TK番外・COOL編

 
「あーっ、やれやれ終わった終わった!」
 最後のタオルを干し終わると、小百合は大きく伸びをしてから首を回し、続けて腰をトントン叩いた。
「お疲れ様でした。今日はお客さん多くて大変でしたよね。」
 今日子は洗濯籠を腕にぶら下げ、洗面器を片づけながら言った。小百合は今度は両肩を交互に揉みほぐし、
「もうさあ、あたしなんて…午後はシャンプー八人よ八人! 手ぇ乾いてるヒマなかったんじゃない? それでずっとこの姿勢でしょう。あー…疲れたあ!」
 彼女はぐるぐると腕を回した。小百合も今日子もこの店の…『ヘアスタジオ・COOL』の従業員である。まだインターンなので客の髪のカットはさせてもらえない。先輩技術者のアシスタントと、あとはもっぱらシャンプー専門で、小百合の言う通り手の乾く暇もなく、人間の髪を洗い続けて終わる一日を繰り返していた。
「さあてと、今日ちゃんも『鍵屋』行くでしょ? チーフたち待ってるよきっと。」
 束ねていた髪をほどきつつ小百合は言った。店が終わるとたいてい近くで食事して、適当に遊んで帰るのが常例だったが、
「ううん、…あたし、今夜はちょっと、まだ。」
 今日子が言うと、小百合はああ、と気づいて、
「そっか。レッスンデイか。熱心よね今日ちゃんは。まあ無理もないか。あの“彼”じゃあね。」
 意味ありげに笑いながら今日子を見た。今日子はちょっと首をすくめて、
「小百合さんもういいですよ。上がって下さい。後はやっときますから。」
「そお? じゃ、悪いけどお先に。最後の戸締まり、忘れないでね。」
「はい、お疲れ様でした。」
「はあい頑張ってね。おっ先―!」
 小百合はコートを持って階段を降りていった。一人になった今日子は、ふっと短く息を吐いて、あたりを手早く片づけた。作業が終わると彼女は、店の大きな窓ガラスにもたれ、夜の街を楽しげに行きかう、人の流れを見下ろした。
 明日はクリスマスイブである。街をいろどるイルミネーションは、今夜と明日で最高潮を迎える。今日店に来た客たちはほとんどが、デートかパーティーのための豪華な装いをしていた。人が楽しんでいる時にせっせと働くのが、サービス業の宿命であるとはいえ、何だか貧乏くじを引いているような気が、しないと言ったら嘘になる。
(でもま、いいか。)
 今日子は壁の時計を見た。十時を少し過ぎていた。そろそろアイツが来る頃だから…と、思った時彼女は人波の中に、特別なひとつの影を見つけた。大股の、はずむような足どりに合わせて、長い髪がなびき、揺れていた。今日子の口元に笑みがひろがった。拓は階段の下でその窓を見上げ、今日子に気づいてニッと笑った。
 
 …拓が初めてCOOLに来たのは、今からちょうど半年前、梅雨の季節のある日のことだった。隣のビルの持ち主である『山口歯科医院』の奥さんが、けたたましい声を上げながら、店に駆け込んで来たのだった。
「ちょっと、ちょっと大変なのよ! ちょっとこれ…これ、すぐに何とかしてあげて!!」
 店中に響きわたるキンキン声に、客も従業員も、何事が起きたかとそちらを注視した。真っ赤な口を魚のようにぱくぱくさせて山口夫人がとり乱しており、彼女の横で、何か得体の知れない、緑色の物体がうごめいていた。目も口もないのっぺらぼうの海坊主…ガチャピンの相棒のムックを緑色にして、顔の部品をとりはずしたようなその物体に、店の全員が仰天した。皆、まじまじとそれを見つめた。形から推してどうやら人間らしい。今日子にわかったのはそれだけだった。
「どっ、どうなさったんですか奥さん!」
 さすがに店長はまっ先に駆け寄った。山口夫人はぶんぶんと首を振り、
「ああもう、説明はあとあと! とにかくコレ…コレ何とかして!」
「なんとかって…あーあーあー、何だこりゃ…。うわ、床までしずくが…。」
 店長は顔をしかめ、ムックもどきの頭のてっぺんから爪先までを眺めた。頭らしき部分からボトボトしたたっているのは、スライムを思わせる濃いペンキであった。断末魔の宇宙人の体液のようなおぞましい緑色が、フローリングをべたべたに汚している。こんなものに入ってこられては、はっきり言って営業妨害であった。だが山口夫人は、
「お金は幾らでも払うわよっ! ここ、専門家でしょ!? 早く! この人がハゲになったらどう責任とるっていうの!」
 必死の口調でまくしたて、ムックの背中を、ぐいと店長の方に押し出した。汚いものでもよけるかのように、店長は後ろに飛び下がった。その時だった。ムックが、チッ…と舌打ちをした。一同はギクリとして“彼”を見た。
「ふざけんなよ…。」
 男の声であった。彼はゆっくり腕を動かし、手の甲で顔(らしき位置)のペンキをドロリとぬぐった。きつく眉を寄せた鋭い視線が、ペンキの下からフロアに投げられた。
「責任がどうとか、言ってる場合かっての。いいからこれ、何とかしろよ…。」
 呆然と眺めていた今日子の目と、彼の視線はまともにぶつかった。今日子は息をのんだ。強く、鋭い、黒目がちの瞳。彼女の記憶の池で何かが跳ねた。この眼はどこかで見たことがある。
「…まあ、しょうがない。とにかくこちらへどうぞ。」
 観念したらしく店長は、彼をスタッフルームへ連れていった。色ばかりかシンナーの匂いも強烈で、早くしないと店にしみついてしまう。店長は今日子を振り返り、
「今日子ちゃん、悪い、タオル山ほど! それからヘアダイ用のロングケープと、あとはリコーティングのブルー液、原液で持ってきてくれるか。大至急!」
「…あ、はい、わかりました。」
 今日子は指示されたものを急いで揃えた。ペンキを拭き取るならこれでよかろうと、まだ洗っていないタオルを洗濯籠からつかみ出していると、
「いったい何があったんですか。誰なんですあの人。」
 背後でチーフと山口夫人が、会話しているのが聞こえてきた。
「知らないわよ誰かなんて。…今ねえ、うちのビル、窓の塗り直しやってるでしょ? うちの子が、どうもその足場を蹴っとばして遊んでたらしいのよ。で、あのお兄さんが一階の雑貨屋から出てきたところに、ちょうどまあ運悪く、上からペンキの缶が落ちてきたらしいのね。業務用の、こんな大きなのが。」
「ああ、それでこう、完全に…」
「そう、ズボッと。もろに浴びちゃったの。」
 ぷっと今日子は吹き出した。彼には悪いが想像すると非常におかしい。梅雨の晴れ間の昼下がり、気分よく下北沢をぶらぶらしていて、気まぐれに雑貨屋を覗いたばっかりに、彼はペンキの洗礼を受ける羽目になったのだ。街を歩いていていきなり、頭からペンキの缶をかぶせられたら、誰しもまずは怒るどころか、呆然自失するであろう。そんな彼の腕を引ッ掴んで山口夫人は、自分がよく行く隣の美容院に、有無を言わさず引きずってきたに違いない。
 今日子はこみ上げる笑いを押し殺して、タオルなどを抱えスタッフルームに入った。店長は彼女からタオルを受け取ると、まずは大まかにペンキの塊を落とし、
「申し訳ありませんがそのTシャツ…脱いじゃって頂けますか?」
 彼は無言で裾をまくり上げ、頭を抜いた。生地がペンキを吸い取ってくれたので、体の皮膚は無事だったようだ。細身なのに意外と、彼の肩幅は広かった。
「ケープ、かけてあげて。」
 Tシャツを丸めながら店長は言った。今日子は彼の裸の肩に、オレンジのビニールケープをまとわせた。ぶるん、と彼は首を振った。絵筆のようになった長髪がはねて、あたりにペンキが飛び散った。
「じっとしてて!」
 思わず今日子は言った。
「犬じゃないんだからブルブルしないで! ちゃんと落としてあげますから、大人しくじっとしてて下さい!」
 強い口調に、彼は緑色の顔でじろりと彼女を見た。睨みつけられて目をそらしつつ、今日子は思った。やはり、どこかで見た瞳だ。ただ、どこでだったかが思い出せない。
「はい、失礼しますよ。」
 彼の背後に店長は立ち、二枚重ねたタオルを頭にかぶせた。ペンキは徐々に固まり始めていて、拭いただけではもう無理だった。
「今日子ちゃん、ブルー液、そのタオルにびちゃびちゃに浸してくれるかな。まずはそれで取っちゃうから。」
 ヘアマニキュアやカラースプレー、さらにはパーマさえ落とせる強力な原液で、店長はあらかたの緑色を剥ぎ取ることに成功した。
「よし…と。じゃあ、店の方にどうぞ。シャンプーと…それからトリートメントしますから。ああ、まずはクレンジングでお顔を洗って下さい。ついでにフェイシャルパックしましょう。そのままじゃガサガサになっちゃう。」
 促されて青年はゆらりと立ち上がり、
「…いいですよそんなの。とにかくこの、緑だけ落としてもらえれば。」
 だが店長はやけにきっぱりした調子で、
「いえいえ、そんな訳にはいきません。髪の毛が傷みますよ。せっかくそんなに見事なのに。」
 さっきとずいぶん態度が違うなと思いつつ、今日子はスタッフルームを片付けた。あちこちに飛び散ったペンキも拭き取って、フロアに戻ると、
「ああ、今日ちゃん早く早く!」
 せかせかと店長に手招かれた。店長はシャンプー用の椅子に彼を座らせ、顔に黒いパック剤を塗りつけているところだった。不貞腐れた態度の彼は、もう全ての抵抗を捨てたかのように憮然として、されるがままになっていた。
「念入りに、シャンプーしてあげて。これ、まずこのまんまで、それから三倍液でね。」
「わかりました。」
 今日子は椅子を倒した。普通は五倍に薄めて使うシャンプーをたっぷり泡立てると、一回めはまみどりだった色も、三回めにはすっかり白くなった。キシキシときしむくらい脂分を洗い流してしまった髪に、店で一番高価なトリートメント剤を丁寧に摺りこんだ時、ようやく今日子も、店長が手のひらを返すように態度を変えた原因を悟った。
(なんて綺麗な髪してるのこの人…。男にしとくのもったいないくらい。細くて柔らかくて、だけど量は多い…。どんなカットをしても決まる、最高の髪質じゃないの。)
 おそらく店長は、スタッフルームでこの髪に触れた瞬間、いちはやくその価値に気づいたのだ。プロの美容師は誰よりも、美しい髪への想いは強い。一瞬にして店長を惚れこませた彼の髪を、今日子はもう一度くまなくすすぎ、キュッと蛇口を締めてシャワーを止めた。
「起こします、よろしいですね。」
 よいしょ、と椅子を上げると、彼は一瞬身を堅くした。シャンプーの間、うとうとしていたのかも知れない。人がこんなに気を遣っているのに、なんて大胆な奴だと今日子は思った。
「どう。落ちたかな。」
 店長が近よってきた。今日子は乾いたタオルで彼の髪を、毛先を跳ねさせるようにゴシゴシ拭いた。黒褐色の絹糸に甦った輝きを、見守る店長の眼は真剣だった。
「どうぞこちらへ。」
 店長は鏡の前に彼を促し、今日子に言った。
「ケープ、もう一度とりかえて。あっちこっちペンキがついちゃってるから。」
 今日子はケープをかけかえた。首の後ろの紐を結んでいると、
「ねえ…これさ、もう取っていい?」
 彼は自分の顔を指差して言った。プロレスラーの覆面を思わせる黒いパック剤は、長時間のシャンプーの間に、もうすっかり乾いていた。
「ああ、はい。…失礼します。」
 今日子は彼の正面に回って、顎の下に指をかけた。そっと周辺部を探しあて、彼女は注意深く、青年の顔から覆いを取り除いた。
 二つの瞳が、彼女を見おろした。
 店内が一瞬静まりかえったのは、今日子一人の錯覚かも知れない。つややかに光を返す濡れ髪を肩に散らして、至近距離で自分を見つめている青年の眼差しは、そう…どこかで見たとずっと思っていた。幻と言われる白い豹、野生のユキヒョウの眼に似ているのだ。形のよい額と通った鼻すじと、ぷくんと肉感的な厚い唇。緑色のペンキにまみれて転がりこんできた青年の素顔は、息を飲むほどの美貌であった。単に美しいばかりではなく、表情に不思議な深みがあった。優雅と言ってもいいかも知れない。秘めやかに妖しい翳と輝くばかりの華やぎと、正反対の魅力をともに、兼ねそなえた美青年であった。
「まだ…なんかついてます?」
 不審そうに彼は言った。今日子は我に返ると慌てて立ち上がり、
「い、いえ、大丈夫です落ちてます。完璧です。」
 彼は鏡の中で少し顔を動かし、今日子の言葉を確認すると、
「ブロー、適当でいいですよ。乾かしてだけくれれば…。雫さえ垂れなきゃ放っといたっていいし。」
 だが、ブラシとドライヤーを構えてやって来た店長は、
「いえいえ、どうせですからちゃんとセットさせて下さい。是非とも。」
 そう言うとドライヤーのスイッチを入れ、舌舐めずりせんばかりの表情で、念入りにブローをし始めた。
 Tシャツとジャケットは、洗ってもとても再使用に耐える状態ではなくなっていたため、その日彼は店にあった、だぶだぶの麻シャツを着て帰っていった。帰りぎわ彼は、シャツの袖をまくりながら『どうもお世話さまでした』と言って歩きだし、ドアを押したところで思いだしたように、『そうだ』と立ち止まった。店長自ら入魂のセットを施したつややかな髪を、サラリ、と揺らして振り返り、
「…ね、今日子さん…だっけ?」
 彼は彼女の名を呼んだ。今日子は反射的にうなずいた。
「俺さ、今までに、何百回もこういうとこでシャンプーしてもらったけど、…今日子さんのシャンプーね、…うん、多分、そん中で、いちばん。」
 
 数日後、彼はシャツを返しに店へやってきた。
 恐縮する店長にはかまわず、彼は店内を見回した。パーマネント中の客が一人いるだけの、暇な時間であった。彼はワゴンの整理をしていた今日子の姿を見つけると、
「よ。」
 片手を軽く上げて親しげに笑いかけ、つかつかと歩みよってきた。目をぱちくりさせている彼女の前で彼は立ち止まり、
「今日は俺、客で来たから。…今日子さんの、客ね。俺。」
「あた…あたしの?」
 練習以外まだシザーズも持たせてもらえないのに、と今日子がとまどうと、
「シャンプーさ、たのむわ。これ。」
 彼は首を振って髪を揺らしてみせ、思いきり目尻を下げてくしゃっと笑った。今日子の顔に人差指を向けて、
「俺担当。ご指名。…よろしく。」
 彼は今日子の返事も待たず、まるですっかり常連になったかのような慣れた足どりで、あいているシャンプー台に近寄り、くるりとこちらを向いて、すとんと腰を下ろした。……
 
「さっびー…! 暖冬だなんて嘘ばっか。さっびいよ今夜…。」
 軽やかに階段を駆け上がってきた拓は、『CLOSED』の札のかかったドアから店に入ってくるなり言った。今日子は窓際を離れた。
「うん、夕方から風が強くなったでしょ。中にいるとわかんないけど…。」
 彼は黒いレザーのジャケットを脱いで、何度か小さく洟をすすり、
「昼間、忙しかったんだ。」
「え? なんでわかるの?」
「いや、なんか疲れた顔してっから。」
 言われて彼女は鏡を見た。拓との出会いを回想していたせいで、少ししみじみした表情になっていたかも知れない。今日子は意識して明るく笑い、鏡の前の椅子をポンポンと叩いた。拓は歩いてきて、
「今日は、どうすんの。前回にひき続いて編み込みの練習?」
 言いながら椅子に座り、脚を組んで、鏡の中の今日子に笑いかけた。
「ううん、あれはもういいの。今回はねえ…」
 今日子は拓の髪に両手の指をすべりこませた。絹糸の間に残る外気の冷たさは、思いがけず強かった。
「パーティー用のね、セットをしてみたいのよ。今日来たお客さんに店長がやってた、すごい素敵なやつ。だからちょっとだけ、サイドにパーマあてさせて。」
「パーマ? いいけど…チリチリはヤだぜ?」
「しないしないそんなに。ゆるーく波うつくらい。それとねぇ…毛先揃えていい? すその方、そうね、五ミリくらい。」
「いいけどさ…。おまえがカットしたあとって、する前より揃ってなくない? 揃えるっていうんじゃなくて、散らかしてるよおまえ。」
「うるさいな。」
「あいてっ。」
「あんまり可愛くないこと言うとね、いいのよ? ギザギザのトラ刈りにしたって。」
「あ、面白いかもなそんなのも。…いいよ? やれば? こんな邪魔くさい長さにしてんの、おまえのためって言えばためなんだから。…今日子がさ、はやく一人前の美容師になって? 指名してくれるお客さん増えて? 独立して、一大チェーン店のオーナーになる日のために。俺はね、この髪の毛、提供してやってんだから。」
「……」
 今日子は黙った。『代わり映えのしないOL生活が嫌になって美容師を目指したの。行けるところまでは行ってみたいな。いずれは世界的に有名な、ヘアデザイナーになっちゃおうかな。』そう語った今日子を拓は覚えていて、この髪を切らずにいてくれる。私のために。私の夢のために。どんなセットも一発で決まる、この美しい絹糸の髪を。
「感動した?」
 からかうように拓は笑った。今日子は顔を上げ、ワゴンからブラシを取り上げた。
「はいはい、感動いたしました。あなたのおかげでウイッグ代も節約できるし、生きたナマの髪で練習できるから、もうメキメキ腕上がっちゃって、この分だとニューヨークとミラノとパリとロンドンに、支店展開する日も近いわね。」
「すっげー強気…。どっから来んだろその鼻ッ柱の強さは。」
「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。あたしはね、決めたのよね。人生、鳴かしてみようホトトギスよ。サロン・ド・Kyokoの看板は、いずれ全世界を席巻するんだから。」
「ほー。すっげえじゃん。じゃあせいぜい今のうちに、早瀬今日子先生に手がけてもらえる幸せを享受しとけと、そういうわけだ。」
「そうそう。よくわかってるじゃない。」
 シャンプー前のブラッシングを、今日子は丁寧にかけてやった。普段はVIP客にさえ、ここまでのサービスはしきれない。
「あー…気持ちいー…。」
 拓は目を閉じて顔をあおむかせた。
「犬とか猫がさ、人間の膝に乗っかって撫でてもらってる時って、きっとこんな気分なんだろな…。リラックス…。あー、天国みてぇ…。」
 犬のように舌を出して、拓はクフンクフンと鳴き真似をした。ひと通りブラッシングし終えると、今日子は左右から彼の頭を支えて前に起こした。
「はい、おしまい。そしたらシャンプーするから、こっち来てポチ。」
「ポチかよ。」
 目をあけて拓は笑い、
「もうちょっとさ、ジェファーソンとかフランソワーズとかレオナルドとか、高級っぽいやつになんない? ポチじゃ雑種だろ。」
「雑種がいちばん可愛いの。はいはいこっちおいでー。」
 チュッチュッと舌を鳴らして手招くと、彼は苦笑しながらシャンプー台に座った。顔に乗せるガーゼは『死体みたいで嫌いだ』と言うので使わない。
「このあおむけシャンプーが危ないって最近話題になったけど、あれって実際のとこどうなの。」
 大きな目で下から今日子を見上げ、拓は言った。シャワーの湯が髪を柔らかく濡らしていく。
「え? うーん…そんなこと今さら言われても、って感じよねえ。別に昨日今日始めたことじゃないんだし…。」
「まあでも確かにさ、下手な店は下手だよね。『角度よろしいですか』って聞かれて『あ、はい』とか言うじゃん。でもさ、あれ、しばらくたってから痛くなってくんだよね。なんか…『やべ、血の流れ、止まってるぞこれ…』って感じ。」
「ああ、そうかもね。ケープの紐が妙にきつかったりするとそうなるかな。…今は平気? 痛くない?」
「あ、平気平気。先生マジで上手だから。」
「そ?」
「うん。カットとセットは『???』だけど、シャンプーさせたら世界一。」
「ありがと。」
 一度目の泡を流して、本格的に爪を立ててやると、拓は再び目を閉じて言葉を切った。世界一、というのはまんざらお世辞でもないらしい。ここまで無防備に頭を預けられては、今日子も洗う手に心を込めざるをえなかった。美しい、美しい髪である。
 シャンプーのあと今日子は、もう一度拓を鏡の前に座らせた。『ほんとはケープも好きじゃない』と言う彼の首にタオルだけ巻いて、部分パーマの準備をしていると、
「正月、四国帰んの?」
 拓は聞いた。今日子はワゴンを椅子の横に止め、
「うん。三十日にお店が終わったら、夜行バスで帰ろうと思って。」
「ふーん。」
「ほんとはバスだと疲れるんだけど、切符がもうとれなかったのよ。」
 後ろ髪をいくつかにブロッキングし、コームで揃えて、今日子は毛先にシサーズの刃を当てた。シャキッという固い音とともに、切られた髪がパラパラと落ちた。
「四国はねぇ、俺、松山は知ってんだけど。高松…っていうか四国のこっちっかた、右半分は知らない。行ったことないわ。」
「ああ、多いのよねそういう人。半分回って帰る奴。」
「でも瀬戸大橋はすごいね。四国行くんならやっぱあれ渡んないとな。往復飛行機で行く奴の気が知れないよ。」
「…ちょっと下向いて。じっとしててね。」
「なんかこえぇぞおい。ずーっと斜めに切んなよな。」
「切られたくなかったらじっとしてて。」
「とんでもねー!」
 汗をかくほど真剣に今日子が毛先を揃え終わると、拓はバサバサと頭を左右に振って、鏡に顔をくっつけて首を傾け、
「…なんか微妙に違くねぇ? こっちとこっち…。」
「いいの、これはそういうカットなの。」
「でもってさ、そのロット細いよ絶対…。ゆるーくかけんでしょ? だったらそんな細いやつじゃなくて、そっちの…その一番太いやつで…。」
「素人は黙ってて。はいほら、まっすぐ前を向く!」
 シャンプーの時はおとなしいのに、鏡の前に座ると拓は必ず、ああだこうだと口をはさんだ。まあ言われても仕方のない今日子の技術だったけれども、それより拓はそうやって、今日子をからかうのが楽しくて仕方ないらしい。年の差などハナから無視した完全なるタメ口は、今日子本人にも時々、拓が年下であることを忘れさせた。
 昼間、パーティーに行くと言って予約を入れていた客に店長がセットしたスタイルは、ワンレングスをラフにルーズに結い上げるというものだったが、ポイントは額のあたりとサイドから一房ずつ、顔の前に垂らしたアンパランスな『結い残し』であった。客はすこぶる満足して帰っていったが、今日子が思うに、惜しむらくはその客が、せめて十人並みの顔立ちだったら申し分なかった。せっかく素敵なデザインなのにと、今日子は客を見送りながら思った。だから彼女はそのスタイルを、拓の髪を借りて再現してみたかった。彼の美貌があれば何十倍も、引き立つデザインに違いないからだ。
「あしたのイブも仕事?」
 ロットを巻く今日子の手を見ながら、拓は尋ねた。
「そ。あしたも予約でいーーっぱい。まあ、今日と明日がヒマなようじゃ、そんな店はつぶれたも同然でしょうけどね。」
「あ、それは言えてんな。」
 でも忙しさは言い訳にもなるのよね、と今日子は密かに思った。ロマンチックなイブを過ごすパートナーは、残念ながら彼女にはいない。仕事がなくて暇だったら、アパートで一人、寂しいイブを迎えなければならない。『仕事ばかりでそれが辛いわ』と笑っていられるのは、ひょっとしたらラッキーな鎮痛剤かも知れなかった。
「あなたはどうなの? 明日の夜は。まさか仕事ってこともないでしょ?」
「俺? …そりゃ俺はさ、もう、あれよ。…酒池肉林。」
「…呆れた。」
「なぁんて、うそうそ。多分バイト先の野郎連中で、どっかでつるんでるでしょ。それで大ナンパ大会だな。誰が一番早く夜のお相手を、Getできるでしょうかっ!」
 要は酒池肉林と同じことじゃないかと今日子は思った。この髪で、この瞳で誘われる行きずりの恋を、拒む女がいたらお目にかかりたいものだ。ロットを巻き終えてタイマーをセットし、一山越えたところで今日子は聞いた。
「お茶いれるけど、コーヒーでいい?」
「ん、今日子が飲みたいのでいい。」
 奥でドリップし、トレイに乗せて戻ってくると、拓はビニールキャップをかぶったその格好で勝手に店内を歩き回り、有線のチャンネルをあちこちに合わせてBGMを選曲していた。渋いジャズが流れてきたところで彼は手を止め、
「サンキュ。」
 今日子の持っているトレイからカップを一つ取って、入口のそばの大きなソファーに座った。
「歳とるとさ、…一年ってほんとに早く感じるよね。」
 唐突に、拓は真面目な話をしだした。両手で持ったマグカップに彼が視線を落とすと、くっきりと深い瞼の二重は、この距離からでもはっきり見てとれた。
「それって、数学的にちゃんと証明できるんだって。十歳の子供にとっては一年って人生の十分の一だけど、でも二十五歳になると二十五分の一、五十歳だと五十分の一でしょ。分母が大きくなるごとにね、数は小さくなってくじゃん。だから、去年と同じでいいやと思ってると、一年でできることなんて、どんどん小さくなっちゃうんだって。毎年自分でステップアップしてかないと。」
「ステップアップ…か。」
 今日子は復唱した。クリスマス、クリスマスと浮かれているが、もうじき今年も終わってしまう。
「早瀬先生は、来年の抱負とか、ある? 来年の目標。」
「そうねえ。」
 今日子は手の中でコーヒーを揺らした。
「まあ、あたしは何よりもまず、国家試験に通らなきゃ。そうしないと何も始まらないのよね。ニューヨークもパリもミラノも、試験にうかったあとの話だし。だいいちシザーズ握らせてもらえない…って、ちょっと何笑ってんのよ。」
「え? 俺? 今、笑った?」
「笑ったわよ、吹き出したでしょ。どうせ落っこちるに決まってるとか、思ったんでしょ。」
「思ってない思ってない。…まあね、カットは曲がってるし? ロット巻きはあぶなっかしいしブローすりゃアッチィし?」
「うっるさいな…」
「さあ今夜いったい俺は、どんなアタマにされるんでしょうかっ!」
「大丈夫よ。少々の失敗はあなたの髪なら、何とかごまかせちゃうんだから。」
「いいのかよそんな他力本願で。あ、もしかして俺の髪がよすぎるから、いつまでたっても今日子の腕上がんないんじゃないの?」
「…もう一度言ったんさい。」
「あ、うそうそうそ。いつもトリートメントして下さって有難うございます。」
 ムーディーなBGMに全然つりあわないざれごとを、言い合っているとタイマーが鳴った。二人は揃ってコーヒーを飲み干した。
「さあて…かかってたらおなぐさみ…。」
「うっわー、チョーこえぇー!」
 今日子は拓の頭から、白いキャップとロットをはずした。びろん、とカールが垂れてきた。
「おいおいぃ、何だよこれぇ!」
 バネのようなそれを、拓は指でつまんで引っぱり、
「何だよこの縦巻きカール…。アントワネット様じゃねぇんだから…。だから言ったじゃんさっきロットが細いって。」
「いいから、はい、洗い流すからこっち来て!」
 今日子自身、かかりすぎたかなと思ったそのロココ風カールは、少し強めに洗ってパーマ液を落としブローすると、幸い、かなりゆるくなった。さあこれからが本番である。コームとブラシで今日子は、拓の髪をあっちに流しこっちに結び、痛ぇ痛ぇと騒がれながらもやがて、店長がデザインした通りの、豪華なパーティースタイルを作り上げた。流れを生かした自然なアップは、上品かつゴージャスで、顔の前と横に垂らした一房は、どきりとするほどセクシィだった。予想外の仕上がりに拓も感心した様子で、
「へー。いいじゃんこれ。うん、俺、好き好きこういうの。」
「あら、そう?」
「うん。なんかさ、こう…さも『セットしました』って感じじゃなくって、『テキトーに結っただけー』みたいなルーズさがさ、うん、いいわこれ。」
「これねえ…ローブデコルテみたいな、肩とか胸、大きくあけたドレスだったら最高よ。この、パラッと落ちてるやつがね、首の線にかかったらすごく色っぽいと思う。」
「ああ、…」
 うなずくと拓は、着ていたシャツの前ボタンをはずした。ぐい、と大きく合わせをひろげ、下のTシャツを左右に引っぱり、肩をあらわにしてみせた。男の太さを持ちながら、彼の首はすらりと長い。インテリジェンス・ボーンの窪みに、垂れた一房がちょうど届いている。今日子はまばたきを忘れて彼のうなじを見つめた。女とは異質な妖艶さが、立ち匂うかのようであった。今日子は小走りに棚に駆け寄り、メイクBoxを掴み下ろした。
「ね、拓、ちょっと…ちょっと目つぶって。」
「え? 何?」
「いいから、ちょっとだけ、ちょっとの間だけ目つぶってて。」
「何だよ急に…。」
 拓は笑い、彼女の言う通りにしてくれた。厚い唇を凝視しつつ、今日子はルージュのキャップをあけた。腰をかがめてそれを彼の顔に近づけると、
「…遠慮しないでさ、舌、入れていいよ。」
 唇まであと一センチだった。もう少しで今日子は、彼の顎に赤い縦線を描いてしまうところであった。拓の唇が笑っていた。『この野郎、マジでするぞ』と今日子は思った。小癪な男だった。
(よぅし…)
 今日子はルージュをひっこめ、メイクBoxからファンデーションを取り出した。遊び半分に口紅だけ塗ってやろうと思ったのだが、それでは甘い。本格的に、気合を入れてメイクしてやる。この美青年でお人形遊びができる人間は、この世の中にそうはいるまい。
「目、開かないでよ。マスカラは入るとしみるからね。」
「そこまでやんのかよ。」
「せっかくの作品ですからね。デコレーションも完璧に。」
 今日子はゆっくり時間をかけて、拓の顔を彩った。黒くまっすぐな睫毛は、マスカラで少し上向きにカールさせ、反らした。パープルとグレイのシャドウは、目尻だけバチッと色を濃くする…。最後に唇を薔薇色に染め、二つに折ったティッシュをくわえさせてから、
「はい、唇、んーってやって、パッ、てして。」
「んー…。」
 拓は目を開けた。細面(ほそおもて)の顔立ちに立体感が強調されて、我が作品ながら溜息が出そうだと今日子は思った。彼は正面の鏡を無言で見つめ、長いことそうしてじっとしていた。
「…どう?」
 今日子は感想を求めた。拓は頬に指先を触れさせ、小首をかしげて、
「…俺ってさ…もしかして、綺麗?」
 感に堪えたその口ぶりに、今日子は笑った。
「うん、綺麗綺麗。そこらの女より絶対に綺麗よ。」
「だよなー…。うっわー…。初体験…。なんか俺、目覚めちゃったかも知んない…。」
「目覚めたって…やだ、ヘンな方に行かないでよ。」
「これ俺、今日このまま帰ろ。ウケるわきっと。この方が。」
「え? やだちょっと、それで帰るの?」
「うん。行くとこあっから。これで行ってやろ。ぜってー俺だってわかんねぇ!」
 拓は自分で首のタオルをはずし、立ち上がった。脚にぴったりと吸いつくレザーパンツにブーツのいでたち、これに黒のジャケットを羽織ったら、美女というよりは完全に『ロックバンドのイッちゃってるボーカル』だ。今日子は焦り、
「ね、ね、拓…まさかほんとに? ほんとにそれで京王線乗るつもり?」
「うん。…あ、もしかしてさ、ナンパされたりなんかしてな!」
「…それはないと思うけど…。」
 拓は鼻歌でも歌いそうな様子でシャツを直し、ソファーに放ってあったジャケットを着た。今日子は説得をあきらめた。本人が気に入ってしまったのだから仕方ない。それに正直、すぐ壊すのは惜しいセットであることも確かだった。
「あ、そういやリンス切れてんだ。いつもの一本くれる?」
「ああ、はいはい。レラでいいのよね。」
「うん。袋いらないよ。」
 拓は卸値の千五百円をレジに置き、リンスのボトルをジャケットの内ポケットに差し込もうとして、そうだ、と言って手を止めた。彼はリンスを左手に持ち替え、ポケットから何かを取り出した。金と銀のリボンを結んだ、ワインレッドの袋であった。
「これ。ん。手ぇ出して。」
 今日子は手のひらを上にして両手を出した。拓は袋を離した。ぽとん、と袋が落ち、彼女の手の中に収まった。
「おまえこれ好きなんだろ。明日の晩にでも食えよ。」
 拓は笑い、リンスをポケットにしまった。
「ありがと…。」
 突然で少しばかりうろたえ、だが今日子は礼を言った。拓は後ろ向きに歩きだしながら、
「寒いから帰り気をつけろよ。それと帰省もな。また年明けくらいに来っから。」
「あなたこそ気をつけてね。ヘンなおじさんについてっちゃ駄目よ。」
「うん。…あ、でも…十五万円以上だったら考えてもいいな。」
 拓はドアをあけ、すきまから外にすべり出ながら、
「コンロごとフランベすんなよ。」
 そう言ってウィンクとピースサインを残し、階段を下りていった。今日子は窓辺に急いだ。深夜だというのにいっこうにおさまらない人の流れの中、すれちがう全員を振り向かせながら、拓の背中は遠ざかっていった。
「あぶない奴…。」
 ゆるやかに今日子は笑い、小さいわりには重たい、その袋を見た。
(ところで…何だろこれ。)
 リボンをほどき、中身を出してみる。かっちり蓋の閉まったガラスの瓶だ。キャンディ? ジャム? いいえ違う、これはまさしく…
「カリカリ小梅…。」
 目の高さにそれを掲げてラベルを読み、今日子は声をたてて笑った。ラッピングカラーは『ワインレッド』ではない。この袋は『梅干し色』だったのか。今日子は、たった今まで拓が座っていた鏡の前にそれを置いた。天井からのライトを浴びて、瓶はクリスタルの輝きを放った。ぎっしりつまった赤くて丸い粒は、ラズベリーなどよりもずっと色濃く、あでやかだった。
 何だか、ルビーに似てる。今日子はふと思った。

< 終 >

 

TK番外届け屋編へ
インデックスに戻る