【第3部・第2章】 bP1
 
「由布子先生! 拓ー! そろそろ出ますよー!」
 デッキから高杉の声がした。彼女は二人に言った。
「ありがとう。帰ってきた時は必ず行くね。ほんとにありがとう。泉くんも香川くんも、元気で。」
 香川・泉・江木の三人に見送られて、うしお丸、いやル・ナヴィール号は桟橋を離れた。作業着の男、深川と桜井が操舵をしてくれた。高杉は由布子たち四人に、喜々として船内の説明をした。
「えー、こちらがいわゆるメインリビングとなっておりまして、デッキへはそちらから出られます。冬の海ですからくれぐれも落っこちないように注意して下さい。救命胴衣なんかはそこのボックスに十人分入ってますので足りるでしょう。で、そちらが…」
 せっかくの解説を無視して、陽介と拓はバタバタと階段をかけ昇りデッキへ出ていってしまった。船室のぐるりはガラスなので外はよく見える。
「おい! おめぇらちゃんと聞け!」
 高杉の声などどこ吹く風で、二人は手すりから身をのりだし、
「すっげー! にいさんほら、ほらあれベイブリッジだぁ! すっげー!」
「うわ、あそこ羽田だろ。離着陸、ばっちり見えんじゃん!」
 あれは何だ、向こうは何だとデッキを走り回っている二人に、高杉は腕を組み溜息をついて、
「だめだありゃ。ガキ。子供。そこらの洟タレ小僧と変わりゃせん。放っときましょう由布子先生。えー、それでは最上階…ったってこのすぐ上ですが、キャビンの方にご案内します。」
 狭い階段を昇ると、左右にドアが並んでいた。高杉は一つずつ指さしながら、
「こっちのキャビン二つは小さいから、由布子先生と、それから幸枝と一つずつ使っていいぞ。で、そっちの大きい方はヤロウ用。洗面所とトイレはそこの手前っかたのドアです。」
 由布子は自分用と言われたキャビンの扉を開けてみた。中にあるのはベッドと小テーブルだけで、ビジネスホテルのシングルルームをさらに細長くした感じだった。だがいかに狭かろうとれっきとした船室(キャビン)、枕元の窓からは渺々(びょうびょう)たる大海原を一眸のもとに見渡すことができた。
 操舵室も高杉は見せてくれた。先程彼が言っていたように、外観のイメージとは違って装置のほとんどはコンピュータ制御になっており、密輸船なみのスピードが出せるというのも、あながち誇張ではないかも知れなかった。デッキにいた子供二人も室内に入ってきて、
「かぁっけー…。船ってこうやって運転するんだぁ。」
 陽介はしきりに桜井の手元をのぞきこみ、
「ねぇねぇ、久さんもこんなの動かせんのぉ?」
 尋ねた目が輝いている。高杉は自慢げに胸を反らした。
「あったぼーだ。見損なうなよ。俺はこう見えてもれっきとした海技士なんだからな。」
「カイギシって何?」
「海のな、技士って書くんだよ。言ってみりゃ海の技術者か。」
「ふーん。調理師とか美容師みたいなもんだ。」
「…あのな…そりゃまあ美容師も確かに国家資格だけどな、なんていうかその、スケールがな…」
 高杉のぼやきを聞き捨てて、陽介の目は操舵に戻ってしまった。拓は拓で深川のそばを離れず、一海里は1,852メートルで、時速一海里を一ノットという、などの基礎知識を教わりつつ、計器類を食い入るように見ている。以前のようなアルバイター生活であったなら、「俺、船の免許取るわ」と言い出すに違いないと由布子は思った。
「おい。おい、そこの拓。」
 たまりかねたらしく高杉は人差指で彼の肩をつつき、
「お前さ、今回のクルーズの主旨がわかってないと違いますか。よい子の一日船長さんじゃないんだから、ちったあ大人になりなさいよ。」
「…そっか。」
 拓は体を起こし、由布子の方を見て肩をすくめた。そんなことは別に構わない。何かに熱中している時の彼が私は一番好きなのだ。
「よし。そいじゃ、いろいろ支度すっか。」
 深川にどうもと礼を言って拓はパネルの前を離れ、
「ほら陽介、手乗り文鳥みたいに桜井さんの手元チョロチョロしてんじゃねぇよ、来い。」
 陽介の衿首をぐいと引っぱって一緒に操舵室を出ていった。幸枝が続き、高杉は桜井たちに後は頼むと告げ、
「由布子先生はちょっとの間ブラブラしてて下さいね。船内どこでも、もうご自由にどうぞ。」
「じゃあ、少し…ここにいていいですか。」
 彼女は尋ねた。電車にせよ船にせよ、それを動かしているところを見るのは楽しい。
「ああどうぞどうぞ。確かにここにいると何時間でも飽きませんからね。でも支度できたら来て下さいよ。」
 高杉が出ていくと、由布子は桜井たちの邪魔にならないよう窓べりに身をよせて大海原を見渡した。海の冬は、街に一足遅れて訪れると聞いたことがある。夏の間ずっと太陽に暖められていた水は、陸地よりも長いことその熱を抱いているのだ。しかしすでに十二月も終わりに近い。海は冷たそうな群青色に冴えわたっていた。
「お姉さんは上海へ行かれるんですってね。」
「え?」
 いきなり話しかけられ、由布子は振り返った。深川がこちらを見ている。赤銅色の顔には幾筋もの笑い皺があった。
「あそこは食い物がうまいですからね。日本以外じゃあなんたって上海が世界一だろうな。」
「ふうん、そうなんですか。でもやっぱり、日本が一番なんですね。」
 急に親しみを覚えて彼女が言うと桜井も、
「そりゃそうですわ。一年二年と外国回ってやっと日本に帰ってくるとね、アジの干物にキュウリの漬物で、メシにこう味噌汁ぶっかけて食うのがたまりませんわ。あれがもう、どんな料理よりうまくてねぇ。」
「ああ、そうかも知れませんね。わかります。」
 由布子があいづちを打つと桜井は続けた。
「上海で美味いのはね、ポンショイって店。日本で言や浅草みたいな下町にある店ですけど、ここは是非行ってみて下さい。現地の奴ならたいてい知ってますよ。観光客はまず行かない穴場中の穴場。」
 すると深川は首をかしげ、
「いや…ちょっとあの界隈はお姉さんには怖いんじゃないかな。上海ってとこはアメリカとも違って、アジアならではの怖さがあるから。」
「そりゃもちろん一人で行けたぁ言ってないさ。男四〜五人連れてきゃ大丈夫だろ。仕事でいろいろ知り合いもできるでしょうし、そうしたら行ってみて下さい。」
「ええ、是非。『ポンショイ』ですね。覚えとこ。」
 向こうで関根に教えてやったら、行こうよと言うに違いない。ボディーガードはNKの男子社員たちだが、八重垣には無理な役どころであろう。
「でも外国行くってのは、いいことですよ。家族おいて何年もだからいろいろきついけど、離れてみてね、初めてわかることは多いです。ブッカケ飯なんかその最たるもので。日本の味噌汁がこんなに美味いなんて、毎朝食ってるとわかんなくなっちゃいますがね。」
 海の男は笑いながら、さもないことのように真実を語った。外国(とつくに)の地に立って恋うたとき日本は、思いもよらぬ素顔をあらわしてくれるのかも知れない。彼女は船尾を見やった。冬晴れの空のもと、メトロポリスがぐんぐん遠ざかっていく。私がいなくなったとて、あの街は何も変わるまい。昨日と同じ今日が、明日が、終わりなく繰り返されていくのだ。
 寂しくはなかった。むしろ不思議な頼もしさを感じた。私が戻ってくる日まで、元気でいろよTokyo-city。窓の外を水鳥がかすめ、街の方へと飛び去っていった。
 

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