【(Xー2)年十二月十六日 早暁】
何なのだ、この想いは。
何なのだこの胸の痛みは。
君はやはり悪魔なのかも知れない。私を苦しめるために現れた…。
青褪めた幽鬼ばかりの暗いパーティーから、私はついさっき帰ってきたところだ。上着だけ脱いでブランデーを瓶ごとあおり、殺されそうな想いのまま、こうして机に向かっている。
クリスマスだったのだよ今夜は。君と私との。本当はイブの晩に君を誘いたかった。最高の聖夜をプレゼントしたかった。だが、それは叶わないとわかっていたから、こんなに馬鹿げて早い夜を、私は君のために用意したのだ。
スクール主催のクリスマス・パーティーは、おととしからの定例だ。一年生も二年生以上も一堂に会して、虹色のかけはしを眼下に眺めながら時を楽しむ、私の大切な催しだ。パーティーへの誘いは、君の手にも届いているね。私は念を押したよ、是非来てくれと君に直接。用事はあるかと尋ねた私に、君は、…今目を閉じても思い出せる。一瞬、心のメモを繰るように虚空に視線を投げてからこう答えた。『大丈夫です。今のところは。』
東京湾を一望できるスカイラウンジ。私は胸にレディ・エックスを挿して、君が現れるのを待っていた。伊東君に、ホテルの支配人に、仕方なく招いた香風の家元に、できれば来てほしくなかった浜野夫人に応対しつつ、ただひとりの君が現れるのを、私は待っていたのだ。焦がれるように。焼けつくように。
レディ・エックス。香り高き藤色の薔薇。君が姿を見せたらすぐに、誰よりも先に歩みよって、この薔薇を襟に付けてやりながら、メリークリスマスと君に告げよう。そのまま君を窓べにいざない、金色に揺れる灯明かりのもと、クリスタルグラスを触れ合わせ、眼下の宝石を眺めたい…。
「先生、香風のお家元夫人が。」
伊東君が私の肩を揺さぶった。生のバンドが『真珠採り』を奏でていた。私は機械仕掛の人形のように歩き、干からびた女の手をとって踊った。
哀し唄の風の調べ 夢まどう真珠よ…
バイオリンが謳っていた。私は目を閉じた。拓。この曲もこのホールも、酒も花も招待客も全て、私は君のために用意したのだ。幻覚が私を襲った。君は黒絹の正装で、ホールの中央に立っていた。君に絞られる一筋のライト。君は胸元に手をあてて礼をする。毒をひめた優雅な仕種。君は舞う。煌(きらめ)くようなクァルテットの弦の上。女たちも、男たちも、君の前では光を失う。しなやかに反る細い背中。頬に落ちる髪を君は首を振って後ろにはねあげる。唇から漏れる熱い息。君を抱くのはギリシャの神だ。君を犯すのは石膏像の群れだ。絹糸の髪をふりみだし、歓喜に喘ぐ君の表情を、アポローンは満足げに見下ろすだろう。見たことのない君の裸体を、私はありありと思い描くことができる。つややかな肌。吹き出る汗。整った眉が、やがて悦びに変わる疼痛に深く貫かれ歪められる瞬間…。
最後まで、君は来なかった。
レディ・エックスは、朝を待たずに死んでいく。
残酷だ。
拓。
人には、花を殺す権利がある。手折り、形どり、知恵のわざをもって縊(くび)り殺すことが。
だから私たちは、この世にその花が存在していた証を、別の形に変えて昇華させなければならない。死んでいく花の涙と呪いを、大いなる罪として魂に刻まねばならない。
芸術とはそういうものだ。
君は、来なかったね。残酷なナルキッソス、私のアポローンよ。
なぜだ? なぜ来なかった? つくせる限りをつくした私の心よりも、魅惑的な誘いのためか? 答えてくれ美しい悪魔。天使の翼をもつルシフェル。
レミ・マルタン。古き友、優しい酒。満たされぬ私の聖夜に、自愛と嘲笑の乾杯をしよう。太陽神のいない今宵、残酷なるミカエルに幸多かれと。
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