【第3部・第2章】 bT
 
 由布子を含む上海先発隊が日本を発つのは、約一か月半後の十二月二十二日と決まった。翌年の四月一日には営業所が正式オープンする。それに備えての準備作業および営業活動の足場固めが、先発隊の主な仕事であった。関根はこのところほぼ三日おきに上海と東京を往復しており、会議の席には毎回、新開発区である浦東(プードン)新区に建つ高層ビルの一室に事務所を借りたとか、社員用の寮としていくつかマンションをピックアップした、などの具体的な報告がもたらされた。メンバーの間で『上海行き』は、日に日に現実化し実感を帯びていった。
 
 
 密集した住宅街の一隅にある狭い庭では、裸になった木の枝にわずかばかり残る枯葉が、北風にカサカサと頼りなげに揺れていた。上海出発が近づくにつれ由布子も、現地との連絡や国内に残るメンバーとの打ち合わせで会社に泊まり込むことさえ多くなっていたが、三連休の中一日をようやく休みにあてた彼女は、ずっと無沙汰をしていた叔母夫婦に会うために、日帰りで仙台を訪れた。
 上海行きについて大体のことは、あらかじめ手紙で説明してあった。口の重い叔父は、まぁ体に気をつけて頑張りなさいと言っただけで、碁を打ちに出かけてしまった。気まずさと同じその行動は、娘というものに対する男の身内特有の照れなのである。叔父の心中が由布子にはなぜか手に取るように理解できた。
「まったくねぇ…。今度会ったら絶対に身を固める話しなきゃと思ってたのに、上海なんかへ行っちゃうとは、思いきったことをする子だよほんとに。」
 叔母は由布子の湯呑みに茶をつぎたして言った。たいして歳の違わない妹だから当然であるが、叔母の愚痴の言い方は亡き母にとてもよく似ている。由布子はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい我儘言って…。でもほら、上海なんてすぐ隣なんだし、アメリカやヨーロッパと違って、飛行機だったら福岡までと大して変わらないよ。」
「それにしたってね、やっぱり外国は外国。別府の温泉につかりにいくのとは話が違うでしょう。」
 叔母は短く溜息をつき、
「今さら反対したって、どうせ聞きゃあしないんでしょう。そういうとこ、ほんとに姉さんにそっくりだよ由布子ちゃんは。」
 困ったものだという感じで苦笑する叔母に、由布子は胸をつかれた。この人はこうやっていつも、私の我儘を許してくれたのだ。
「何年に、なるかなあ…。」
 庭に視線を投げて由布子は言った。何が? と問い返す叔母の方は見ずに、
「おばちゃんがさ、私の面倒見てくれるようになってから。お母さん死んでからだから…もう二十一年か。長いような短いような…。何ごともそうかな。長いようで短いの。」
「なあに。どうしたのいきなり、しみじみと。」
「いろいろあったのよ実はね。もう済んだことだけど。」
 香りのいい玉露をすすり、湯呑みの肌の暖かさを由布子は両手でいつくしんだ。
「ずっとさ。私、自分のこと可哀相な子だって思ってたんだ。お父さんには捨てられてお母さんは死んじゃって、それなのに私は一人でこんなに頑張ってるんだ。偉いでしょう、誰か褒めてよねって、ずっとそう思ってたんだってわかったの。でも、それは違う。とんでもない自惚れだったね。だってさ、私が大学出られたの、おばちゃんのおかげだもんね。おばちゃんがあのとき東京出てきてくれたから、私、学校行けたし資格も取れたのよね。その間おじちゃんは逆単身赴任? 不自由だったのに応援してくれて。―――そういうの全然気づかなくてさ。可哀相どころか、恵まれてたのよね私は。」
 叔母は驚いたように目を見開き、続いてせわしなくまばたきをした。
「あらまぁ気持ちが悪いねそんなこと言われると。改まってまあどうしたんだかこの子は。おおくすぐったい。痒くなってくるよ。」
 おどけてみせる叔母の前に由布子は、バッグから出した封筒を置いた。
「これね、大した意味はないんだけど、おばちゃん持っててくれるかな。」
 手に取って中身を出し、叔母は目を丸くした。株券。しかもかなりの厚みがある。
 実はこの株券にはちょっとしたいきさつがあった。由布子は、法人レートで発注をかけたことによる利益差額七十万円を、NKに異動してすぐ、エグゼの多田部長に差し出したのである。三百六十万払えと言われれば疑問だったけれども、七十万はきちんと清算すべき金額だ。すると多田は、誰もいないとわかりきっている応接室をササッと見渡し、紙幣を彼女の方に押し戻しながら言った。
「いや、これは受け取れないよ。なかったことにしてくれとこっちが言いたいんだ。」
 それはないだろうと由布子は思い、無断で行った発注については筋を通してお詫びしたいのだと言うと、
「だが経理的にね、この金は何なんだってことになると説明のしようがないだろう。そもそも浦部君が妙なことを言い出さなければ何事もなく済んだんだから、ここは一つ忘れてもらって。ね。菅原さんも上海行きで何かと出費は多いだろうし、これはさぁしまってしまって。」
 話のわかる、器の大きな尊敬すべき上司と思っていた多田は、思いがけぬタヌキであった。浦部の姿はあれから全く見えないが、果たして何を言い含めたのだろう。
「まぁでもアレだよ、菅原さんがどうしても気が済まないって言うんなら、このお金でNKの株でも買ってくれたらいいんじゃないかな。グッドラック・プロジェクトが成功すればNKの株は一気に跳ね上がるだろうし、そうすれば両者万々歳って訳だ。」
 そのアイデアに由布子は乗った。七十万で自社株を買い、カード会社とサラ金に借りて結局手つかずだった計百万円は全額返済、東中芝浦支店には二百万だけ返済して、残りは赴任のための諸経費にあてた。そうしてこの株券をどうするか考え、叔母夫婦への心ばかりのお礼にしようと思って、今日ここへ携えてきたのである。
 株なんて買ったことないよと叔母はとまどい気味だったが、
「いいのよただ持っててくれれば。新聞に株式の変動が載ってるでしょ? それ見て、上がったなと思ったら売っちゃってもいいし、おばちゃんの好きにすれば。」
「いやそう言われてもねぇ…。どうすりゃいいんだか…。」
 パラパラと指先でめくっていた叔母は、
「よしわかった。じゃあこれは、おじちゃんの葬式費用にしよう。それまで大切に持ってればいいね。うんうんそうしましょう。」
「やだなぁ、ブラックなこと言わないでよ。」
 再び封筒に収め、叔母はそれを拝み頂く仕種をして、
「―――で、その代わり、あれを面倒みてくれっていうことなんだね。」
 サッシ越しに陽を受けている植木鉢を目で示した。それは由布子が持ってきたプリムラ・オブコニカであった。
「うん。鉢植えって外国には持っていけないの。枯らしちゃうのは可哀相だし、おじちゃん盆栽が趣味でしょ。だから一緒に面倒みてほしいんだ。育て方のメモ、ここに書いてきたから。」
 拓にもらった…正確には消費税だけサービスしてもらったその鉢は、一回り大きく背丈を伸ばして、柔らかな葉を茂らせている。北国の仙台で冬越しは難しいかも知れないが、預けられる人は他になかった。
「まったくほんとに、この子ときたら。」
 叔母は諦め顔で笑い、次の間の仏壇を見て言った。
「孫を抱かせてくれるのかと思ったら、持ってきたのは植木鉢ときたよ。ほんとにもう…ねぇ、姉さん? あんたの娘は全く、人の気も知らないで。」
「ごめんね、おばちゃん。」
 叱られた子供のように由布子は肩をすくめた。
「ほんと、叔母不幸な娘だと思う。でも、行きたいんだ上海。ごめん。」
「ええええ、止めやしないよ。上海でも南極でも、どこでも好きなところへお行き。」
 言い放たれる言葉はこの上もなく優しい。由布子は素直に心の内を語った。
「一回ね、くじけそうになったの、実は。仙台帰ってきて、お見合いしようかとも考えた。でもね、応援してくれた人がいるの。絶対に諦めるなって、スタートラインまで引きずってってくれたのかな。だからその人に恥ずかしくないように、しっかりやってみたいんだ。上海にね、新しい家を造るの。ランファンスっていって、私が考えたんだよ。いろんな人に助けてもらって、それが形になっていくの。これはさ、やっぱりすごいことでしょう。」
 知らず知らず熱のこもる口ぶりに叔母はひきずられる様子もなく、
「まぁねぇ。そうなんだろうけどねぇ。私なんかにしてみれば、結婚して子供持って、穏やかに平和に落ち着いた人生を送ってほしいと思うけどね。身の者はだいたい、そう思うでしょう。」
 身の者はだいたい、そう思う…。今までの由布子なら古臭く平凡だと思っただろうその言葉が、日だまりのような暖かさとなって、深く胸にしみいった。
「ま、由布子ちゃんの人生だもの。やりたいようにやんなさい。でも体だけは大事にしなさいよ。」
 母親の顔になって叔母は言った。
「人生っていうのはね、完全な不幸も、完全な幸せもないものなの。それなりに誰でも大変なんだよ。だから体さえ丈夫なら、人生なんて何とかなるもの。かりに野たれ死ぬにしたって、ポックリ行ければ楽でしょう。患(わずら)ったら人間、おしまいなんだからね。」
 由布子は叔母の目を見た。おっとりとスローモーなこの叔母も、女として、人生の先輩として、いまだ由布子の知り得ぬ真実を幾つもくぐりぬけてきたのだろう。年輪を重ねて成長する木のように、叔母の生きた時間の厚みを彼女は思った。
「そうだね。体が資本だもんね。病気しないように気をつけて、頑張ってきます。おばちゃんもおじちゃんと一緒に、元気でいて下さい。」
 由布子は畳に手をついた。叔母夫婦は彼女にとってこの世に二人だけの家族であった。望めばいつでも帰ってこられて、そのまま居ついても構わない場所。これを桃源郷と呼ばずに何と称せばいいのだろう。
「時々は手紙よこしなさいよ。」
 見送りに来てくれた仙台駅のホームで、叔母は由布子を見上げ、言った。
「便りのないのは無事な証拠なんだろうけど、元気だの一行でいいから、言ってきなさいよ。」
「わかった、そうするね。本場のウーロン茶とか、送ってあげるよ。」
「そういうことじゃないのよ。品物なんか送らなくていいから。困ったことがあったら言ってよこしなさいよ。きついと思ったら無理しないで帰って来なさい。いいわね。わかったわね。」
 永の別れでもあるまいに、叔母の目は赤くなっていた。走り出したやまびこ号のデッキで、由布子もしばし瞳を乾かした。杜の都・仙台に、私のふるさとがある。涙が蔵王の山並みをゆがませた。
 

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