【第3部・第2章】 bP0
 
 十二月二十一日、日曜日。由布子はホテルをチェックアウトした。荷物は小型の旅行バッグだけで、他のものは航空便にしフロントに発送を依頼した。風もなくよく晴れた日だったが、暖かくしろとの拓の忠告に従って、コットンパンツにセーターを着、ウールジャケットを羽織った。念のためマフラーもバッグに入れて、彼女は待ち合わせのティールームへ向かった。
 拓に会うのは、実に一ケ月半ぶりだった。渋谷で別れて以来である。おそらくは髪を切り、ダークスーツに身を固めているだろう彼を想像して、由布子はティールームの入口に立った。見回すまでもなく目が合った。拓は正面のテーブルにいた。
「よ。」
 軽く片手を上げて合図する彼の頬を、長いままの絹糸の髪が縁どっていた。ざっくりした感じのグレイのセーターにGパン、左耳にはシルバーのピアスが光っている。
「なに。何かついてる?」
 向かいに座った由布子に拓は聞いた。
「ううん、なんにも。ちょっと意外だったの。」
「何がだよ。」
「その髪…」
「これ?」
 彼は毛先をつまんでみせた。ウェイトレスがメニューを持ってきた。カフェオレ、とだけ注文した由布子に、
「なんか軽く食っといた方がいいぞ。軽く、な。」
 彼の台詞はこのあとの予定と関係があるのかも知れない。彼女はクロワッサンとサラダのセットをオーダーした。
「あなたは食べなくていいの?」
「ん、俺は食ってきた。朝は食わされんの、賄いのおばちゃんに。」
 髪をかきあげ首を振る仕種も、以前と全く変わらない。テーブル脇の窓から差し込む光が、小さな丸いビーズとなって毛先にまつわり戯れている。
「このアタマのせいでさ。」
 ウェイトレスが下がると彼は話を戻した。
「早くも親父とやりあった。切れ、つーから、ぜってー切んねぇって言って、とうとう押しきったね。その代わり仕事中は縛ってっけどな。」
「ふうん。」
 北原会長もよく許したなと、由布子は正直感心した。自分の元に戻って来たこの息子が、よほど可愛いのかも知れない。
「なんだよ。…まさか、切った方がいいって?」
 しげしげと見つめてしまった彼女は慌てて首を振り、
「ううん、その方がいい。その方があなたらしいと思う。」
「だよな。」
 嬉しそうに拓は笑った。ヘアスタイルなどどうであっても彼は魅力的だろうけれど、きりっと束ねられていた髪が、ほどかれてぱっと肩に散り、醸し出す雰囲気が一瞬にして変わるさまは、やはり彼ならではの独特の輝きであった。
 時間はあるから大丈夫と言われ、彼女はゆっくり朝食を食べた。店を出、車寄せに立って彼の車を待つ。現れたのはこれもまた、アイボリーのシトロエン・パラスであった。
「高杉さんたちはどこにいるの?」
 走り出した助手席で由布子が聞くと、
「これから行くとこ。そこで落ち合うことになってる。」
「まだ教えてくれないつもり? いったい何なのよ今日は。」
「そう急(せ)くなって。じきにわかっから。」
 拓は片手でラジオのスイッチを入れた。今まで音楽をかけることはあったがラジオというのは初めてである。しかも合わせたのはNHKで、ニュースのあとには天気予報が流れてきた。どうも様子が変である。由布子は頭の中に東京の地図を広げ、この車がどこへ向かっているのか推理してみた。
(そもそもなんで関空なんだろ? もしかしてこのまま大阪までドライブとか…。高杉さんたちは大阪で待ってて、今夜はどこかでパーティー開いてくれる?)
 いやそれならわざわざ大阪へ繰り出さなくとも、東京でパーティーをして明日羽田を発てば済む。さらに段々わかってきたのは、シトロエンが向かっているのは西ではなく、南…つまり海の方だということだった。やがて街なみは見覚えのあるものに変わった。港区芝浦。東京港から潮風が吹き込む街。
「ね、拓。まさか、これって…」
 首都高をくぐった時由布子は聞いた。拓は正面を向いたまま笑い、
「もうわかったな。そ。これが久さんからのプレゼント。ナヴィールを作ってくれた由布子をね、送り出すなら船だろうって。」
 彼はハンドルを回し駐車場に入った。入口のところで誰か手を振っている…と見たのは泉であった。
「おま、何サボッてんだよこんなとこで!」
 窓をあけて拓が言うと泉は、
「サボッてませんよ。荷物多いはずだから行ってやれって久さんに言われたんです。で、管理事務所の人が、車停めんなら多分ここだろうって言うんで、待ってました。」
「もう着いてんの、豪華客船ナヴィールは。」
「ええ、さっき。なかなかいいですよ、渋くって。」
「やな予感すんな。」
 拓は苦笑し、手近なスペースに車を停めた。由布子は外に出た。さすがに浜風は冷たかった。
「んじゃこれ、持ってけ。」
 トランクから大きな紙袋を三つおろして、拓は二つを泉に渡し、自分はもう一つの袋と由布子のバッグとを持った。
「いいわよ、私、自分で持つわ。」
 取ろうとしたが彼は腕を引き、
「いいって。たいして重くねぇよ。」
「そうですよ由布子さん。主役は手ぶら手ぶら。」
 拓の向こうで泉も言った。紙袋はみなハンズのもので、察するに中身はパーティーグッズである。事前にこれだけのものを揃えるということは、彼女の知らないところで拓と高杉は綿密な打合せをしてあるに違いなかった。
「あ、見えた見えた。あれですよ先輩、ほら。あそこに停まってる。」
 視界を遮るもののない竹芝桟橋の一隅に、数人の人影と一艘のクルーザーが見えた。おーいと泉が手を振ると、真っ先に気づいて振り返した大柄な青年は香川であった。ぴょんぴょん飛び跳ねながら両腕をぐるぐる回しているのは陽介で、他には高杉と幸枝と、それに初めて会う男が三人いた。二人は作業着、もう一人はスーツを着ていた。
「よお由布子先生、いらっしゃいまし。早かったですね。ご苦労だった、拓!」
「…な、久さん。豪華客船ナヴィール号ってのは、これかよ。」
 拓は、波の揺れとともに上下している船を指さして言った。フェリーを五分の一に縮めたようなそのクルーザーは、漁船よりは大きく設備もよさそうだったけれど、ヨットに比べれば現実的で生活臭があり、船腹にしるされた「第三うしお丸」の文字に、由布子は思わず笑ってしまった。高杉は拓に向かって、
「なにが不満だ、このトーシローめが。見た目はともかくこいつはな、密輸船並みの高速エンジン積んでるんだぞ。」
「何だよ密輸船なみってのは。第一よく知んねぇけど、こんなとこに船停めていいのかよ。」
 すぐうしろの波の上を、プワァと汽笛を響かせて隅田川下りの観光船が走っていく。まさしくこの場所は海上駐車違反と言えそうだが、
「なぁに責任者に話は通ってる安心しろ。ああ、こちら管理事務局長の江木さんだ。」
 高杉に紹介されて江木は礼をした。着ているスーツが軍服に見えるほど、体格のいい大男であった。自分の倍はありそうな長身を見上げて高杉は、
「手間かけさせて悪かったな。どっかが何か文句つけてきたら、俺が出るから言ってこいよ。」
「いえいえいえ、久さんのお声とあっちゃあ動かない訳にいきません。これしきのことじゃ、ご恩返しにもなりませんです。」
「まぁ昔のことはな、もうどうでもいいだろ。なぁ。」
 高杉に話を振られ、作業着の男たちも体を二つ折りにした。拓と由布子は顔を見合わせた。船乗りの世界は上下関係が厳しいと聞き知ってはいても、三人が示している態度はまるで上官に接する兵隊であった。江木は高杉に言った。
「関空の方にも話はつけときましたので。向こうではセンター長の糸原がお出迎えすると思います。」
「ああそう、糸原が。元気でやってんのかあいつ。」
「はい。息子に船譲って、のんびりやってるらしいです。久さんにお会いできると知って喜んでました。」
「そうか。みんな達者で、何よりだな。」
 高杉は一瞬だけ東京湾を見はるかしたあとで、さて、と一つ手を叩いた。
「ではそろそろ出発しますかね。太平洋大クルーズツアー、いよいよスタートといきましょう!」
「第三うしお丸で、な。」
「馬鹿だな拓。『うしお丸』って書いてナヴィールって読むんだ、よく覚えとけ。」
「最後のルしか合ってねぇじゃねぇかよ。」
「ああうるさいうるさい。ほれ陽介! お前身軽なんだ先に行け。じゃあな江木。帰りにまた声かけるから。」
「航海、つつがなくご無事で。」
「おうさ!」
 高杉たちがやりとりしている傍らで、泉と拓もひそひそと、
「じゃあ先輩、車、戻しときますんでキーを…」
「ああ、わり、頼むな。ナヴィールの前、置いといてくれればいいから。そんで鍵はレジんとこにな。」
「わかりました。」
 シトロエンのキーを泉は受け取った。彼の隣で香川は、心なしかもじもじしていたが、
「あの、由布子さん。」
 行こうとした彼女を呼び止めた。由布子が彼を見ると、
「これ…あの、平凡なんですけど僕らから。」
 ずい、と差し出されたのは、赤いリボンのかかった平たい箱だった。
「私に?」
 当惑しかけた由布子の背を、拓は軽く押した。受け取ってやれという意味であろう。
「ありがと…。ごめんね、私、何も用意しなかった。」
「いえっ、いいんですそんなのは! お世話になりましたっていう、ほんのお礼です!」
 香川は言い、大きな図体で泉の後ろに下がった。何だよ、いいからと二人は譲り合い、代表するように泉が言った。
「上海で、頑張って下さい。体に気をつけて。お休みとか帰ってきたら、必ずナヴィール来て下さいね。俺、大学うかってもバイト続けますから。」
「ああ、そうね。泉くんはもうじき再チャレンジなんだ。」
「はい。今度こそ頑張ります。」
 彼の背後で香川は両手をメガホンにして口に当て、
「落ちろー、落ちろー、落っこっちまえー!」
「うるせーよお前は!」
 そんなやりとりに由布子は笑った。ナヴィールという店が結びつけた、不思議な人間の縁(えにし)だった。
 

第3部第2章その11へ
インデックスに戻る