【第3部・第2章】 bS
 
「ところで由布子の方はどう。会社、問題なし?」
 煙草に火をつけて拓は聞いた。由布子はまだ彼に礼を言っていないことを思い出した。
「うん。関根係長の下で毎日しごかれてる。今までと違って営業ノルマがないでしょ。だからプロジェクトだけに専念できるの。おとといの金曜日にね、ランファンスのプランバリエーションと最終の原価計算書提出したところ。」
「そっか。頑張ってんだな。」
 口には出さなかったけれど、拓はそれを聞いて安心したようだった。
「ありがとう。あなたのおかげね。あなたとお父様のことは、それは確かにそうなのかも知れないけど、でも結果として私、あなたに助けてもらったわ。」
「いや、いいよそんなの。改まって言われることじゃねって。」
「ううん。親しき仲にも礼儀ありって言うでしょ。きっかけであれ何であれ、あなたのおかげなのよ。ありがとう。感謝してます。」
 テーブルの上できちんと、彼女は頭を下げた。拓は照れ臭そうにアメリカンのカップを取り上げ、ひとくち飲んでソーサーに置き、
「…上海、年内には行くんだってな。」
 由布子ではなく、茶色いコーヒーの水面を見てつぶやいた。
「うん…。」
 ココアの表面を覆う生クリームを、彼女はスプーンでかきまわした。由布子自身言葉にすくいとれない想いが、小さなカップの中でくるくる回った。
「頑張れよな。会社のためとかじゃなくて、自分のためにさ。」
「うん。そのつもり。」
「俺も、…まぁ将来はともかく、やるからには本気でやってみる。銀行の経営なんて、やりたきゃ誰でもやれるってもんじゃねぇだろ。」
「本当よ。出世のために骨身を削ってる人たちに呪われるから。」
「そうだよな。やっぱ何か目標決めて、一歩ずつ前に進まねぇとな。」
「うん。長期中期短期の計画に基づいて、ただし突発事項にもフレキシブルに対処しながらね。」
「どっかで聞いたぞ、その台詞。」
 拓は言い、二人は笑った。互いに相手の目は見ずに。
「本気出して、やることやって。人生、全てはそれからだよな。」
 独り言めいて彼が言った時、ルル、と携帯のベルが鳴った。拓は内ポケットに手を入れ、由布子にごめんねと断って、アンテナを伸ばし通話ボタンを押した。
「はい。…ああ、わかってる。時間までには戻るから。だからそれはもう何度も聞いた。ちゃんと行くって。はい、着替えて行きます。迎えなんかいらねぇよ。はい。はいそれじゃ。」
 ピッ、とうるさそうに回線を切り、彼は由布子に弁解した。
「親父の秘書。こまこまうっせぇの。あ、男だよ。中年のおっさん。」
「別にいいわよ、そんなこと。」
 彼女は苦笑し、ココアを飲み干した。拓にはあまり時間がないのだろう。彼はテーブルの上で手帳を開き、素早く何かを書きつけて、
「これ、今度変わった俺の住所と、電話番号。」
 破り取って渡された紙片を彼女は読んだ。千代田区三番町。政治家や実業家の住む高級マンションが建ち並ぶ街だ。
「一人暮らしは相変わらずだから、かけてよこせよな。俺以外に出るとしたら賄(まかな)いのおばちゃんだけど、気にすんな。まぁ…今までみたくは、ちょっとの間会えないか知んねぇけど。ああでも由布子も忙しいか。あっち行く準備とか、いろいろあんだろ。」
「そうね。ここへ来てまた、ワーカーホリック復活してる。」
 彼女はメモを丁寧に折り畳み、
「毎日、とにかく目の前の仕事片づけなきゃ帰れないのよ。おかげで毎晩午前様。もうどうすりゃいいのって感じ。」
 オーバーな言い方に拓は笑い、
「またそうなっちまったか。お互いこれから大変だな。」
 言いながら腰を浮かせ伝票を取った。カップにはアメリカンがまだ残っていた。由布子は先に外へ出た。日陰に置かれたプランターで、小さなマリーゴールドが寒そうに肩を震わせていた。
 拓は、何も失ってはいない。あの笑顔も夢さえも、ひとつとして彼は捨てていない。父親の元へ戻る決意は、詭弁ではなく彼自身のためだろう。そう、彼は気づいたのだ。拒み、嫌い、逃げ続けていては何も生まれず何も始まらない。正面で父と向き合い真実を見い出すための時間が、自分にはまだ残されているのだと。夢へ羽ばたく前にひととき翼をたたんで、拓は父の前に降り立ったのだ。
 しかし、彼はあるものを手放したのだと由布子は思った。彼は言った。人生、全てはそれからだと。あの言葉は由布子との恋とも呼べない淡い交わりに、拓が下した結論であった。このまま寄り添い重なるかに見えたレールは、やがて離れて行こうとしている。分岐点はもうすぐそこだ。私が上海へ旅立つ日――――それが二人の別れの日になる。
 由布子は目を閉じた。静かな水晶の旋律が、心の奥底から聞こえてきた。私が本当に求めていたのは、離れたくないという言葉だった。夢もある。野心もある。上海で、行けるところまで行ってみたいと思うのは嘘ではない。だが、幾重にも絡みあった蔓草の洞窟をくぐりぬけた先に、果てしなく滴る泉があって、そこにだけ響く水滴の音は、いとしいひとの名前を繰り返していた。拓…私はあなたのそばにいたい。あなたの人生に寄り添っていたい。離さないと言ってほしかった。お前だけだと言ってほしかった。
「お待たせ。」
 ドアをあけ、彼は姿を現した。吹きつける風にあおられた髪を、首を振って後ろに流した。由布子の大好きな仕種だった。坂を昇りながら拓はちらりと腕時計を見た。交差点で彼女は立ち止まり、車道に向いて手を上げた。気づいた一台のタクシーが停まった。自動ドアの上部に指をかけて、
「ね、お乗りなさいよ。急ぐんでしょ? 私、もうここで平気だから。」
 さぁ、と促すと拓は、
「いや、送るよ。アパートまで…いや、駅までかな。別にそんな、急ぐわけじゃねぇよ。あ、一緒に乗ってけ。な。」
 由布子は首を振った。いいの、そんなに優しくしないで。涙があふれこぼれる前に、どうかここから立ち去ってほしい。
「――――ううん、いろいろ買い物がしたいの。ほら向こう行くまでに、揃えなきゃいけないものもあるのよ。忙しいんだ。また電話するから。ね。乗って。運転手さんが困っちゃうでしょ。」
 拓はわずかに不平そうに、しかし言われるままタクシーに乗った。
「またね。気をつけて。大変でしょうけどいろいろ頑張って。」
「お前もな。あんま、無理すんなよ。」
 自動ドアがバタンと閉まり、タイヤが動き出した。リヤウインドウ越しに拓は手を振っていた。彼女も振り返した。坂の向こうにグリーンの車体が見えなくなると、由布子はほっと息を吐いた。このまま左へ折れて公園通りを下れば渋谷の街に戻れる、が彼女は坂道に背を向け、信号を渡った。対岸にはNHKホールが見える。拓と二人で新世界を聴いた、あの夜が多分夢の入口だったのだ。茶色く末枯(すが)れた欅(けやき)並木を過ぎると、正面は代々木公園。表参道を見下ろす歩道橋に昇って、由布子は遠くに渋谷の街なみを見はるかした。
 この街を、私はあのひとと歩いた。雪が降っていた。風の日のこともあった。早春の夜。あの細い坂道。待ち合わせた改札口。人も車も一緒になって動く井の頭通り。人波の絶えたことがないセンター街の石畳。スクランブルとプラネタリウム、三角州に似た109。彼が、私が、別々の道に分かれていっても、坂の街・渋谷タウン、きらめきの東京シティ、どうかお前だけは覚えていておくれ。私たちは確かにこの街にいた。ここを歩き、ここで笑い、つかのまの刻(とき)を重ねて生きた。
 ――――上海へ、行こう。
 冬近い空を見上げ、由布子は静かに決意した。
 一度は諦めかけた夢を、取り戻させてくれたのは拓なのだ。暗礁にのりあげ転覆しそうだった船を、彼の両手が大きく沖へ押し出してくれた。ランファンス。黎明。それは由布子が創りつつある新しい船だ。まだ誰も見たことのない家。住む人とともに成長する家。たくさんの人がその中で、一つずつの人生を紡ぐ。泣いて、笑って、繰り返して、いくつものドラマが生まれていくのだ。
 そして拓も今、自らの内なる海へ船出しようとしている。父を通して自分自身との、長い戦いに挑もうとしている。
(私も行くよ、拓。精一杯、真剣に。会社とかそんなんじゃなくて、自分のためにやってみる。本気出して、やることやって、人生の全てはそれからだよね。)
 表参道から、由布子は青山通りに出た。車の騒音が足元を洗っていく。彼女は知っている限りの希望の歌をくちずさみ、渋谷駅へと宮益坂を下った。
 

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