【第3部・第2章】 bX
 
 土曜と日曜で由布子は荷造りをし、太子堂のアパートを引き払った。これから少しの間ホテル住まいとなる。着替えや日常品は上海のマンションへ船便で送り、家具類はトランクルーム行きのトラックに乗せた。ガランとした部屋の真ん中に立って、彼女はあたりを見回した。家具がない方が狭く感じる1DKにも、じきに誰かが住むのだろう。
(さよなら。お世話になりました。)
 壁に窓に床に、由布子は告げた。仮の住みかでも家は家、去るには一抹の寂しさがある。当座の衣類を詰めたバッグだけ下げて、彼女は静かにドアを閉めた。
 
 月曜日、由布子は羽田から延岡へ飛び、工場スタッフとの打ち合わせを行った。資材については延岡、設備に関しては宮崎と駆け回り、行く先々で必ず夕食の席が設けられた。グッドラック・プロジェクトの重要性はNKグループの末端企業にまで知れ渡っており、そのため工場の連中は、下へも置かず由布子をもてなしてくれる。好意である以上辞す訳にはいかない。工場長たちの酒にも彼女はつきあった。
 十六日深夜。由布子は博多駅近くのホテルに戻ると、疲れきった体をベッドに投げ出した。長い一日だった。朝十時から夕方六時まで休む間もなく打ち合わせ、兼工場ラインのチェックを行い、夕食はまた料理屋であった。今日は拓の帰国予定日で、彼から電話が入る可能性は高かったのに、連れていかれた店は地下にあり、電波は遮られ届かなかった。
 由布子はベッドに起き上がって、バッグを引き寄せ携帯を取り出した。アンテナを伸ばし留守電のナンバーを押す。昨日もおとといも何も入っていなかったそこには、
「もしもし、由布子? 俺。」
 はっ、と彼女は息を飲んだ。拓の声。待ち焦がれたいとしいひとの声であった。
「無事、帰ってきました。遅くなってごめん。これ聞いたら何時でもいいから連絡下さい。マンションにいます。んじゃ。」
 由布子はベッドサイドの時計を見た。デジタル表示は午前一時三十四分である。何時でもいいと言われても、この時間にかけて大丈夫だろうか。ニューヨークから今日帰ってきた彼は、疲れて眠っているのではないか。迷ったが彼女は通話ボタンを押した。コールして耳に当てた。沈黙。一度宇宙に飛んだ電波が再び地上を目指している。接続音。パラボラアンテナとコンピュータが電波をキャッチし、波動は向かっていく。まっすぐにまっしぐらに、拓の元へ。
 機械音は軽いベルに変わった。彼の部屋で電話が鳴っている。鼓膜がそれをとらえて拓を立ち上がらせる。手が伸びて受話器をつかみ――――だがなかなか彼は出なかった。由布子は不安になってきた。それほど広い部屋なのか、シャワーでも浴びていて聞こえないのか。十七回、十八回…これ以上鳴らすのはいくら何でも。
 そう思った時ベルがやんだ。一瞬由布子は切れたかと思った。息を殺して耳を澄ますと、
「…はい。」
 低くかすれた、かろうじて彼だとわかる声が言った。
「もしもし、拓? どうしたの、大丈夫?」
 由布子は受話器にすがりつかんばかりに問いかけた。
「ああ、わり。寝てた。ごめん。」
 半分寝言のように拓は言った。寂しさも恨みも彼女は一瞬にして忘れた。
「そうよね。私こそごめんね、こんな時間にかけちゃって。明日かけ直そうか? 帰ってきたばっかりで疲れてるんでしょ?」
「いや、いいよ。平気。待ってたんだけどさ、横んなったらいつの間にか寝ちゃってた。」
 唇に煙草をくわえたのが言葉の切れ方でわかった。かすかにライターの音がして、
「ただいま。帰るの遅くなってごめんな。十日とか言っといて、すげぇビハインド。久さんに聞いたけど、今九州にいるんだって?」
「うん、そうなの。延岡、宮崎、長崎と回って今は福岡。明日あさってと打ち合わせして、十九日の午後には東京帰るわ。帰るっていってもホテルだけどね。」
「そっか。もうアパートは出たんだ。」
「うん。一週間だけ品川プリンスにいるの。いるっていうか、荷物置いてる。」
「ふうん。信じらんねぇ会社だなNKって。向こう行くギリギリまでその調子なんだ。普通、赴任前の一週間くらいは休みくれんじゃねぇ? うちだってそれくらいはすんぜ。」
『うち』…。拓の口からするりと出た言葉に、米国での彼が見えるような気がした。ニューヨーク支社は受け入れたのだ、ヤング・プレジデント・キタハラを。
「でも、休めなくて当然なのよ。だって私、新商品開発責任者だもん。」
 わざと自慢そうに彼女は言った。もちろんそれは事実でもある。ランファンスの施工・販売を現実のものにするのは、プランナー由布子の仕事であった。
「ああ、そうだよな。そいじゃしょうがねぇか。けど十九日には、まさかこっち戻れんだろうな。」
 拓は念を押し、
「久さんから聞いてんだろ。二十二日、関空から行けっていうの。二十一日の朝、品プリ迎えに行くわ。そのつもりでいろよ。」
「迎えにって…あなたが?」
「あなたがって、何、嫌な訳?」
「違う違うそうじゃなくて。だって、その…大丈夫なの。」
「何がだよ。」
「だから、仕事とか、予定とか。」
「んなこと心配すんじゃねぇよ。もお久さんリキ入ってっかんね。期待してていいと思うよ。『由布子先生行ってらっしゃいパーティー』。詳しい企画は来てのお楽しみ。あ、ただ、多少あったかいかっこして来いな。」
「あったかい恰好?」
 何が始まるというのか、彼女には想像もつかなかった。幾度か誘導尋問を試みたが、その全てを拓は憎らしいほどあっさりかわし、
「明日も電話して大丈夫かな。」
 甘やかに、囁くように尋ねた。
「それともお前くれる? 俺は…十時には帰ってっと思うけど。」
「私は、そうね、素直にいけば八時か九時。おじさまたちとの夕食なんて、別にどうでもいいから断っちゃうわ。」
「あれっ、なんだよ、おっさんたちにモテモテか? そんなとこでおいたすんなよ。いややるのはいいけど後腐れないようにな。」
「なに言ってるの、あなたじゃあるまいし。」
「…ちょっと待て。聞き捨てなんねぇなそれ。俺が何したよ。」
「あら、もしもし? なんか混線してる? もしもーし!」
「かっわいくね…。いいよ、わかった。遅くにすいません。じゃあこれで失礼します。お疲れ様でした。」
「待って、切らないで!」
 悲鳴に似て由布子は言った。拓が真顔になった気がした。
「なんだよ、冗談だって。どしたんだよ急に。」
 口調は軽かったが声は笑っていなかった。頭を無視して口が発した今の言葉に、由布子は自分でうろたえていた。
「ごめん。…あの、怒ったかなって、思って。」
「怒ってねぇよ馬鹿。怒るわけねぇだろこんなことで。」
「そうだよね。ごめん。ごめんね。」
「だから謝んなって。そういうとこがさ、お前の…」
「お前の、何よ。」
 不機嫌な声を由布子は出してしまった。照れ隠しだとはよくわかっている。
「なんでもない。」
 そう出られると不安になる。彼女は意に反して拓に突っかかった。
「なんでもなくないでしょ。言いかけて黙られるのって気分悪い。言いたいことがあったらちゃんと言って。」
「からむなよそうやって。何でもねぇってば。」
「絡んでなんかいないわよ。どうしてそういうこと言うの。」
「わかった。ひょっとしてお前、驕り酒で酔っぱらってんだろ。おっさんたちにチヤホヤされて、いい気分になっちゃってな。」
 拓の言葉に潜む皮肉の匂いを、由布子は過敏に捉えた。おっさんの扱いは天下一品だよなと言われた気さえして、彼女は首を横に振った。そんなことをなぜ今言うの。あなたが帰ってきてくれるのを、私はどんなに待っていたか。
「やっぱりかけなきゃよかったわね、今夜は。」
 明日であれば多分、こんないじけた気持ちにならなかったのに。その意味を拓は逆に取ったらしい。
「なんだよ、ここに来て喧嘩売んのかお前。」
 違う。違うそうじゃない。あなたのメッセージを聞いた時、涙が出るほど嬉しかった。
「喧嘩売ってんのはどっちよ。迷惑ならかけ直せって言えばいいじゃない。」
「おま…」
 拓は言い、そして黙った。怒らないで。どうか、さっきのように笑って。
「わかったよ、勝手にしろ。遠距離電話ありがとうございました。じゃあな!」
 待って、という間もなく電話はガチャリと切れた。由布子は携帯を放り出し、ベッドの上で自分の頭を叩いた。
 どうして、こういうことになるのだろう。
 恋心に手綱をかける能力を、神は人間にお与えにならなかった。何の予感も脈絡もなく、恋人たちの間に訪れる奇妙なすれちがい。決して制御できないこの摩訶不思議さゆえに、人間は恋の神を赤子の姿に思い描いた。生まれたての赤子の神が気紛れに射かけてよこす、金の矢・銀の矢・鉄の矢に鉛の矢は、かくも下界を混乱させ、時には歴史すら塗りかえてきたのだ。由布子はしばらく枕にうつ伏せ、すべもなく神を恨んだ。
 
 翌日、だが拓は電話をくれた。夜九時半。ホテルで資料をまとめていた由布子は、全身の血が甘く溶けだす幸福感に身を浸しながら、まるで彼の肩にもたれるように、受話器に頬をすりよせた。
「早かったじゃん。今日はお食事会なかったんだ。」
 からかいの口ぶりに彼女は、
「そう。おかげでおじさんたちのオヤジギャグに、無理矢理笑わなくていいから助かってるわ。今日の打合せでね、仕様変更が出ちゃったの。利益の持ち出し分がどれくらいになるか、ちゃんとタイプ別に計算し直さないといけないんだ。」
「へー、難しいことやってんな。俺、馬鹿だからわっかんねぇ。」
 冗談を言ってから拓は、そうだ、と何か思い出し、
「あのなあのな、ビッグニュース。陽介の奴、俺がニューヨーク行ってるうちに彼女できたんだってよ。」
「え、本当? やったじゃない。」
「うん。なんか久さんが言うにはね、内山建設とつきあいのある工務店の、社長の娘なんだって。むこうもまだ高校生で、真面目な交際してるらしい。快挙だよなあいつな。逆タマ逆タマ。」
「へぇ…。きっと初々しいカップルなんでしょうねぇ。」
 内山建設で仕事にうちこむ陽介は、誰が見ても好感の持てる若手職人に成長しているだろう。そんな彼の隣で微笑む制服姿の少女は、さながら青春映画のワンシーンだ。
「二十一日は陽介も来っかんな。こないだの肘折メンバー勢揃い。また大騒ぎになんだろな。こえー。」
「気になるなあ…。ねぇ、何があるのよ二十一日って。」
「おっしえねぇよ。これバラしたら、俺また久さんにぶちのめされんもん。あとたった四日じゃん。楽しみにしてろよ。」
「そうね…。」
 拓はさらりと言ってのけるが、あと四日もう四日。砂時計の残りは本当にわずかだ。
「あした、またかけるな。」
 これ以上望めないほど優しい声で拓は言った。目の前に彼がいたら由布子とて、耐えきれずに抱きついたかもしれない。おやすみなさいと通話を切り、ディスプレイを見て彼女は驚いた。一時間半。せいぜい十五分にしか感じなかった。よくもってくれたなと携帯をねぎらい、由布子は急いで充電器をコンセントにつないだ。赤いランプが点灯して、手のひらにすっぽりおさまる文明の利器に、魔法のエネルギーが充填され始めた。

 翌日も、さらに東京へ戻ってからも、二人は夜ごとに長電話をした。最後になって夢のように穏やかな時間が、臆病な恋人たちの上を流れていた。
 

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