【第3部・第2章】 bQ

 
 翌日、由布子はまた、人の心の表裏(ひょうり)を目の当たりにすることになった。
 彼女の出社を待ちかねたように、やってきたのは多田だった。別人ではないかと思うほどの笑顔で、一緒に役員応接室へ来いという。ついていくとそこには社長の栗原がいた。多田は彼女におもねらんばかりに、
「いやはや菅原主任、君、人が悪いよ。何だってもっと早くに言ってくれないかなぁ。こんなものを浦部君に出す必要はない。さあ。」
 由布子の書いた退職願を、彼は強引に彼女の手に押しつけた。渡されたのはそればかりではなく、賞状と見まごう立派な辞令もあった。筆文字で太々と由布子の名前が記されている。
「このあと朝礼で発表するけど、十一月一日付で君はNK本社総合企画室に移籍になるから。何でも浦部君の指示で引き継ぎをしていたそうだね。いやそれは丁度よかった。君には今後、グッドラック・プロジェクトに専念してもらわなきゃならない。NKグループの将来は菅原さんの肩にかかってると言っても過言じゃないからな。ねぇ社長、実に実に、頼もしい限りですよね。」
 栗原の禿頭(とくとう)も大きく上下に動き、
「そう。菅原主任はエグゼの期待の星なんだ。社内コンペでの君の作品を見て、僕は間違いないと思ったよ。これからはNKの関根係長の下で、思う存分実力を発揮してほしい。上司いかんによって部下の活躍は限定されてしまうからな。浦部君については多田部長、また少し考えてもらって。」
「はい、承知しております。」
 仰々しい厚紙に視線を落としながら、由布子は目の前で演じられている大の男の猿芝居を醒めた思いで観察した。ついきのうまで臭いものに蓋をする如く放り出そうとしていた女子社員を、あたかも超一級VIP客のように扱っている。わずか一日で秤(はかり)の支点が変わったのだ。おそらくは拓のはからいによる、メインバンクの鶴の一声で。
 始業前の朝礼で多田は、由布子の移籍を美辞麗句連ねて発表した。聞かされた同僚たちのとまどいは見るも滑稽であった。誰も味方のいない彼女に対し、幼稚ないじめに似た態度で接していた者どもの中から、まずすり寄ってきたのは風見鶏の石原だった。
「すごいじゃないの菅原ちゃん。完全なご栄転よね。いつから本社行くの? 来年は上海?」
「さあ。まだよくわかりませんので何とも。」
 短く答え、彼女はそれ以上とりあわなかった。石原は決まり悪そうに自席に戻っていった。由布子は机の引き出しに指をかけた。辞めるつもりで整理してしまったステンレスの箱は、手応えなくカラリと開いた。棺にも似た空箱(からばこ)に重ねて、彼女は拓の横顔を思い浮かべた。
 東中の会長が中野社長に、エグゼの菅原についてはよろしくと耳打ちすれば、この程度の『手の裏返し』は一夜のうちに為されるであろう。けれどいくらメインバンクとはいえ人事に口をはさむのは本来企業の禁じ手であり、父親にそれをさせたからには、拓は出された交換条件の全てを飲んだと思わねばなるまい。…
 考えを巡らすことを、だが由布子はそこで中断しなくてはならなかった。まずは総務に呼ばれ、保険や年金など移籍関係の書類を何枚も書かされたかと思うと、自席に戻ったところでNKの人事部長の電話を受けた。彼は由布子に、机は用意できている、残務処理が済み次第すぐこちらに着任しろと指示した。さらに受話器を置いて五分もしないうち、今度は関根が連絡をよこした。
「ホッとしたわよ菅原さん!」
 彼女は弾んだ声で言い、
「何かあったんだろうとは思ってたけど、とにかく本当によかったわ。立ち上がりでメンバーに抜けられたんじゃ今後の士気にもかかわるしね。これからは専任ということで、いろいろ打ち合わせしたいことがあるんだ。できたら午後はこっちに来てくれないかな。よろしくね、待ってるから。」
「わかりました、おうかがいします。」
 そう答えて電話を切り、若干の庶務を片づけるともう昼であった。相変わらず食欲はないので昼食は軽く済ませ、由布子はエグゼを出て高井戸のNK本社に向かった。東中芝浦支店は駅への途中にある。そういえばと思い出し、彼女はカードコーナーで通帳記載をした。百五十万円振り込まれているはずである。しばらくお待ち下さいとの表示を眺め、由布子は小さく溜息をついた。今朝の多田の様子ではおそらく、ナヴィールの一件は雲散霧消していよう。融資を断られても何ら問題はなかったのだ。皮肉なものだなと思いつつ、彼女はATM機が吐き出した通帳を手に取り残高を見た。
(四百七十万?)
 由布子は目を疑った。何かの間違いではないかと明細を追って、原因はすぐにわかった。トウチュウパーソナルローンとうたって入金になっているのが、申込書通りの三百万円なのである。多分無理だろうと言われた金額が丸々決済されていた。機械の前でじっと通帳を見入ってしまった彼女は、背後のサラリーマンの露骨な舌打ちをあび、あわてて場所をあけた。
 偶然とは思えない。これもやはり北原会長が動いたことの余波であるに違いない。そういえば部屋にかかってきた松本の電話は異様なほど丁重だった。彼はあの時支店長あたりから、こちらのお客様は会長のお知り合いだよとでも告げられていたのではないだろうか。拓の父親が持つ権力の強大さを、彼女はかいま見た気がした。
 NK本社で由布子はまず人事部長に挨拶し、それから関根のところへ行って今後の打ち合わせを行った。資料をみな処分してしまったことを打ち明けると、関根は怒るどころか大口をあけて笑い、
「そりゃまた思い切ったことをしたわねぇ。いいよいいよ、コピーすれば済むことじゃない。最新ページの差し替えもあるし、ちょうどいいわ。エグゼの菅原じゃなくNKの菅原としての再出発だもの。気分一新、全部リニューアルしなさいな。」
 関根は早速内線で八重垣に指示を与えた。キングファイルを山ほど抱えて持ってきた彼は、嬉しそうに由布子の移籍を祝福し、これからはもっと近くで仕事ができますねと喜んだが、
「あのね八重垣くん。わかってるのかな。菅原さんは主任として来てくれるの。いわば君の直属の上司になるわけだ。君は今後Wユウコにガンガンこき使われることになるんだからね。あんまり喜んでもいられないんじゃない?」
 関根の口調は相変わらず歯切れがよい。苦笑して八重垣は出ていった。
「彼にもね、私たちと同じ先発部隊として年内にはむこうへ渡ってもらうわ。市場分析のためには彼のプログラミング能力がぜひとも必要。菅原さんと同じスケルトン・スタッフの一人よ。そうそう、菅原さんのビザは再申請しといた。年内には十分間に合うでしょ。」
「…はい。」
 年内といったらあと二カ月は、ない。由布子の胸を冷たい風が吹き抜けた。上海行き。それはすなわち拓との別れを意味する。いや、既に『別れの時』は過ぎてしまったのかも知れない。彼からはもう二度と連絡は入らないのかも…。
「どうかした?」
 急に黙った由布子に関根は聞いた。何でもないと答えると、関根はがらりと表情を変え、
「さてそれじゃあ菅原さん。ランファンスの原価計算、何をおいてもやっちゃってくれるかな。渡辺さんもいい加減ジリジリしてるからね。エグゼの仕事はもうないんでしょ。引っ越しは休みのうちに済ませてくれる? そうだ、八重垣君に車出させるわ。荷造りでも何でも彼に手伝わせていいわよ。」
「わかりました。じゃ、大至急計算書作ります。」
 由布子は明日から自分の席になる真新しい机を確認したあと、ID証を持ってマシン室に入った。この前せっかく持っていったデータを、彼女は悔しまぎれに消去していたのだ。八重垣に教わった手順を思い出しつつ、彼女は単価マスタをフロッピーにコピーした。
 作業が終わったあとで、由布子は画面に表示されている初期メニューに目を止めた。ナンバー6に「取引銀行検索」の文字がある。彼女はリターンキーを押した。知りたい項目にたどりつくのに、さしたる苦労はいらなかった。データベースに格納された概要データを、彼女は一行ずつカーソルでなぞった。
  東京中央銀行
   本社・東京都中央区丸ノ内
   資本金・5,023億円
   従業員数・15,563人
   拠点・国内796店舗 海外66店舗
   総資産・57兆1,492億円
   預金高・39兆8,338億円
 総資産五十七兆といわれても、由布子には想像もつかない世界であった。わかるのはただ、日本有数の大銀行ならば、国全体の経済にまで影響を及ぼす存在だろうということである。血族で固めた東中の経営陣。一万五千人の従業員を実質上束ねる立場の北原会長は、自分の後をただ一人の息子、拓也に委ねたいに違いない。でなければ愛人を使ってまで彼の素行を見張らせたりはしないだろう。だが彼は父の手を拒み、北原の名を拒み、自分で見つけた夢に向かって羽ばたき始めたところだったのだ。空間全体をひとつのコンセプトで総合的に演出するスペースアーティスト。彼が目指していたのはそれだったはずだ。権力と思惑が錯綜する、銀行マンのボスなどではなくて。
 あの夜、竹芝で拓は言った。
『まだ言ってねぇ奴いんだろ。そいつがつまんないこだわり捨てて自分と向き合う気にさえなれば、解決できる奴がまだいんだろ! わかんねぇのかよ。いんだよここによ! お前の目の前にだよ!』
「拓…。」
 面影に彼女は問うた。あなたはまさか私のために夢を犠牲にしたのだろうか。権力の化身のような父親、心の貧しい三人の姉。派閥争いの駆け引きもきっとあるだろう大銀行。どぶねずみ色のスーツで身をよろい、保身に明け暮れる男たちの画策。そんな中で生きることは彼にとって、監獄につながれると同じではないのか。あの美しい髪を切り、はじけるような笑顔を忘れ、父親の強力な持ち駒としてチェス盤の上を歩かされる…。
 由布子は最低限の作業だけを終えると、エグゼで引っ越しのしたくをすると言って定時前にNKを出た。関根は快く許してくれたが、手伝うから一緒に行こうという八重垣の申し出はありがた迷惑で、やっとのことで断った彼女が向かったのは、エグゼではなく丸ノ内であった。
 池袋のバイトなどやめているに決まっている。拓に会えるとしたらそこしかなかった。会って話を聞きたい。彼の真意を知りたい。父親の元に戻ったのは、本当にあなた自身の問題を解決するためなのか。悔いはないのか。それでいいのか。あなたが不幸になることはないのか…。激情に駆られるまま彼女は地上への階段を上がった。すでに夕闇が街の底を満たし始めていた。由布子は大通りに面して建つ東中本社ビルの前に立った。
 巨大な建物であった。整然と手入れされた植え込みの中にデンと据えられた黒御影石には『東京中央銀行』の文字が彫りこまれていた。濃紺と茜の空に峻嶺(しゅんれい)の如く聳え立つビルは、人間の心に本能的な畏怖の念を呼び覚ます。由布子もまた例外ではなかった。彼女は歩道に立ちすくみ、届かぬものに焦がれるように建物を見上げた。天に刺さるばかり積み上げられた四角い窓ガラスが、白々とした蛍光灯の行列を透かしている。この先へ私が入りこむことはできない。闇は由布子の心にもひたひたと忍びよっていた。
 正面玄関を抜けてスーツ姿の一団が出てきた。行員か客かはわからない。男たちは彼女の方を見て、何の用だと言わんばかりの顔をした。由布子は我を取り戻した。こんなところで意味ありげにウロウロしていては警備員に不審がられる。彼女はさりげない様子を繕い、後ろ髪引かれる思いでその場を離れた。
 

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