【第3部・第2章】 bR
 
 角を曲がり、東京駅へ続く道を歩き始めた時、地下駐車場出入口のブザーが鳴った。胸騒ぎに由布子は立ち止まった。エンジン音とヘッドライトが昇ってきた。黒光りする大型リムジンに、社旗がひらひらはためいている。ウィンカーを点滅させて、その車は彼女の行く手五メートル先をふさいだ。後部座席には人影が二つあった。だが黄昏(たそがれ)の薄闇で顔までは見えない。由布子は足を踏み出した。と、背後から走ってきた車のライトが、ぱあっとリムジンを照らし出した。彼女は目を見張った。手前側にいるのは間違いなく拓だった。駆けよろうとした彼女の足をもうひとつの顔がとどめた。シートの奥の白髪の男が、拓に何か話しかけ微笑んでいる。歳は七十過ぎくらい…いや、細面(ほそおもて)の顔だちが若く見せているのであって、実際はかなり年配かもしれない。リムジンはすぐに車の流れにすべりこみ、テールランプは遠ざかっていった。
 ほんの五〜六秒のできごとだったが、由布子はあの男が北原会長であることを確信していた。老人の顔になってはいても、面ざしが拓によく似ていた。若い頃はさぞや美男子であったろう。今の拓と同じように。
「北原、拓也…。」
 その名を由布子はつぶやいた。リムジンの窓の向こうに横顔を見せていた彼は、髪を後ろできつく束ね、カチッとした紺のスーツにネクタイを結んでいた。いつもしていたシルバーのピアスは左耳になかった。上機嫌の会長に比べ、拓の表情は冷ややかだった――――と由布子には思えた。少なくとも笑顔ではなかった。あんな地味なスーツを着ていたことは彼にはない。いつでも少し着崩していて、それが実に似合っていた。帝国ホテルのパーティーだけは、さすがに例外だったけれど。
 タキシードの腕で肩を抱かれた感触を、突然由布子は思い出した。私が彼の体に回した手に、拓はそっと掌を重ねてくれた。互いの想いを差し交わしたのは、あれが最初で、もしかしたら最後…。彼女は左袖の下のブレスレットを確かめた。シトロエンで竹芝に行った時、私はこれをしていなかった。それからこのスカーフも…。由布子は胸元に手をやった。グレイがかったピンクの友禅。まだ一度も彼に見せていない。
 ビルの峡谷を北風が吹き抜けた。由布子は衿をかきあわせ、寒々しい思いで駅へと向かった。
 
 エグゼから運び出した由布子の荷物は、彼女自身驚くほど少なかった。NK本社ビル七階、総合企画室のデスクにすっかり居場所を移した彼女に、今や直近の上司となった関根は矢継ぎ早の業務指示を下した。ここしばらくの間仕事を離れた格好だった由布子も、たちまち勘を取り戻した。いや戻さざるを得なかった。仕事のできる女上司は部下の女に決して手加減しない。そこが男の上司との一番大きな違いであった。
 金曜の晩、深夜一時、くたくたになって部屋に戻った彼女を、ちょうど二週間ぶりのメッセージが待っていた。
「もしもし、由布子? 俺。連絡遅くなってごめん。いろいろごたごたしてて、やっと落ちついたんで、かけられた。」
 いつもと同じ拓の声だった。彼女は電話機に耳をつけんばかりに聞いた。
「あさって、日曜日、午後時間とれっかな。二時に渋谷の東急プラザ前。都合悪かったら電話下さい。でもって…あとは、会ってから話す。んじゃな。」
 着信は午後七時三十五分。彼にしては早い時刻であった。ごたごたしていたというのはやはり、身の回りに大きな変化があったことを示すのだ。日曜日午後二時、渋谷。拓は何を語るつもりだろう。父の元に戻ったいきさつと、真の理由と、それと…? 由布子は唇をかみしめた。消せない疑問が胸の中にあった。アルバイトのかたわらスクールに通っていた苦学生の拓から北原拓也に変わった時、彼は何かを失った、もしくは捨てたのではあるまいか。無残に手折られたあなたの翼を、私は見ることになるのだろうか。
(いま思い悩んだって、仕方ない。)
 由布子は自分に言いきかせた。拓に会って、話を聞いて、そうしなくては何もわからない。必ず連絡すると言った約束の通りに、彼は電話をくれたのだ。まずそのことを喜ぶべきである。彼女はドレッサーのカバーをめくり、前髪をピンで留め上げた。この前私は眼鏡をかけて、肌はボロボロ髪もボサボサのひどい顔で彼に会っている。明日のうちに美容院へ行っておこうと由布子は思った。せめてもの明るい決意であった。
 
 
 日曜日。彼女は早めにアパートを出た。小春日和の名にふさわしく風もない暖かな日だったので、コートはやめてジャケットだけにした。首には友禅のスカーフを、左手首にはブレスレットを巻いた。
 すぐにバスが来たのと、246が珍しくガラガラだったせいで、渋谷駅に着いたのは一時十五分であった。いくら何でも早すぎるだろう。彼女はプラザの中に入った。五階に紀伊国屋書店がある。平積みされている文庫本を何冊か手に取るだけで、二、三十分はすぐにたつのだ。彼女は恋愛小説を避け、動物を扱ったエッセイや、男性作家の紀行文などを開いた。こういう気分の時にはなぜか色気のない文章が読みたくなる。恋人と別れて泣いている女の話など目にするのも嫌だった。
 パラパラと拾い読みし、戻すたびに腕時計を見る。二時まであと十五分。そろそろ行こうかなと思った時、棚と柱に遮られた専門書のコーナーで人影が動いた。彼女はハッとした。確かに目にしたわけではないが、心のどこかが反応していた。由布子は本棚と人の背の間をすりぬけた。四角い柱の陰から首を伸ばし、彼女はそこで足を止めた。
 建築書のコーナーで、ずらりと並んだ大型本を見上げているアーミージャケットはやはり拓であった。手を伸ばし抜き取ったのは数寄屋造りの写真集。束ねず無造作に散らした髪は以前と変わっていなかったが、ページを見入っている横顔は、心なしか頬の線が鋭くなったように思えた。
 そっと、彼女は近づいていった。彼は気づかない。女が片手で持ったら一分でしびれそうな本を真剣に読んでいる。呼びかけようと由布子は口を開いた。拓、と言おうとしてしかし、彼女は別の名前を呼んだ。
「――――きたはら、さん…?」
 広い肩がピクリと動いた。彼はこちらを向いた。驚きの表情が一瞬だけ、言いしれぬ不安に翳った気がした。
「なんだ。お前もここにいたんだ。」
 笑わずに拓は言い、バタンと本を閉じて棚に戻した。
「うん、ちょっと早く着いちゃったから。」
 答えた由布子の手元に彼は目をやり、
「それ、買うの。」
「え?」
 言われて気づいたが彼女は、一冊の文庫本をしっかりと抱きかかえていた。そう欲しいと思うほどのものではなかったけれど、わざわざ置きに行くのも変だと思い、
「ん、まぁね。立ち読みだけじゃ悪いかなって。」
「んじゃ買ってこいよ、エスカレータんとこにいっから。」
 拓は顎でレジを示し、ポケットに両手を入れて歩き始めた。モスグリーンのジャケットに目をとめたまま、彼女はレジカウンターへ急いだ。カバーかけは断って店を出る。下りエスカレータの脇に立っていた彼は、由布子より数歩早くステップに下りた。目の前の背中を彼女は見つめた。怒らせたかなとチラリと思った。
 一階に着き、エントランスを抜けると拓はセンター街の方向へ歩きだした。彼を追って由布子は時おり走らなければならなかった。大スクランブルを渡ったあたりでようやく歩調を緩め、拓はほとんど聞き取れないほどの小声で言った。
「…久さんだろ。」
 続けて彼は舌打ちし、
「ッたくあのオヤジおしゃべりなんだから…。俺には言うなっつっといてよ、てめぇはしゃべっちまいやがって。」
 人ごみの中を歩きながら彼は由布子を見下ろした。
「んじゃもう、全部聞いたんだ。久さんに。」
「全部っていうか…うん。多分、そうだと思う。」
「そっか。」
 拓は浅く溜息をついて、
「馬鹿みてぇな俺。由布子にどう説明しようか夕べずっと考えてたんだぜ? おかげで寝つけなくなっちまってよ…。なんか、拍子抜け。」
 ひょいと肩をすくめた彼に由布子は言った。
「私も高杉さんに聞いて驚いちゃった。あなたのこともそうだけど、エグゼの浦部課長、真っ先にナヴィールに行ってたのね。私全然知らなくて、必死に隠そうとしてたのに。」
「ああ、そうだってな。俺も聞いたわそれ。ひっでぇ話な。」
 ようやく彼は笑い、
「久さんもさ、大した男だよ。俺、改めて見直した。」
「ほんとね。すごい人だと思った、私も。」
 センター街からロフトの脇を抜け、二人は公園通りに出た。すれちがう恋人たちはみな、腕をからめ小鳥のように囁きあっている。
「いっこだけ、補足していいかな。」
 パルコ前の交差点で拓は言った。
「俺、夏…肘折行って帰って来た頃から、いろいろ考えてたんだ。親父んとこ戻ろうって決めたのは、由布子のためってわけじゃなく、その頃から考えてたこと。お前と会社のトラブルは、ま、言ってみりゃきっかけってとこだな。」
 腕を組まなくとも、体をすりよせなくとも、そばにいれば彼の体温は伝わってくる。彼女は耳を澄まし、拓が語るのを待った。
「こないださ、お前、言ったじゃん。ほんとは親父さんに会いたいって。でもきっと迷惑だから会わない方がいいって、あれ、俺すっげぇこたえた。由布子ほど真剣に親父のこと考えたことあんのかなって…よく考えたらさ、ねぇんだよな。認知もしねぇで放り出しといて、自分の都合でいきなり北原名乗れって言い出して、ふざけんなとしか思ってなかったから、なんつぅかな、ずっと、敵みたいな感じで。結局は俺、親父に反抗してるだけなんじゃねぇか? って、由布子見てたらそんな気がしたんだ。」
 彼女が一番知りたかった真意を、淡々と拓は語った。由布子のための決意ではないというのは、彼らしい方便とも取れば取れる。けれど拓の横顔の静かさには何の作為も感じられなかった。真実だけが持つ、凛として透明な静かさだった。
「俺ってさ、親父が五十八の時の子なんだよな。だからあっちはもう、いつくたばってもおかしくねぇ歳じゃん? あんまモタモタしてっと、真剣に向き合う前にイッちまうぞって、そんなことも考えたりしてさ。親父が生きてるうちに一度、マジで真っ正面から取っ組みあってみねぇと…」
 彼は空を仰いだ。青く高い秋の空だった。
「一生、取り返しのつかない後悔しそうな気がすんだ。墓石けっとばしたってな。足、痛ェだけだろ。生きてるうちに向きあって、本音でぶつかって、それでもし大喧嘩になったら、今度こそ弁護士に絶縁状つくらして出てこようと思ってる。もしかしたら俺、一世一代の親子喧嘩しに親父んとこ戻んのかも知んねぇな。」
 反らした首を戻して、彼はニッと笑った。
「親父にもさ、言われた。別に俺に全部譲ると決めた訳じゃねえって。たりめーだっつの。俺だって貰いたかねぇよそんなもん。向き合うからにはひとまず同じ土俵に上がんなきゃなんねぇだろうって、そう思ってるだけ。親父がいるのはどういう世界で、どれほどの男なのか、フィルターはずして一回ちゃんと見てみるわ。銀行なんて俺、ガラじゃねぇとは思うけど。」
 そう言って拓が浮かべた笑顔は、無防備でむしろあどけないくらいの――――そう、無垢、といったら近いかも知れない表情だった。TKという仮面を彼はとうに外している。これが彼の本当の姿なのだ。北原拓也とは決して、拓と相入れぬ存在ではない。
「あ、それと、言っとくけどな。俺、スペースアーティストは諦めた訳じゃねぇかんな。そこんとこ、誤解すんなよ。」
 笑いは不敵なものに変わり、
「しばらくは銀行の仕事することになっけど、その間にせいぜい人脈づくりしとこうと思って。日本中の金持ちと知りあいになっときゃ悪いことはねぇだろ。パトロンとかスポンサーとか、百人くらい見つけてストックしとこうと思ってる。」
 由布子は拓の顔を見た。資本金五千億円の大企業を人脈作りの場だと言える、彼のしたたかさに驚いてだ。
「葛生先生とか、見てっと思うもんな。やっぱアーティストにも経営センスは必要だよ。あの先生、スクールはスクール、自分の創作活動は創作活動って、きちんと分けてやりくりしてんの。まぁもともとが財産家なんだけど、でも自分のネームバリューはガンガン利用して、スクールでちゃっかり金儲けしてんだよ。でもそれがあるから損得抜きでやりたい仕事選べんだよな。収入源がちゃんと別にあれば、金にならない仕事でも請けられんじゃん。仕事と商売は違うって感じ? マジ頭いいよあの人。だから俺も、そういうところは見習おうと思って。」
 神南の交差点を右に折れ、ファイヤー通りへ下る坂道の中ほどにある喫茶店に、拓は由布子を導き入れた。定番デートコースからは少しはずれた、穴場のような店であった。
 

第3部第2章その4へ
インデックスに戻る