【第3部・第2章】 bU
 
 連休が明けるとすぐに、由布子は関根に連れられて初めて上海の土を踏んだ。三日間だけの出張だったが、予想よりもはるかにエネルギッシュな空気は彼女の身と心を引き締め、フランス企業ル・ダルジャンの経営者と交わす会話は、プロジェクトに対する使命感を一層高める結果となった。気持ちが入った時、仕事は義務から生き甲斐に変わる。この三日間で関根は由布子に全幅の信頼をよせてくれるようになり、気の合う上司を持つことがサラリーマンにとっていかばかりの幸福かを、由布子もつくづくと感じ入った。
 上海へ行ってのあれこれを、帰国後彼女は電話で拓に話した。
「事務所はね、ビルの三十四階にあって、海が見えるのよ。社員寮のマンションからは黄浦江(コウホコウ)の夜景がすごく綺麗。不況だの何だの言ったって、一等地に住めるんだなって感動しちゃった。」
「ああ、そうだろな。日本で言や、どこだろ…横浜かな。石川町あたりのマンションってとこだろ? そんなとこに部屋借りれるんだ。」
「うん。家具も全部ついてて、本当に旅行なみの荷物で行けるのね。着る物だけかな、持ってくのは。」
「じゃ今のアパートの道具とかはどうすんの。」
「会社の倉庫で保管しといてくれる。いわゆるトランクルームってやつね。」
「そっか。じゃあ助かんじゃん。」
「そうね。」
 話の切れ目で、二人は少し黙った。どちらも口にしない言葉が、ごつごつした岩のように重さを増していた。別れへのカウントダウンが聞こえる。この砂時計が落ちきったら、ひっくり返す手はどこにも存在しない。さらさらと時のこぼれる音は、おそらく拓にも聞こえているだろう。
「俺、来月んなったらちょっとニューヨーク行ってくるわ。」
 朗らかに彼は言った。知らずに聞けば遊びに行くとしか思えまい。東中の米国拠点は確かニューヨーク支社であるから、多分その関係なのであろう。
「そうなの。あなた英語は大丈夫なんだっけ?」
 由布子が聞くと、
「失敬な奴だな。アイキャンスピークイングリッシュ。アインファインセンキュー、エンジュー?だよ。」
 日本語読みで拓は答え、
「ほんとは今、特訓中。大学受験以来だよこんなに勉強すんの。もう頭ん中はアルファベットで満杯。パントマイムで通じっからいいじゃんっつったのに、頭かてぇ奴ばっか。」
「そうなんだ。大変なのね。」
「いいよな由布子は。英語なんかちょろいもんだろ。」
「ううんそれがね、私は私で、中国語やらなくちゃまずいのよ。」
「ああ、そっか上海だもんな。そうだよな。」
「関根係長がね、中国語は少しわかるんだって。だから教わる代わりに私はフランス語教えてるの。交換授業よ。」
「へー。女同士仲よくやってんだ。よかったなスケベなおっさんじゃなくて。」
「うん。その意味ではすごくラッキーだと思う。逆に甘えがきかないけどね。」
「そうだな。」
 盛り上がるようでいて盛り上がらない会話を、終わりにするのはむしろ難しい。沈黙への怯えが発する言葉たちは、キャッチボールにならずに逸れていく。
「十日過ぎには俺、戻ってこれっと思うから、一回、会おっか。な。」
 ―――――最後に。彼の言わないその言葉を、由布子は心で受け止めた。
「戻ったら電話すんな。忙しいと思うけど、時間とれよ。」
「そうね。待ってる。」
 それが本当のラスト・ディになるだろう。静かにグラスを傾けて、これから歩き出す道について語ったら、多分二人の関係は終わる。
「急用あったら、マンションの方に伝言入れといて。じゃな。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
 由布子は目を閉じた。プツッ、と小さな音がした。ツー、ツーと信号音が続く。こんなに静かに切れるのは、受話器を置いたのではなく指でフックを押さえたからだ。電話を見下ろしている拓の表情が、彼女には見える気がした。
(おやすみ、拓…)
 あと何度、彼に言えるだろう。上海への出発は来月の二十二日。拓が戻るのは十日過ぎ。二週間足らずで砂時計は尽きる。
 普通の、というのはおかしな言い方だが、恋人たちはこういう場合、夜を昼についで逢瀬を重ね、目の前の別れを忘れるが如く、体と心をぶつけあうのだろうか。それともやはり悲しみの予感を畏れためらい、ガラスの器から水をこぼすまいとするように、息さえひそめて見つめあうのだろうか。
(拓はもしかしたら、しばらくニューヨーク支社勤務になるんじゃないのかな。)
 ふと由布子は思った。会長の息子がある日突然あらわれて、あととりでございと大きな顔をしたら社員は反発する。しかも拓は銀行業務など知らない。家を飛び出したあと彼が勉強していたのは、何せフローラル・アートなのだ。修業させるには外国がいい。会長と頭取の考えはそこへ行きはしないか。銀行は今後間違いなくグローバル化していく。来たるべき金融ビッグ・バンのためにも、次期社長には国際感覚を身につけさせたいだろう。二十五歳の若い息子は、それにうってつけという訳だ。だから彼は英語を特訓中。来月の渡米も、その土台づくりのためなのだろう。
(御曹子、なのよねあなたはもう…。)
 左手首のブレスレットに、由布子は語りかけた。東京中央銀行会長の後嗣(こうし)、北原拓也。いずれ一万五千人の社員たちを率いる存在。
(どこかのご令嬢と、結婚するのよねきっと。運転手つきのリムジンで出勤して、夜は政財界の大物と会食。そういう世界の人なんだものねあなたは。私なんかの手の届かないところに行っちゃったのよね。)
 拓が三番町に移ってから、一度だけ由布子は電話をした。出たのは彼が『賄いのおばちゃん』と言った女性らしく、慇懃無礼な声と口調で、
「拓也様は只今お出かけでいらっしゃいます。お言づけは承るよう申しつけられております。どうぞ。」
 そう言われて彼女はしどろもどろになってしまい、またかけますと言って切った。拓也様…そう呼ばれる日常を彼は送っているのだ。拓という陽気な青年はもう、記憶の世界にしか、いない。
『クシュッ!』
 ダンボールの陰から聞こえてきたくしゃみが、由布子の心に甦った。アジアンタムの細かな葉の重なりが動いて、そっとのぞいた二つの瞳。プリムラの鉢に結んでくれたオレンジ色のリボン。咲きがけの雪柳。朝顔の記憶。七福神という名の牡丹。ドレスと同じ色の薔薇のイヤリング。銀座通りにきらめく光、初めて重ねた掌のぬくもり。
 ぱっ、と由布子の視界に、咲き競う花の海がひろがった。彼はいつも花の中にいた。彼との思い出はみな花に飾られている。人生のひとときを彼とともに生きた、この時間こそが私の花畑だったのだ。花に永遠がないように、彼もまた現実世界へ還っていった。夢物語は終わりを告げ、私の手には形見として、光り輝く思い出が残された。
(これで、いいんだね、拓。)
 由布子はブレスレットに唇を寄せた。もう一度あなたに会ったら、そこで本当に幕が下りるのだ。決して泣かずに、微笑みながら、思い出の総仕上げをしよう。
 彼女は電話のそばを離れ、机の上にノートパソコンを置いて電源を入れた。月曜までにまとめなければならない資料がある。無理矢理気持ちを切り替えて、由布子は明け方までキーボードを叩いていた。
 
 
 拓の伝言を聞いたのは翌月五日の深夜であった。こんなに早く帰国できたのかと思いきやそうではなく、
「わり。いろいろ、ごちゃごちゃあって、そっち戻んの十六日になる。ッたくふざけんなだよなヤンキーどもはよ。帰ったら連絡します。そいじゃ。」
 十六日。そう聞いて由布子の胸は重く塞がれた。その日彼女は東京にいない。ランファンスを商品化するために、NK延岡工場と最後の詰めをしなければならない。戻れるのは十八日か十九日で、二十二日には出発だ。こんな慌ただしいタイムチャートの中で、拓とのスケジュールが合うとは思えない。
 運命の女神は私のことを、未練がましいと笑っているのだろうか。ステージにはもう誰もいないのに、私ひとりがアンコールを待っている。音楽はやんでライトも消えた。私の拓はどこにもいない。
 その夜由布子は、夢の中で泣いた。
 

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