【第3部・第2章】 bW
 
 続く週の金曜日、新宿ワシントンホテルにて、グッドラック・プロジェクト第一陣に対する盛大な壮行会が行われた。スポンサーは中野社長直々で、林田や関根、渡辺らとともに由布子も、社長からの激励の言葉と、固い握手を受け取った。
「君が菅原さんか。」
 中野の目が少しだけ違う動きをしたのは、東中の一件ゆえに違いない。NKグループ最大の権力者が由布子に向ける笑顔には、淡い親近感さえ漂っていた。自分と同じバックボーンを持つ人間。中野には彼女がそう見えるのかも知れない。
「頑張って下さいよ。新商品ランファンス。期待してますからね。」
「ありがとうございます。精一杯頑張ります。」
 由布子は最敬礼した。中野は一人ずつに言葉をかけたあと、座を気遣ってか草々に中座した。無礼講だといくら言ったとて、オーナー社長同席では社員はくつろげない。そのあたりをよく承知した、もの慣れたふるまいだった。これが『中野流・気配り処世術』などと経済誌に取り上げられるゆえんであろう。
「上に立つものは、かくありたいわね。私は社長のああいうところ尊敬するわ。」
 由布子の隣で盃を傾け、関根は言った。送る者・送られる者合わせて二十五人の酒の席、入れ代わりたち代わりさまざまな社員が関根に酌をしにきたが、それら全てを受けながら彼女の顔色は少しも変わらなかった。
「係長、お酒強いんですね。」
 つくづく感心して由布子が言うと、
「なに言ってんの。菅原さんこそケロッとした顔しちゃって。さてはウワバミだな?」
「いいえ係長には負けます。飲みっぷりも食いっぷりも最高ですよね。」
「そうそう。もう気なんか使い合う間柄じゃないでしょ。菅原さんも好きなだけ、飲んだり食べたりしなさいね。週明けから最後の一山が待ってるわよ。」
「はい、大いに鋭気を養います。」
「ようし、その調子。…それに比べて男どもはまぁ、情けないこと。」
 見てよ、と指さされた方を見やり、由布子は吹き出した。前髪の乱れにも気づかず、眠りこけた八重垣が首を振り回している。
「ガクッ、とか首がはずれちゃったら困るな。人間データサーバとして一緒に行ってもらうんだから。おーい、サトルちゃーん?」
 関根の呼びかけなど全く届いていないらしい。時々かすかに唇を動かすのは、何か夢でも見ているのだろうか。
「寝かしといてあげませんか、何だか可哀相。」
 由布子が言うと関根は同意し、
「そうね。見てるだけで面白いしね。」
 Wユウコは目くばせしあって笑い、座のあちこちで本性をあらわしだしている面々を観察しながら飲み続けた。
「前々から聞こうと思ってたんだけど、…菅原さんて、恋人はいないの。」
 女中が持ってきた新しいお銚子を由布子の前に並べ、関根は聞いた。由布子の顔を斜めに見上げて、
「いない、ってことはないわよね。綺麗だもんね菅原さん。」
「やだ、やめて下さい。係長に言われたんじゃ私なんかとても。」
 多少トウが立ってはいるが関根は美人だ。この美貌が果たして仕事の上でプラスになってきたかマイナスなのかを、是非とも知りたいと由布子は内心思っている。
「まぁまぁ私の話はいいから。今後の参考のために教えといて。つきあってる人はいるの?」
「つきあって、っていうか…両想いの人は、いま――――」
 す、だろうか。いました、だろうか。だが関根はそこで少女のように透き通った笑顔になり、
「『両想い』かぁ…。きれいな言葉ね。菅原さんとその人は、片想いじゃなくて両想いなのね。いいねすごく。大事な人なんだって伝わってくるなぁ。」
「そう、ですか? いい歳して子供みたいじゃありません?」
「そんなことないでしょう。幾つになったって、大事な人の前では小鳥になっちゃうものよ。彼のひとことひとことが胸に刺さってね。ズキンとなったりキュンとしたり。恋愛なんてだいたいが、九割方はネガティブな想いなのに、残りの一割が天にも昇る幸せでね。この一割の幸せを味わえない人生じゃあ、何のために生まれてきたかわかんないと思うな。L'amour est un grand maitre(ラムール・エ・タン・グラン・メートル)…だっけ?」
『恋は偉大な教師である』と、これはモリエールの言葉である。ニヤリと笑う関根に由布子は、幸枝とはまた違った人生キャリアの重みを感じた。水商売の立場から男の酸いも甘いも噛みわけたのが幸枝だとしたら、関根は逆に、男と同じ土俵で真剣を戦わせ、きれいごとでは片づかない組織という迷宮の中を、おだてたり、いなしたり、時には自らの女を利用したりして、今日まで歩いてきたのであろう。関根はスーツの裏を知っている。
「係長は、どうなんですか?」
 肩を寄せるように由布子は尋ねた。
「どうって?」
「だから、恋人とか結婚とか。そういうのは、どうなのかなって。」
 すると関根は驚いた顔をして彼女を見た。まずいことを聞いたかなと思ったがそうではなく、
「やだ知らなかったの? 私、バツイチなのよ。」
「えっ、そうなんですか?」
 今度は由布子が驚いた。初耳である。もっとも関根優子の噂話に花を咲かせる強者など会社中探してもおるまいが。
「そうよ。…もう十年くらい昔だけどね。」
 関根はテーブルについた肘先を自分で抱き、肩越しに由布子を見て言った。
「信じられないだろうけど、私ね、最初は腰かけのつもりで就職したのよ。大学でずっとつきあってた先輩と結婚するつもりだったから、会社は二〜三年で辞める予定だったの。まぁ結婚はね、一応したんだけど。仕事の方が面白くなっちゃって。」
 女だてらにグッドラック・プロジェクトの実務リーダーを任されるだけの関根にも、そんな時代があったのか。好きな男に嫁ぐ日を指折り数える砂糖菓子の夢。
「最初は営業もやったわよ。住宅販売から不動産物件の仕入れまでね。クリスマスの夜に飛び込み訪問したり、布袋(ほてい)様みたいな不動産屋の社長のご機嫌とったり。辛かったけど、でも営業って結果が出ると嬉しいじゃない。報われた気がして。…一軒ねぇ、袋小路の奥に狭小敷地(きょうしょうしきち)の土地持ってるお客さんがいてね? 担保価値がないっていうんで銀行がお金貸してくれないのよ。お客さんとの間に入って、あっちこっち頭下げて回って、ようやく家が建ったのね。で、次のお正月、遊びに来いって言われて行ったの。そしたら床の間の前に座らされて、家族みんなにお辞儀されちゃったんだから。『関根さんのお陰でこんな素敵な家に住めました。孫の代まで大切にします。』…私、もう帰りの道で声上げて泣いちゃった。一生この仕事やっていこうって、その時思ったわね。仕事するって、素晴らしいと思ったの。」
 関根の瞳は、だが急に寂しげに翳った。
「でもね。それが彼には、わかってもらえなかったの。あっちが就職したのは、大学の先輩が始めた小さな運送会社でね。私はいいと思ったのよ。そういうのって夢があっていいじゃない。自分たちの力でどこまでも大きな会社にできるんだものね。でも現実は厳しくて、お給料もボーナスも私の方がはるかにいいわけ。つきあってる間はそれでもよかったんだけど、結婚しちゃうとね。男って見栄っぱりだから。女房の方が稼ぐなんて沽券にかかわるとでも思ったんでしょ、仕事辞めろって言うようになって。もう終わりの頃には顔見るたびに喧嘩してた。あんなにうまくいってた、大好きだった人なのによ。」
 話しながら関根は銚子を差し出した。盃に受け、由布子も返した。
「そのあとで彼、まるで最後通告みたいに、どうしても子供がほしいって言い始めたの。子供持ったら辞めざるをえないじゃない。子育てや家事に彼が協力してくれるとは思えなかったし…彼のサラリーじゃ生活も辛くなる。第一私、どうしても仕事がしたかったのよ。『俺と仕事とどっち取るんだ』、『仕事よ』で空中分解。わずか九カ月の結婚生活でした。お祝いしてくれた友達に、ご祝儀返せよって言われたくらい短かった。」
「返せよって…そんなこと言われても困りますよね。」
 関根に合わせて由布子は笑ったが、胸の中には小さな憤りがあった。愛する人がやりたいと言っている仕事を、どうしてその男は認めてやれないのだろう。
「でもね。今にして思うと。」
 しかし関根は、盃の中に何かが見えるかのように視線を落とし、
「私も悪かったなって思うの。少なくとも、下手だったわね。彼のプライドをもう少し思いやってあげればよかった。もし今だったら、給料天引きでせっせと貯金でもして、目に見える給料は必ず彼より少なくしておくとか、それくらいの気は使えたのになと思う。自分の仕事がうまくいった時も、はしゃぎながら全部話しちゃったもんだけど、それもしないでね。もっともっと彼の話を聞いてあげればよかった。私はきっと自分のことにばかり夢中で、彼の行き場をなくしちゃったのかも知れない。…ま、一言で言えば若すぎたわね何もかも。」
 関根はすっと顔を上げ、振り切るように明るく言った。
「だけど後悔はしてないのよ別に。どんな生き方がいいのかなんて、考えてわかるもんじゃないでしょう。将来のためにとか言うけど、そんなのは人それぞれよ。仕事一筋に生きた女の末期(まつご)はどうなるのか、自分の人生使って実験してみるわ。一人暮らしの部屋で寂しく死んでいくかも知れないし、趣味と実益を兼ねて店でもひらいて、婆さん友達と悠々自適に過ごせるかも知れない。第一それより前に、明日死んじゃう可能性だってあるわけでしょ?」
「そうですね。」
 由布子がうなずくと関根は、
「人生は究極、自分のためにあるのよね。てめぇ一人で勝手に生きるって意味じゃないよ。そんな狭い理解じゃなくて。寂しさも悲しさも全部、自分一人で背負うしかないのよ。それがわかって初めて、相手をきちんと見られるんだと思う。あのひとも一人。私も一人。だからこそ一緒にいるんだってことをね。」
 関根の言葉は座敷の一角を、ふいに小さな宇宙に変えた。あの彗星は漆黒の闇のどこを旅しているのだろう。いまだ出逢えぬ太陽を求め幾億の空を翔(かけ)るうち、涙は氷の結晶となって、きらきらたなびく白い尾に変わる。万物はみな寂しいから引き合う。それを万有引力と呼ぶのだと、詩った詩人は誰だったろう。
(会いたい…。)
 突然、錐で突かれるように胸がうずいた。燃えさかる溶岩と化して恋しさが吹き上げてきた。理性で押さえ納得したつもりでも、頭と心の働きは違う。ましてや心とはそんなに確かなものではない。崇高なる精神愛は、全てでもなければ完璧でもなく、体の芯を焼き焦がす紅蓮の炎に比べれば、脆くてむしろ不自然なものだ。胸の中を荒れ狂う叫びが、喉をついて溢れかけていた。由布子は化粧室へ行くふりで店を出、エレベータでロビーへ下りて外に出た。
 ビル風が悲鳴を上げて吹きつけてきた。衿から袖から体の中心に、無数の氷の槍が差し込まれてくる。風は胸の炎をあおり、突きたてられた心は同じ色の血を流した。
「拓…!」
 風に乗せて由布子は呼んだ。会いたい。あなたに会いたい。十日過ぎには帰ると言ったくせに、嘘つき、薄情者、我儘勝手な大馬鹿野郎。帰ってきなさいよ約束したんだから。私に会いに帰って来なさいよ太平洋を泳いで渡って…!
 上海とニューヨーク。私は事業が軌道に乗るまで、あなたは経営学を実地で身につけるまで、この国には戻ってこられないだろう。電話もメールもあるにはあるが、ぬくもりまでは伝えてくれない。あなたの髪が風に揺れる、音のない音、声にならない溜息。私のひと、私の拓。髪の長い、ぼそぼそと話す、一見物静かに大人びて見えて、はしゃぐとまるで子供のような、強情で言い出したらきかなくて、多分とんでもなく女好き、けれどやはり一点気難しく凝り性の、私の恋人、ただひとりのあなた。
「会いに来てよ、拓…。抱きしめて。離さないって言って。あなたと一緒に、どこまでも連れてって…。」
 由布子は目を閉じた。拓の匂いを思い出そうとした。煙草とレザーと、生きた人間の肌の匂い。車の中で眠っていた私を揺すり起こした手の感触。もう一度目を開けたらここは、RVのシートの上。『拓』としか名乗らない彼はアパートの前でブレーキを踏み、
『んじゃまたな。電話するよ。おやすみ。』
 軽く手を上げ笑いかけてくれる―――――あの夜へ、あの幸せの続きへ、もう一度戻ることができたら。
 ゆっくりと、彼女は目をあいた。赤い星がまたたいてた。都庁の高層灯だった。ビルの窓には点々と明かりがともり、コンクリートの道には車たちが、次々あらわれては走り去っていった。
 

第3部第2章その9へ
インデックスに戻る