【第3部・第2章】 bP3
 
 たこ焼きをさかなにあれこれの話題で盛り上がり、やがて高杉曰く第二部へ向けて、宴はしばし中断された。
 高杉夫妻はディナーの調理のためキッチンにこもり、拓と陽介がヘルプに回った。由布子は、もう一度わざわざ操舵室へ行くのも桜井たちに悪い気がして、キャビンのベッドに腹這いになり、窓から海を眺めていた。船はどのあたりを航海しているのか、穏やかな海面は午後の陽をはねかえして光り、海鳥の細い羽根が時おり視界を斜めによぎった。スクリューが魚を巻き上げるため、船は鳥たちにとって好ましいものらしく、アホウドリなどは一日中ついてくることもあるという。そんなに長いこと飛び続けて、鳥は疲れたりしないのだろうか…。そう思った時ドアがノックされた。顔を出したのは陽介で、
「由布子さん、もしよかったらデッキでコーヒー飲みませんか。そんなに寒くなくて、気持ちいいですよ。」
 すぐ行くと答え、彼女はジャケットを着て階段を下りた。重いドアを押してデッキに出ると、
「こっちこっち。」
 船尾から陽介が手招いた。ロープに結ばれた救命用らしきタイヤが幾つも積み上げられている上へ、二人は並んで座った。船室部分が風を防いでくれるため、本当にそれほど寒くない。ゆったりとうねる波間には白く長く、船の轍がしるされていた。
「はいどうぞ。インスタントですけどね。」
 渡されたプラスチックのカップを口に運んで、由布子は言った。
「…あら、拓のドリップよりおいしいわね、これ。」
 陽介は嬉しそうに笑い、
「でしょおでしょお! 俺ね、サイフォンとかドリップは駄目だけど、インスタントだけは自信あんですよ。粉もミルクもケチんないでドバッと入れんの。そうすっとこういう味になるんですよ。」
「へえ…。」
「にいさんのコーヒー、悪いけどうまくねぇもん。バイトの泉がいちばんマシかな。香川も下手だし。」
 陽介はふうふう吹いて一口すすり、言った。
「俺、こんど四月になったら、定時制の高校行くことにしたんです。」
「え、そうなの?」
 初めて聞く話だった。知っていたら高杉が教えてくれそうなものだが、
「由布子さんに最初に言おうと思って、まだ誰にも言ってないんですけどね。内山社長とか会社の先輩とかが、高校は行っといた方がいいって勧めてくれて。」
「そう、内山社長が…。」
 工務店の社長らしく、彼は親分肌で面倒見がいい。世の中、学歴ではないというものの、やはり高校にはそれなりの意味がある。
「かあちゃんに言ったらやっぱ賛成してくれて…。でも入学金だけ出してもらったら、あとは自分でやろうと思うんです。来年は兄貴に子供が生まれるし、工場だって今は楽じゃないみたいだし、俺、ちゃんと働いてるんだから、学費くらい自分で出そうって。」
「そうね。それはいいかもね。陽介さんならできるわ。大丈夫よ。」
 一度ドロップアウトしかけた彼は、十代とは思えないしっかりした考えを持てるようになっている。輝かしい初恋のときめきも、自覚を強める助けをしたのかも知れない。
「そいで、高校出たら、だんだんと資格取ろうと思うんです。施工技士に、あとは建築士も。にいさんが持ってた本とか、俺いろいろ貰ったから。」
 高階のラカデミィで使うはずだった教材であろう。進みたかった道を拓は、いったん陽介に引き継いだのだ。
「由布子さんて、いつ日本に帰ってこれるんですか。」
 カップを両手で包んで彼は聞いた。由布子は水平線に目をやり、
「そうね…とりあえずプロジェクトの任期は二年なんだけど、でも一期じゃ無理だろうなぁ。土台を作るだけで三年は軽くかかるだろうから、最低でも、二期…。」
「四年、ですか。」
「短ければね。長かったら、どうだろう。二十年くらい?」
「そんなにぃ?」
 悲痛な声を上げた陽介に、彼女は笑って首を振った。
「それはちょっとオーバーだったわね。でも、十年…は、あるかも知れない。」
「十年、かぁ…」
 つぶやいて彼はうつむいた。細い体がジャケットの中に埋まってしまったように見えた。が彼はスッと首を伸ばすと、由布子の方に向き直って言った。
「でも、必ず、戻ってきて下さいね、にいさんのとこへ。」
「拓の?」
 彼女も陽介の顔を見た。きゅっと上がった切れ長の目に、かつてないほど大人びた色が浮かんでいる。
「にいさんもこれから忙しくなるし、もともと筆無精で字もきったねぇから、手紙なんか出さない人だと思いますけど…。でも由布子さん、寂しいからって上海で浮気なんかしないで下さいよ。」
「浮気って、だって…。」
 今日までの時間を由布子は、拓との別れを容認するための準備期間として使ってきた。もちろん拓もそのつもりに違いないと思っていたのだが。
「にいさんて、あの顔で根は純情なんです。今日だって久さんは、なるべくなるべくにいさんと由布子さんを二人きりにしてやろうと思ってんのに、照れ臭いんだか何なんだか、今も下でじゃがいもなんか剥いてんですよね。ッたく馬鹿じゃねーのとか俺、思っちゃって。」
 どちらが年上かわからないことを言い、陽介は大袈裟に溜息をついた。
「人には説教するくせに、自分のこととなるとてんで憶病なんだから…。だからにいさんには、由布子さんみたいな理解のあるしっかりした人がついててあげないと、ちょっと老後とか、ヤバいと思うんですよ。」
 由布子は思わず吹き出した。拓の老後を、たとえ身内でも今から心配してはいまい。
「で、俺、思ったんです。これは由布子さんにお願いしとくしかないなって。由布子さんにだったら俺、安心してにいさんのこと任せられるし。」
「いえ、陽介さん、そんな…」
 曖昧に笑った彼女に、陽介は真剣な表情で聞いた。
「由布子さん、にいさんのこと嫌いです?」
 彼女は首を大きく横に振った。それでやっと陽介は顔をほころばせ、
「じゃあ、約束して下さいね。四年後でも十年後でもいいから、絶対にいさんのとこ帰ってくるって。あんまり手紙とか出せなくても、浮気なんかしないって。まぁ、もしどうしても寂しかったら言って下さい。そん時は俺が代わりになってあげますから。」
 陽介の目を由布子は覗きこんだ。これとそっくり同じ言葉を、私は拓からも聞いている。新世界の帰り道、雪の降るあの公園通りで。
「なんだか拓に似てきたわね、陽介さん。」
 彼女は言い、一人笑った。陽介には意味がわからなかろうが、由布子は説明しなかった。陽介はまるきり拓の弟になってしまっている。人の想いをつなぐのは、血ではなく心なのかも知れない。
 

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