【第3部・第2章】 bV
 
 日曜の晩、由布子は高杉に挨拶するため一人ナヴィールを訪れた。閉店間際の店内に客の姿はなく、香川は各テーブルのミニトレイを集め終わるとワゴンを押して厨房に下がった。壁ぎわのテーブルで高杉は、感に堪えたように言った。
「そうか、もう再(さ)来週なんだ。ずいぶん先のことみたいに思ってたけど、あっという間にその日が来ちゃいますねぇ。」
「ええ。この三ケ月は本当に、いつの間に過ぎたんだろうってほど早かったです。ついこの前、肘折から帰ってきた気がするのに。」
「まったくですねぇ。光陰矢の如しか。そうだよ、この店の改修考えたのがちょうど一年前なんだ。全く夢みたいに変わっちまったなぁ。」
 店内を見回す高杉の隣で、幸枝も感慨深そうだった。
「そうよね。同じ店とは思えないくらいだわ。去年の今ごろは毎日毎日閑古鳥が鳴いて、お客さんは多くてせいぜい日に五組だったものね。」
 確かに、と由布子も思い出した。さびれて埃っぽかった前の店に比べれば、この活気は別世界のものである。
「…拓の奴とは、ゆっくり話をしましたか。」
 さらりと高杉は聞いた。うなずきかけて由布子は正直に首を振った。この二人に心を取り繕う必要はない。
「なんでです。そりゃいけませんよ。いや別にね? 何を話せってもんでもないですけど。それにまぁ第三者がああだこうだ口をはさむ筋でもないけど…だけどほら、ねぇ。やっぱりねぇ。」
「いいんです、もう。」
 由布子は笑った。笑うのはさして辛くなかった。
「別に投げやりな意味じゃないですよ。いいんです、わかってますから。拓は遊んでるわけじゃないし、今は真剣にならなきゃいけない時期なんです。だから、これでいいんです。落ち着いたら手紙、書きます。」
「はぁ。…まぁねぇ。由布子さんがそう言うんじゃ俺は何も言えませんが、しかしなんていうかなぁ、あの拓のバカヤロウが。男だったらあいつもちったぁこう…。ああ歯痒いっつうかなんつうか!」
 高杉はテーブルの下で地団駄を踏んだ。幸枝は苦笑して彼をたしなめ、由布子に言った。
「でも時々は帰ってくるんでしょう? その時はホテルなんかじゃなく、うちにお泊まりなさいね。」
「はい、ありがとうございます。」
 ここにも第二のふるさとがある。由布子は改めて、自分を幸せだと思った。
「向こうでは寮か何かなの?」
「いえ寮っていうか、会社で一括借り上げのマンションです。日本ほどのコンビニ天国でもないでしょうから、少し料理覚えないと。」
「あらっ、本場の中華料理ね。いいわねぇ。たくさん覚えてきてね。」
 女二人が世間話をしている横で、じっと腕を組み考えていた高杉は突然、よし、と言って体を起こした。
「由布子先生、上海発つのって二十二日ですよね。それ、成田じゃなくて関空にできませんか。大阪。」
「えっ?」
 意味がわからず由布子が聞き返すと、
「いえね、ちょっと思いついたことがありましてね。この店がナヴィールなんだから、それにふさわしいはなむけをね、由布子先生にと思って。…うんうんそうしようそうしよう。段取りまかせて下さい。先生は荷物だけ持って、そうだな、一日早い二十一日の朝、出かけてきて下さい。大丈夫でしょ? 一日くらい早まっても。」
「ええ、それは平気ですが、何を…。」
「ままま、それはおまかせってことで。ここはひとつ高杉に仕切らせて下さい。大船(おおぶね)・ナヴィールに乗ったつもりで。」
 言い終わると高杉は腰を浮かせ、
「さてっ、仕込みやっちゃうかな。あしたっから何をまぁトチ狂ったかこの店でクリスマスやろうっていう物好きな客が目白押しでしてねぇ。ケーキは不二家かコージーか、コロンバンも捨て難い!」
 ふんふんと鼻歌を歌いながら彼は厨房へ歩いて行った。由布子は首をかしげ、答を求めて幸枝を見たが、
「まったく何考えてるのかしら。自分をキューピッドだと思ってたりしてね。」
 実際はピンときているのかどうか、幸枝はそう言って話題を変えた。
「拓くん…この間、いつだったかしら。ニューヨーク行く前の日に来たわよ。きりっとしたダークスーツ着て、黒いグロリアに乗ってね。」
「拓が…。」
 由布子の目は戸口のあたりをさまよった。カラン、とベルを響かせて、彼が入ってくるような気がした。よ、と軽く片手を上げ、少し肩を揺らしながら。
「なんだか、いっぺんに大人びた感じがしたわよ。スーツがぴったり身について、口調も何も変わってないのに、腰が座ったっていうか、いい男になったわね。」
「そうですか…。」
 嬉しいような誇らしいような、そして同時にどこか寂しい。目を伏せた由布子に幸枝は語った。
「私はね、拓くんの素性も本名も、今回初めて知らされたの。うちの人はもちろん、『新宿で拾った』時から全部知ってたらしいけど、まさかあんな大銀行の会長の息子だったとはね。」
「幸枝さんもご存じなかったんですか。」
「知らなかったわよ。まぁ、もしかしていいところのお坊ちゃんかなとは思ってたけど。…ほら、拓くんて妙に品格があるでしょう。どうも下座には着かせられない感じよね。」
 その通りだ。由布子は納得してうなずいた。
「拓くんのお母様はね、昔北原会長の秘書だったそうよ。おつきあいして、彼を身ごもって、そうしたらものすごい額の口止め料渡されて堕ろしてくれって言われて、悩んだ揚げ句に、一人で産んじゃったんですって。ところが生まれてみたら元気な男の子だったんで、お父様が引き取りたがったのね。会長のお子さんは女の子ばかり三人、喉から手が出るほど跡取りが欲しかったんでしょうけど、お母様にしてみればあまりに勝手な言い種で、許せなかったんじゃないかしら。それで拓くんを手放さなかったらしいのよ。全部高杉から聞いたけど。」
「そうだったんですか…。」
 新宿で高杉に叩きのめされた拓は、やがて心の内をみな、彼に吐露したのであろう。高杉に出会えたのは拓にとって、大きな幸せだったのだ。
「何なのかしらね、血のつながりって。」
 ぽつりと幸枝は言った。
「拓くんは多分、生まれてからずっとそれに翻弄されてきたんだわ。心底嫌になって逃げ出して、忘れようと目をそらしてて…。心のどこかに、これじゃいけないって気はあったと思うけど、足を踏み出す勇気はなかったの。でも彼にそれをさせたのは、由布子さんなのよきっと。」
「私が、ですか?」
 思わず由布子は繰り返した。幸枝は、そうよと言ってうなずき、
「拓くんこそが、あなたに感謝してるんじゃないかしらね。もちろんこれは私の勝手な想像だけど。」
「感謝って…まさか、そんなはずはないです。私は彼に助けてもらってばっかりで。会社のことだって、拓がこうしてくれなかったら、私、今頃どこかのコンビニでアルバイトしてたと思います。彼が私に感謝だなんて、そんなことありえません。」
「どうして?」
 やんわりと聞き返され、由布子はなぜか言葉に詰まった。幸枝は、深くかつどこか厳しいまなざしになって、じっと由布子を見つめている。彼女は初めて自分の身上を幸枝に話す気になった。
「私は…拓と、正反対の環境で育ったんです。私の父は、私が子供の頃に家を出ていきました。愛人と、私にとっては腹違いの妹のところに行ったんです。私が父に対してずっと持ってたわだかまりみたいなものを、拓はわかってくれました。『お前、親父に幸せでいてほしいんだろ』って――――それ聞いた時に私、なんだか救われた気がして…」
 由布子は両の瞼を閉じた。涙が二つ頬を流れた。
「それなのに私は、拓に何ひとつしてあげられなくて。今度のことでも彼は一人でどんなに悩んだかと思うと、何も知らなかった自分が憎らしいくらいです。彼を好きだなんて言いながら、私には何もできない。いつも自分のことだけで精一杯で…。」
 渋谷で拓は、お前を見ていていろいろ考えたという意味のことを言ってくれたが、それとて由布子本人が彼に何かしたという訳ではない。小さく洟をすすった彼女の前に、幸枝はハンカチを差し出した。すみません、と受け取って目頭を押さえた時、
「…あなたたちは本当に、そっくりなのね。」
 微笑を含んだ独白に、由布子は幸枝の顔を見た。幸枝は聖母のように笑い、だがすぐに普段の大らかな表情になった。
「男と女の心には、それほどの違いはないのよ。由布子さんが思い悩んだのとほとんど同じことを、拓くんも考えたんだと私は思うわ。親とのことにちゃんと決着をつけて、自分が親になるとしたらそれからでしょう。彼はそういう考え方をする人じゃない? 彼は多分、由布子さんがお父様に向けている想いも一緒に引き受けるつもりで、北原会長のところに戻ったんだわ。」
 幸枝は言い、由布子の目を見た。
「その意味があなたにはわかるでしょう? 由布子さん。彼の決心はやっぱり、半分はあなたのためなのかも知れないわね。」
 ――――拓。
 ナヴィールを出、駅へ向かう道の途中で、由布子は彼の名を呼んだ。
 父の真実をもはや確かめ得ない私の想いを、あなたは自分のものとして受け止めてくれたのか。私にはできないことをあなたは、自らの心で為そうとしている。父親とは自分にとって何なのか、父にとって自分は何なのか…。私の代わりに私の分まで、あなたはそれを確かめようとしている。この魂の包容をこそ、愛、と呼ぶのだとしたら、私はあなたに愛されていると、そう思っていいのだろうか。愛撫や抱擁や囁きよりも、もっと深い魂の奥拠(おくが)、あなたの泉のほとりに私は、住みかを許されているとでも…。
 彼女は正面の空を見上げた。オリオンが冴々と光っていた。由布子、と呼ぶ拓の声が、彼女の耳にはっきりと聞こえた。わたしのひと。わたしの拓。宇宙でただひとり私だけのこいびと。永遠に色褪せぬ常盤木(ときわぎ)のようなあなたへの想いに支えられて、私はどこまでも行けるだろう。この道がたとえ分かれても。あなたの側にはいられなくても…。
 夜空に舞う大きな蝶を由布子は見た。胸のうちにそれをとらえるように、彼女はコートの衿を握りしめた。
 

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