【第3部・第2章】 bP5
 
 五人がキャビンにひきとったのは午前二時過ぎであった。おひらき間近には皆さすがに話し疲れ笑い疲れて、陽介などはシートの上ですうすう寝息をたてていたほどだった。片付けは明日!との高杉の号令により、五人はリビングをそのままに階段を昇った。眠い、の思いだけで由布子はベッドに倒れ伏し、麻酔を打たれたように眠ってしまった。
 彼女が目覚めた時、キャビンの中はまだ暗かった。時計を見ると五時半で、冬の夜は明けてもいない。枕に頭を戻して毛布を引き上げ、布の間で寝返りを繰り返したが、眠りはもう訪れそうになかった。由布子はベッドをおり、歯ブラシを持って化粧室へ行った。皆まだ熟睡中らしい。廊下には深夜の静けさがあった。
 キャビンに戻ると由布子は、着替えをし薄く化粧して髪を整えた。小物も全てバッグに詰めてしまうと、やることはもう何もなかった。テレビもラジオもないし、本や雑誌は持ってきていない。退屈しかけた彼女の胸にふと気まぐれが芽生えた。海に昇る朝日を見てみたい。彼女はジャケットを着、キャビンのドアを開けた。通路を抜けて階段を下り、夜明け前の暗いデッキに出た。
 操舵室には明かりが見えた。船は前方にこうこうとライトを向けて走行していた。船腹に沿って白く割れる波頭が、その下は海だとかろうじて教えている。彼女は手すりを片手で押さえ船尾の方に歩いていった。暗く冷たい海のどこで鴎たちは眠るのだろう。仲間とひっそり身を寄せあって、波に浮かんでいるのだろうか…。
 船尾を回り、反対側に出た時だった。由布子は、手すりにもたれて海を眺めている人影を見つけ、足を止めた。前方だけを照射するライトは、このあたりにはうっすらとしか届かない。だがその影が誰であるかを、彼女は気配のみで知ることができた。影も由布子に気づいたらしい。顔を動かしてこちらを見た。
「なんだよ、やけに早いじゃん。まだ何も見えねぇぜ、暗くて。」
 ぼそりと拓は言い、さらに言い訳をするかの如く、
「部屋行ってさ。ほんのちょっと寝たら、目、覚めちゃって。それからなんか寝つけなくて、ここ来てボーッとしてた。」
「そう。」
 彼女は拓の隣に並び、同じ姿勢で手すりに肘をかけた。彼は黙っていた。由布子も何も言わなかった。初めて沈黙が怖くなかった。
「…人間てさ、面白いもんだよな。」
 数分間そうして過ごしたのち、拓は言った。
「こっちの態度で向こうも変わるし、相手の出方で自分の気持ちも変わる。ちょっと接し方変えただけで、『なに、こいつ別人?』てくらい変わっちゃうのな。新発見。なんか、びっくりだわ。」
 彼が言っているのはおそらく父親のことだろう。由布子は、表情までは見てとれない彼の方を向いて、話の続きを促した。
「最近さ、昔の…俺がまだガキだった頃の、親父とお袋のことよく思い出すんだ。親父とは年に何回かしか会わなかったし、会っても話なんかほとんどしなかった。ちゃんと名前呼ばれたことって、なかったんじゃねぇかな。まぁ俺も『お父さん』とは呼ばなかった気がすっけど。」
 彼の口調はこの海のように淡々と静かであった。強がりも衒(てら)いも捨てた時、人間はこういう話し方をする。
「今の頭取…親父の弟だけど、こいつ、なんでだか子供いねぇんだよ。親父の子は俺以外女ばっかじゃん。でも一番上の娘が子会社の社長のとこ嫁に行ってて、こいつにたった一人男の子がいんのね。俺にとっては甥っ子か。親父の奴こいつを跡嗣ぎにするつもりで、ずいぶん金かけて甘やかしたらしいんだ。アメリカの大学行かして、卒業しても帰ってこなくてブラブラしてたのを、まぁしょうがないって放っといたら、こいつドラッグにハマって向こうでつかまってんの。金があんのいいことに仲間うちで顔役気取って、仲介みたいなことまでしてたらしいんだぜ。いくら何でもそんなしょうもねぇ馬鹿、跡嗣ぎにするわけいかねぇだろ。マスコミ黙らすのに、かなり苦労したらしいよ。」
「そうなの…。」
 一般庶民にとってはドラマの中でしかお目にかかれない出来事が、大銀行ともなればあるものなのだ。権力の座に座り続けるには、闘争も確執もはね返さなくてはならない。
「だけどやっぱ、そういうのって漏れんだよな。でさ、また悪いことに親父、それでもう他に方法はないって思って、将来は保証するとか言ってお袋説き伏せて、俺のこと入籍したんだ。これがまたどっからか嗅ぎつけられて、親父がもみ消したドラッグ小僧の件と俺の入籍ひっくるめて、スキャンダルにするって脅した奴がいんだよ。フリーのカメラマンか何かなんだろな。学祭で俺の写真撮ってさ、それネタに五千万強請(ゆす)ったんだって。『東京中央銀行会長に隠し子! 孫はアメリカで淫行三昧!』みたいな記事作って、俺の写真、雑誌に片っ端からバラまくぞとか言って。それで親父の奴、結局五千万払ったんだよな。俺の写真嫌いは実はこん時からなんだけど。」
 そんなことがあったのかと由布子は思った。葛生のところで耳にした月刊フローラルの巻頭写真。普通なら拒まないだろうあの話を、拓が蹴ったのはやはり理由のあることだったのだ。
「当時は、さ。親父は自分の立場守るために、はした金のつもりで五千万出したんだとしか思わなかったけど…なんか最近、変なこと考えんだよ。もしかして、ほんとにもしかして、あれ、ちっとは俺のためでもあったのかな、とか。」
「拓…。」
 暖かな驚きが由布子の胸を満たした。このひとは一回りもふたまわりも大きくなっている。
「これはもっと昔の話なんだけど、小学校とか、そんくらいの時。お袋の奴なんだかでババッと金使っちゃって、俺の前で親父に金の話したことあったんだ。今月中に幾ら幾ら振り込め、かなんか。そういうの聞くの、やだったけど、しょうがねぇじゃん小学生のガキとしては。そしたら親父の奴、ものすげぇ怒ったの。そん時の親父がなんか印象的で、今でもはっきり覚えてんだけど、言ったのがね、『この子の前で金の話をするな、男の子に金の苦労をしょわせたらおしまいなんだ、男は金の傷を負って社会に出たらつぶされる、そこが女とは違うんだ。』…この台詞…他人はぜってー言わねぇだろ。それ以来お袋も二度と言わなくなってさ。まぁ浪費癖は死ぬまで直んなかったから、俺のいないとこでは相変わらず、だったんだろうけどな。」
 拓は笑い、いっそう身を低くして手すりの上に顎を乗せた。
「北原になる前は俺、お袋方の狩野(かのう)って名前だったんだ。それがいきなり親の都合で『今日から北原』…ふざけんなってんだよな。人の名前そう勝手にポンポン変えられてたまっかよとか思って、北原なんて死んでも使うもんかと思ってた。ガキの頃から仲間うちでは拓って呼ばれてたから、もうこれだけでいい、苗字は『K』でいいじゃねぇかって。ほら狩野も北原も偶然Kじゃん。でもTKってイニシャル案外多いのな。葛生先生もTKなんだぜ。考えてみりゃ区別つかなくて不便か知んねぇし、まあ別にもういいわ、北原でも何でも。」
 彼は指先で手すりをピアノのように叩いた。
「これから…ちょっとの間、大変かも知んねんだ、俺。ほんとは大学入り直そうと思ったんだけど、そんな悠長な時間はねぇって、今、なんと家庭教師つけられてんの。」
 おかしそうに笑った彼に合わせ、
「やだ、ほんと? 家庭教師なんて、貴族のお坊っちゃまみたいじゃない。」
「な。笑っちまうだろ。人事部研修課長とマンツーマンだかんな。本物の資金・従業員・株主・顧客・取引先を使っての実地訓練だって。それで赤坂の料亭には連れてかれるし銀座の会員制クラブには連れてかれるし、頼むから焼き肉屋で牛タン食わして!とか言っても、駄目。企業のトップなんてなりたがる奴の気が知れねぇな、マジ。」
 不平を言ってはいるが彼は、いざその場に足を踏み入れたなら、葛生の名代で出席したあのパーティーの時のように、居並ぶ紳士連中に一歩もひけをとらない毅然とした雰囲気を醸し出すに違いない。拓の素性を聞かされなくても、育ちのよさはおのずと感じられたと幸枝は言っていた。しかし北原会長の長男とはいえ嫡出でない彼を、育てたのは母親一人なのである。彼の身に備わっている独特の気品は、彼の母が彼女なりの方法で、拓を愛し守った結果に他ならない。一流の場所、一流の服、普通なら使わないような高級和食器。彼の回りをそれらで固めた母の真意は、息子にみじめな思いをさせないこと、父親がいないという理由で他人に押しやられずに済むよう、せめてもの豪奢で包んでやりたいと、そんな思いだったのではないだろうか。もちろん見栄もあっただろう、自分への慰めもあっただろう。だがそれら全てを打ち消して余りあるほどの、愛情に偽りはなかったのである。
 偽りの気品は、身にはつかない。彼女は拓を愛し、その父親である北原賢一郎を愛していた。不慮の事故で命を奪われた瞬間、母の想いはただ一途に、最愛の息子のもとへ飛んだであろう。どうかこの子を頼みますと、祈りながら彼女は世を去ったのだ。消え残る想いはオーロラのように淡く揺れ、今も拓のまわりを優しい光で包んでいる。
「俺さ、前にも言ったけどスペースアーティストは諦めてない。親父には悪いけど、後継者見つけたらズラかる予定。血縁で固めて経営するなんてもう時代遅れだろ。血の繋がりしか信じらんねぇって、なんか悲しいぜ? 世の中何でも最後の最後は一対一の人間関係だもんな。ここんとこを俺が親父に、ビシッと教えてやろうと思って。」
 拓は大きく息を吐き、両腕を手すりについて体を起こした。
「まぁあと十年…二十年かな。したら俺もう一回スペースアーティストの道行くから。歳とってデビューすんのもカッコいいじゃん。七十五歳大型新人、堂々デビュー! とかって。」
「七十五歳大型新人? いやだ、すごいわよそれ。」
「うん。その頃の日本はどうせ長寿社会だろうしな、七十五歳なんてひよっ子かも知んねぇぞ。そうやって華々しくデビューしたら、あとは無理しないでマイペースでいく。」
「へぇ、計画たててるんだ、ちゃんと。」
「ああ。とりあえずは目の前のこと、きっちりけじめつけたらな。」
 二人はそこで、またしばし黙った。波の揺らぎが先程よりも、心なしかよく見えるようになっている。
「いろんなこと、あったよな。たった一年なのに。」
 視線を遠くに投げて拓は言った。
「ちょうど今頃…いや、もちょっとあとか、知りあったの。」
「そうか、ちょうど一年なんだ私たちって。」
「うん、そう。一年。」
「一年ね…。」
 たったの、なのかそんなに、なのか。四つの季節のうちに私たちは、お互いを通して自分自身を見つめてきた。今まで見えなかった自分の背中を、相手の心を鏡として見ることができたのだ。
「由布子はさ、俺のお袋が最後までできなかったことを、会ったその一番最初ん時に、やってみせてくれたんだ。お袋はなんでこいつみたく、すっぱりと潔くなれなかったんだろうってずっと考えてたんだけど…。違うんだよな。俺の勝手な思い込み。由布子もやっぱつまんないことで悩んで、なんなんだお前ってくらい強がってんのに、裏でめそめそして、…多分お袋も、そういうの同じだったんだろうな。無理して、しきれなくて、ボロが出て、取り繕って。そうやってぐちゃぐちゃ迷いながら、俺のこと育てたんだなとか…いろいろ。」
 由布子は拓の肩にそっと頬を寄せた。幼い彼を胸に抱いて慈しんだ、彼の母に語りかけた。――――大丈夫、心配しないで下さい。拓は生きて、ここにいます。これからも多分生きていくでしょう。あなたが愛した人のもとで、彼自身の答を出すために。
「上海でさ、あんま、つっぱんなよ。」
 拓は言った。見下ろしている瞳が見えた。鴎の声が聞こえた気がした。船首のライトが薄らいでいた。
「嫌なことあったら、思いっきり泣けよ。我慢しすぎっとよくねぇぞ。しっかりしてそうに見えてお前、単に怖がりなとこあっかんな。泣きたきゃ泣け。洟垂らそうがヨダレ垂らそうが。」
「だからそれ、やめてってば。もう、一生の不覚だわ。」
 クスッ、と彼は笑い、
「変わんなよな、由布子。」
 手すりを握った彼女の左手に、大きな右手を上から重ねた。
「お前、今のままでいいかんな。変に醒めたこと、考えたりすんなよな。俺、わりといい加減だけど、でも―――」
 彼はゆっくりと体を由布子に向けた。風が髪を靡かせた。背後の空が白んでいる。
「俺、お前、好きだから。最初に新橋で会った時から、多分、ずっと、好きだった。」
「拓…」
「変わんなよな。変わんないで、くれよな。俺は、きっとだけど、きっと…」
 左手が、強く引き寄せられた。彼の腕に、苦しいほど抱きしめられた。両腕を彼女は拓の背に回した。
  きせき、だった。
  自分の一番大切なそのひとにとって、
  私が最愛の人であるということは。
  宇宙をめぐる無数の星が出会うよりもっともっと、
  はかり知れぬ奇跡なのだ、あいしあうということは。
  空よ海よ風よ星よ私を
  この世に育ててくれてありがとう
  このひとに出会わせてくれて永遠にありがとう―――――
「私もあなたが好き…。あなたが好き、あなたが好き、あなたが好きよ、拓…!」
 涙を止める必要はなかった。いま彼女を抱きしめ抱きしめられている、鼓動の他に何もいらなかった。彼が力をゆるめた。風が吹いてきた。雲の間を金色の太陽が昇り始めていた。地上に届く最初の光を、彼女が見たのは一瞬だった。とざした瞼にひろがる浄闇。拓の呼吸が、由布子の唇で止まった。
 音の消えた世界に、光は祝福の腕(かいな)を伸ばした。幾億の囁きよりも確かな想いを、心を、宇宙を、命を、…
 ル・ナヴィールの汽笛が夜明けを告げて鳴り響いた。鴎が応え、海は黙した。
 

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