【第3部・第2章】 bP4
 
 雲の褥(しとね)に太陽が赤い楕円となって身を埋(うず)め始めた頃、ナヴィールの船内ではクラッカーがはじけ、紙吹雪とテープが由布子に降り注いだ。司会進行役の高杉は円錐形のクリスマス・キャップをかぶって立ち上がり、
「えー、それでは、ただ今から本当の『由布子先生行ってらっしゃいパーティー』を始めます。なにぶんにも船の中なので料理は大したことございませんが、酒はふんだんにご用意いたしましたので、明日の朝ブッ倒れて起きられないと、それだけはないよう注意して頂いて、トコトン飲んで食べて大騒ぎして下さい。なぁに見ての通り回りは海です。いくら騒いでもどこからも文句は出ません。酔っぱらって飛び込んだら命の保証はいたしませんけれども、海上保安庁が何とかしてくれるでしょう。それでは夜がふけてのち明けるまで、楽しく参りたいと思いまーす!」
 いぇーい、とかけ声が上がり拍手がとどろいた。まずはシャンパンで、ただし陽介のみはジンジャーエールで乾杯する。テーブルの上には、大したことがないなどととんでもない、よくこれだけ作れたなと思うほどの豪華な料理が並べられていた。
 ひとまず腹の方が一段落すると、スペシャルイベントその一として『ご指名カラオケ大会』が始まった。
 ルールは、まず五人が三曲ずつ、誰かに歌ってほしい曲を紙に書いて箱の中に入れる。十五枚集まったらよく混ぜてテーブルの上に置き、最初はジャンケンで勝った者が、次からは歌い終えた者が誰か一人を指名する。指された者は箱の中から一枚引いて、そこに書かれた曲を歌うのである。首尾よく歌えればオーケイだが、歌えなかった場合にはペナルティが待っている。ジャンケンの勝者は幸枝で、彼女は拓を指名した。拍手を受けて彼が引いた曲は、
「『すみれセプテンバーラブ』…。やっべ、サビしかわかんねぇって!」
 ぼやいたくせにメロディーが始まると、彼はなんと振りつきで完璧に歌ってみせた。拓の歌声を、もちろん由布子は初めて聴いた。艶やかで伸びのあるテノールだった。
「次、陽介っ!」
 ローストチキンにかぶりついていた彼は、勘弁してくれよぉと言いつつ一枚引き、
「『リンゴ追分』…」
 一同の爆笑の中、石のように固まってしまった。有名な曲であるゆえとりあえず口は動かせても、
「だめっ! 今のは失格! お前自分で作曲してたっ!」
 指名者の拓の落第宣言を受けて、高杉はペナルティを言い渡した。それは、
「外のデッキをぐるっと一周、うさぎ跳びせい!」
「なんだよそれぇ!」
 こういった調子で船内は盛り上がり、やがて、幸枝が操舵室に差し入れた料理の礼を言いにきた桜井が飛び入りでマイクを持ち、みごとなファルセットで歌った玄人はだしの『天城越え』に大喝采。気をよくした彼が『珍島物語』『襟裳岬』と披露すると、聞きつけてきた深川も黙ってはおらず、オペラ歌手のような幅のあるバリトンで『マイウェイ』『昴』『WINTER SONG』を続けて歌って、一同の度肝を抜いた。
 二人の操舵者が交互にアンコールに応えている間、ぶつぶつ言いながら船を進めていたのは、十年ぶりに舵輪を握った高杉であったのだけれども。
 
 カラオケ大会のあとはスペシャルイベントその二、かくし芸大会が開催された。こちらでは由布子は観客に徹していられる。
「じゃ、まず俺からってことで…」
 最初に立ち上がったのは陽介だった。舞台に見立てたテーブル前の空間へ歩みでると、さんざんうさぎ跳びをさせられた足首を彼はくるくる回した。
「何やんだよ陽介!」
 先程から笑いづめの拓が尋ねる。
「ストリートダンス…。ま、ブレイクダンスみたいなもんですかね。」
「へぇ。お前そんなのできんの。」
 注目の中流れ始めた曲はローリングストーンズ・メドレー。たたっ、とステップを踏み出した彼の鮮やかなダンスを、四人は半ば唖然として見守った。陽介の脚がこんなに長いとは、多分誰も知らなかったろう。
「すっごい陽介さん! もう最高!」
 踊り終えた彼を由布子は称賛した。彼は額を汗びっしょりにして席に戻り、ウーロン茶を一気に干した。
「かっけーじゃんお前! 何で今まで隠してたんだよ!」
 拓は彼の頭を抱きかかえ、くしゃくしゃに髪を撫でた。陽介はけらけら笑い、
「隠してないですよぉ。普通いきなり踊り出さないでしょう、こんな時でもなきゃあ! それよりにいさん次! ほらにいさんの番!」
「なに、俺?」
「よぉし、拓! 見せ場だぞ、行けっ!」
 拍手の中彼は立ち上がり、壁ぎわの床の上から、いつそんなものを隠しておいたのか、竹竿に似た長い棒を二本持ってきた。
「なんだそら。おい。何やる気だよ。」
 高杉が聞くと彼は涼しげな顔で、
「皿回し。」
「皿回しィ?」
「そ。日本の伝統的お座敷芸じゃん。紙切りとかもいいかなーと思ったんだけど、あれはいまいち派手さに欠けるよな。…幸枝さん悪い、なんか割ってもいい皿、ない。」
「割ってもいい皿って、それじゃ皿回しじゃなくて皿落としだろう!」
「いやほら、いちおう念のため?」
 幸枝に渡された丸皿を拓は、裏・表ひっくり返して調べてから由布子に言った。
「久さんね、このクルーズの企画のことであっちまで電話よこしてさ、人が会議中だってのに呼び出して、『これこれこういうことやるから、お前も何かかくし芸考えてこい』って、これだかんな。俺『はああ?』とかなって、しょうがねぇからあっちのホテルで、毎晩練習したんだぜ皿回し。」
「あっち、ってニューヨーク? 国際電話で?」
「そうそう。『彼の人生にかかわるきわめて重要なことです』とか言って無理矢理電話つながしてんの。あとで俺ヤンキーの秘書に、きわめて重要なことって何なんだって聞かれて、もう大変だったぜ。まさか皿回しですとは言えねぇじゃん。ノー・プロブレム、ノー・プロブレムって、わからすのにすっげ苦労した。ほんっと人騒がせなオヤジだよ。」
「ああもう前説(マエセツ)はいいから早くやれ早く! それではエントリーs番、拓の皿回しとござーい!」
「なんかマヌケだぞその言い方。」
彼はフロアに正座し、細い棒の先近くを持って先端に糸底のへりをあてがった。四人が固唾を飲んで見守る中、彼はぺろりと唇を舐め、
「回れっ!」
 シュッ、と鋭く手を動かした。皿は独楽(こま)に似た動きで回り始めた。回転が速まると徐々にバランスがとれてくる。拓は棒の持ち位置を下へ下へとずらしていった。頭上およそ二メートルの位置で皿は見事に回転している。
「すっげー、にいさんさっすがぁ!」
 わっと四人は拍手した。目は上を見たままで彼はもう一本の棒を左手に持ち、片足ずつ膝を立ててゆっくりと立ち上がった。
「おい、うまくいったらそのへんでやめとけよ! 無理にオチ着けようとすんな! 見せ場は山場で止めるのがコツだぞ!」
「ちょっと、頼むから今、黙ってろ…。」
 拓は言い、回っている皿のそばにもう一本の棒を近づけていった。舞台ならさしずめドラムロールが響くであろう。
「はっ!」
 かけ声とともに皿はジャンプし、宙に浮いた。全員が息を止めた。白い丸皿はもう一本の棒の上に、見事受け止められて回り続けた。
「よしゃっ、大成功っ!」
 一番喜んだのは拓本人であった。彼はもう一度皿を宙にはね上げ、落ちてきたところを右手でキャッチすると、両腕を広げて観客に礼をした。
「いいぞいいぞ日本一! 銀行なんざ継ぐよりそれで食ってけ!」
「そうだよ、にいさんきっとその方が似合うよ。今度は二枚に挑戦してさ、三枚できるようになったら『いいとも』とかに出てみれば。」
 好きなことを言われながらも、成功に満足した彼は上機嫌で席に戻り、
「いやホントはさ、右と左で一枚ずつ回して、チャッ、て空中で入れ替えるワザとかもあんだけど、それはちょっと難しくて…。いちおう挑戦はしたんだぜ? でもそれでルームサービスの皿、割りまくって、二十枚め割ったとこで、やべ、これ以上割ったらホテル追んだされんなとか思って、やめた。」
「お前なぁ、アメリカまで行って日本の評判落としてくんなよ。」
「いいからいいから。ほら次、久さん。」
 促されて、高杉はテーブルの下に置いていたケースをあけギターを取り出した。足を組んで膝に乗せ、軽くつまびいて音を確かめる。ここにいる男たちはみな、揃いも揃って芸達者らしい。
「それでは由布子先生に捧げる歌。『Si Quieres』いってみましょう。」
 弦が響き、歌声が添った。またもや由布子は驚かされた。哀愁を帯びた、おそらくはスペイン語の歌。二重唱法というのだろうか、一つの音の後ろに別の高さのビブラートがかぶる歌い方。高杉の歌声は由布子の脳裏に、異国の夜の暗闇とその底で絡みあう男と女の姿を、まざまざと浮かび上がらせた。
 かつて船員時代、行く先々で女が放っておかずとうとう避妊手術までせざるを得なかったと、高杉がそういう男であることを、由布子はいま真に納得した。鴎のように海を渡り街から街をさすらった彼には、陸に守られ安閑と生きている男には決して持てない、無常ともいうべき翳りがある。人に狎(な)れた剽軽さにコーティングされればされるほど、ふとした折にのぞく高杉のこの本質は、世を知りつくした女の目にこそたぐいなく魅力的に見えるだろう。由布子は今まで、高杉の方が幸枝に惚れたのだろうと思いこんでいたが、ひょっとすると逆なのかも知れない。幸枝こそが彼のためなら命を賭けられると思ったのかも知れない。二人の恋はどんな映画よりも激しい熱情に彩られていたのだ。
 最後の弦をはじくと、高杉は立ち上がり礼をした。手が痛いほど由布子は拍手した。
「いやぁー、予想外の反響をありがとうございます。昔のつまらん杵柄を、ちょっとばかりご披露に及んでしまいましたっ!」
 ぺこぺこ頭を下げる彼に由布子は言った。
「アンコール!」
 えっ?と笑う高杉に向かって、拓も陽介も手拍子とともにアンコールを呼びかけた。高杉は幸枝と顔を見合わせ何か小声で言い交わしていたが、じゃあ、と言って幸枝がリビングを出ていったので、
「なに、幸枝さんどしたの?」
 拓が尋ねると、高杉は椅子に座り直しギターをポロンとかき鳴らした。
「ああ、ちょっとした支度がありましてですね。じゃあそれが整うまで、こちらをお聴き頂きましょうか。由布子先生に捧げる歌パート2でございます。」
 奏でられ始めたのは『アルハンブラの想い出』だった。切なく美しいメロディーに耳をあずけていると、恋というものが生みだす感情は究極、この甘美なる悲しさに尽きるのだなと思えてくる。アルハンブラとは恋を知った者全ての心の中に、静かに建つ宮殿の名なのかも知れない。
 私の玉座には、拓、あなたがいる…。こぼれそうになった涙を、由布子は熱いバーボンで押さえた。
 曲が終わった時、幸枝が戻ってきた。まとっているのはロングスカートとショール、地味ではあったけれども一目でそれとわかる、フラメンコの衣装であった。
「すご、本格的ですね。」
 由布子が言うと彼女は、大袈裟でしょう、と笑って、
「どうせやるならウケ狙えってこの人が言うのよ。もう何年も踊ってないんでちょっと心配なんだけど、由布子さんを応援するんだからこれくらいいいか! と思って、年がいもなく引っぱり出してきちゃった。」
 ダンス用の正式なシューズと手にはカスタネット。エキゾチックな顔立ちの幸枝にはぴったりの衣装だった。彼女は舞台の中央に立ち、ショールを顔の前に垂らしてポーズをとった。高杉の弦が曲を奏で始めると幸枝は、ジプシー女さながらの表情で、力強く床を踏み鳴らした。素人にここまで踊れる訳がない。幸枝がダンサーだったのは明らかであった。長崎の盛り場で彼女は夜ごとに踊り、男たちの心の裏を嫌というほど見てきたのだろう。彼女と出あったことで高杉は船をおり、幸枝はドレスと宝石を捨てた。二人は手を取りあって、知る人もいない東京の地に新たな世界を求めて旅立ったのだ。
 月日は流れ、ある日高杉は、拓という名の青年を助けた。心に負った傷のいくばくかを、拓は高杉によって癒された。やがて拓と知りあった私が、つぶれかけていた高杉の店を、拓同様彼に助けられた陽介の腕を借りて、ル・ナヴィールに作り変えた。皆の力でナヴィールは船出し、そこに香川と泉も加わった――――。
 ひとの心は、こうしてつながっていくのだ。いくつもの出会いを繰り返して人間はみな生きていく。孤独を背負い明日をも知れず、何かを夢み、時には失い、目に見えない無数の糸を心と心に繋ぎながら。
 踊り終えると、幸枝は由布子の前へ来て握手を求めた。掌の暖かさを感じたとたん、堰をきって涙が溢れだした。由布子は幸枝に抱きついた。彼女が由布子にくれたのは、現実の、生身の、血肉を持った男である拓に、女として向かっていく勇気であった。彼を手に入れなさいという直接的な扇動で駆り立ててくれなかったら、拓と私はずっと平行線のまま、ただの友達で終わったかも知れない。こうして拓の隣に座っていられるのは、彼女のおかげと言い切ることができる。子供のような嗚咽を柔らかな胸で吸い取って、幸枝は背中を撫でてくれた。皆、何も言わなかった。由布子が泣きやむまで高杉は、静かにギターをつまびいていた。
 

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