチンの奥で水音がしていた。気配に気づいたのか、小柄な背中が振り返った。
「おや由布子先生。」
 少し驚いたように高杉は言った。彼女は小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、こんなに遅くなってからで。でもお店の営業中はよそうと思って。」
 彼女の態度から高杉はいちはやく、話があるなと察してくれたらしい。手早くあたりを片付けて彼はフロアに出てきてくれた。
 テーブルの上には椅子が逆さに乗せられていた。泉が床掃除をしたのだろう。角の席の椅子を下ろし、向かい合って座ると高杉は言った。
「由布子さん、ばかに痩せましたね。もとから細かったけど、なんか、やつれちゃったっていうか。」
 薄く笑った彼の顔は目だけが笑っていなかった。
「ええ、ちょっと心配ごとが重なって。」
「ああねぇ…」
 あいまいな応じかたをした高杉に彼女は、
「あの、高杉さん、拓がいま何をしているか御存じないですか。」
 ためらわず急所に切り込んだ。
「連絡するって言われてるんですけど、今日で一週間、音沙汰ないんです。携帯にかけても通じなくて、アパートの住所は知らないし、…もう、私、心配でどうかなりそうで。」
 しぼんでいく風船の吐き出す空気に似た、重い吐息を由布子は漏らした。高杉は少し体をずらし、壁の方を向いて言った。
「まぁねぇ、俺は、あいつのことだから心配しなくて大丈夫だと思いますよ? 連絡するって言ったんでしょう? だったら心配いりませんよ。」
「ええ、そうは思うんですけど、でも…」
「男ってのはね、自分がみっともなく格闘してるところは女に見せたくない生き物ですからね。今あいつはまさにそういう時ですから、信じて待っててやって下さいよ。由布子さんのことを忘れたりなんか、絶対してないですよ拓は。」
 彼女は高杉をじっと見つめた。やはりこの人は何か知っている。彼は由布子の視線から目をそらしきれずにくるくると動かした。
「…私、実は拓にあることを話したんです。」
 由布子は言葉をつないだ。今までの彼女なら高杉の匂わせている、これ以上は聞かないでくれというサインに従ったであろうが、
「だから拓は今きっと、私が打ち明けたそのことのために、色々悩んでるんだと思うんです。原因は私なんです。全部彼に背負わせて肩代わりさせて、それで黙って待ってるなんて、できないです。私そこまでもののわかった女じゃない。本当に気が狂いそうなんです。教えて下さい、拓はどこで何をしてるんですか。お願いです高杉さん。」
 拝むように、由布子はテーブルに頭を垂れた。高杉はソファーの上でもそもそと尻を動かし、困惑の咳払いをした。彼女はなおも続けた。
「彼は昔、高杉さんに、その…喧嘩して叩きのめされるまで、ヤンキーまがいのことをしていたと聞きました。まさかとは思いますけど、そういうところでまた何か無茶なことやってるんじゃないかって…」
 すると高杉は驚いて体を乗り出し、
「いや、参ったなそっち行っちゃいましたか。いえいえそれはないですよ。あいつがやってるのはそういうことじゃなくて、もっとその―――」
 言ってから彼はしまったという表情になり、骨張った手で顔中を撫で回した。由布子はしぐさを見守りながら、教えてくれと眼差しで訴えた。高杉は、額、頬、首の後ろと撫でる場所を段々に変えて、ついには腕を組み、観念したように口を開いた。
「黙ってるつもりだったんですけどね。」
 溜息を含んだ低い声で、
「浦部さんて人が、実はだいぶ前にうちに来たんですよ。」
 由布子は絶句した。耳の錯覚かと思った。
「なんかいろいろ難しい書類持ってね。もっとも何を言われてんだか俺には皆目わからなかったですけど。」
 彼女の体は激しい悪寒と火照りの両方に襲われた。高杉に知られたくない一心で金策に走り回ったのに、彼はとっくに全てを耳にしていたというのだろうか。
「いつ、ですかそれ…」
 尋ねると高杉は天井を仰ぎ、
「えーっとねぇ…確か…拓が京都行ってる時でしたかね。」
 思わず由布子は目を閉じた。そんなに前から高杉には、一切合切ばれていたのだ。
「じゃあもしかして高杉さんは、何もかもご承知の上で私には――――」
 黙っていてくれたんですねと言おうとしたのに、彼はガバとテーブルに両手をついて、
「すいません! だますつもりはなかったんです!」
「いえ、いえそんな、そういう意味じゃあ!」
 彼女は慌て、同時に感嘆した。高杉久雄。何という大物なのだ。これほどの事実を知りながらおくびにも出さず接してくれた。最後は自分が責任を取ると腹をくくっていたのだろう。ここまで肝の座った人間はそうそういるものではない。だがそれほどの人物とは到底思えぬ細い体で、彼は言い訳をし続けた。
「ほら、何ていうか、由布子先生がね? 多分俺にだけは知られたくないと思ってるだろうなと。それは痛いほどわかりましたからね。きっと俺が先生の立場でも、そうだったろうと思うんですよ。だから先生の口から何か聞くまでは知らぬ顔の半兵衛でいこうってね、そう思ったわけで。」
 彼女は首を振った。自分の卑小さを恥じた。たった一人できりきり舞いしていた我が身が、出来損ないのピエロに思えた。
「そこまで考えてくださって、ありがとうございます高杉さん。」
 由布子は頭を下げた。
「私が無理してつっ走ったせいで、結局みんなに嫌な思いさせたのかも知れません。本当は何の力もないくせに自己満足でカッコつけて…。せめて責任だけは取らなきゃと思ったのに、でも今度はそれで拓に迷惑かけてるんだと思うと…。」
 彼女の目からぽろりと涙がこぼれた。高杉には初めて見せる感情だった。彼は組んでいた腕をほどき、
「いや、責任、とかそんなんじゃなくて。拓がいまやってるのは、そういうことじゃないんですよ。由布子さんのせいとか、そんなんじゃ全然ない話。あいつ自身のことなんです。」
 高杉は軽く重ねた両手をテーブルの上に置いた。
「まぁ、ですからね、もうここまで来たら、誰のせいとか責任とか、そういうの一切よしにしましょう。ね。この店がこうやって生き返ったのは、みんなの力なんだから。拓も陽介も由布子先生も、うちの幸枝も、もちろん俺だって頑張りましたよ。だから問題はみんなで解決しましょう。由布子さんが一人で考えようとするのが、そもそもおかしいんだ。今だから言いますけどね?」
「…ごめんなさい。」
 ハンカチで涙をぬぐい、彼女は素直に謝った。高杉は穏やかな表情に戻り、
「拓の奴はね、自分の問題をやっつけに行ってるんですよ。七年間目をそらしてたことに、ようやくあいつは自分から向かっていったんです。」
「自分の問題…ですか。」
 言葉の意味をかみしめるように彼女は繰り返した。
「ええ。あいつね、こないだ…ほら陽介ママが来た次の日。ここに来ていろいろ、話していきましたから。」
 陽介たちに会った次の日。ということは二人で竹芝の海に行ったすぐ翌日だ。由布子はあの晩シトロエンの中で拓が言った言葉を思い出した。
『やり直すなら、ここからだ。ずっと、そう思ってた。』
 ―――――いったい、何を。
 道に迷ってしまったならば、正しかったところまで戻るしかない。死ねる場所だと思っていた海。十七歳の自分へ拓は、時空を遡るつもりなのだろうか。
「由布子さんの会社、メインバンクは東中ですよね。」
 突然高杉は言った。話の飛び方があまりに突拍子もなくて、彼女は黙ってうなずいた。彼はさらに、
「今の社長…中野さんですか? いくらオーナーとはいえ社長の椅子に座って経営の第一線にいられるのは、バックに東中がついてるからなんでしょ?」
 こんな評論家めいたことを高杉が言うのは初めてだった。なぜ今そんな話が出てくるのか、不審に思いつつ由布子は言った。
「ええ、そうです。NKグループ全体が、あの銀行の支援の上に成り立ってるって…」
「東中の頭取(とうどり)の名前って、由布子さん知ってます?」
「頭取?」
 知らない、と言おうとして彼女は思い出した。融資を申し込みにいった帰りの、信号待ちで見たウィンドウの看板。ガッツポーズの写真の脇には毛筆体ではっきりと、
「北原、清二って、たしか。」
 その通りと言いたげに高杉はうなずき、
「あそこは血縁主義の親族会社なんですね。でも本当に実権握ってるのは、八十三歳になる現会長だそうですよ。頭取は会長の弟だそうで。」
 まさか、と由布子の心臓は動きを速めた。高杉が今ここで全く場違いな話をする訳はない。東中と拓の間には、何か関係があるのだろうか。
「その会長の名前が北原賢一郎。」
 高杉は言い、まっすぐに由布子を見た。
「実の父親ですよ、拓の。」
 えっ…とだけ声を発し、彼女の全身は凍てついた。音のない耳鳴りが聴覚を奪った。
 本名を嫌った彼。TKというイニシャル。愛人だった母親。本妻の子は女ばかり三人。親族主義の大銀行。花なんかいじってられる立場じゃないとあの女が言った真の意味――――ばらばらだったそれら全てが磁石に吸いつく砂鉄さながらに集合し、ピースは次々はめこまれ、一つの答を形づくった。
 東京中央銀行の会長の息子。それが、拓の正体だというのか。
 高杉はエプロンのポケットからメモ用紙を取り出し、ボールペンで何か書きつけてよこした。記されている四つの文字を彼女の目はたどった。
『北原 拓也』
「それがあいつの本名です。」
 パチンとノックを戻し高杉は言った。彼女は紙片を指で撫でた。拓が何を決意したのか悟り、由布子はしばらく立ち上がれなかった。
 

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