【(Xー1)年一月十二日】

 アメニティに君が、初めて来てくれた。
 今日のことを君に告げたのは先週の木曜だったが、私は正直、君は来ないだろうと諦めていた。求めて得られぬ苦しみが、私の心を弱くしていた。望まなければ苦しみもない。そんな当たり前のことに、気づかぬ方がおかしかった。必要以上に君を恋うるのは、もうやめなければと考えていた。
 だから。
 銀座の西のはずれ、博品館劇場の狭いロビーに、ひょい、と君が…スーツの上に黒いレザーのジャケットを羽織り、長い裾を北風にはためかせながら現れた時、私は一瞬目を疑った。伊東君が「ああ、来たのか」と言うと、君は私と彼に会釈して、乱れた髪をかき上げた。耳の先が赤く染まっていた。外を吹き荒れる北風のしわざだ。君は私の真横に立った。鼻に届くレザーの匂いには、煙草の香りが混じっていた。十分に成人した『男』の匂いを、君は全身から漂わせていた。
 今日の舞台は、「ラテンのステップによる、ストラヴィンスキー作曲・火の鳥」という、非常に興味深いものであった。競技ダンスの元全日本チャンピオン・大澤辰郎を中心とした公演で、クラシックバレエの火の鳥を、ラテン五種目のステップで踊るというのだ。
「見たかったんです、この人のダンス。一度、本格的に。」
 君が言った時、開演のベルが鳴り、新たなる火の鳥は舞台の上で羽ばたいた。素晴らしいダンスだった。フラメンコやパントマイム、さらには能の表現までをも随所にちりばめ、グラン・パ・ドゥ・ドゥーをルンバにおきかえた大胆さも、まさに舞踊界の革命と呼ぶにふさわしい。アンコールで踊ってみせたエスパーニャ・カーニは元チャンプの面目躍如、君とともに私は立ち上がって、主役のカップルに拍手を贈った。
 公演後は、アピシウスで夕食。ここでメンバーに君のことを、落ち着いて正式に紹介したが、そのあと「司」に場を移したあたりから、ただでさえ口の重い君は、ますます沈黙がちになっていった。君と私の他にメンバーは三人。今日は柏崎君がいる以上、話題がどうしても美術へ絵画へと、傾いていくのは仕方なかった。
 聞き守る姿勢をとり続ける君に、伊東君は各人のグラスを作れと指示した。話の興を削がれぬよう、我々のテーブルからはいつもボーイを遠ざけてある。酒の世話は伊東君の役目だったのだが、彼はそれを君に代わらせようとした。そんなことはしなくていいと私はとどめかけたが、君は「はい」と返事して、傍らのワゴンからボトルを選び出した。
 やわらかな間接照明が、君の肩に落ちていた。絹糸の髪が炎を含んだように光っていた。君に侍童(ペイジ)の真似をさせるつもりは毛頭ない…が、無言で飲み物を作る君の仕種は美しすぎた。きちんと結ばれたネクタイの襟元がかえって一種禁欲的な、逆毛を撫でられるような官能のさざめきに満ちていた。グラスに氷を入れ、酒を注ぎ水を注ぎ、銀のマドラーでステアする君の指は、虹色のペルシャ王宮の、王の間に仕える美しい奴隷さながらで、私は知らぬまに、半裸の君の足首に繋がれた純金の鎖を、呪わしきこの胸に描いていた。
 異国から、贖(あがな)われてきた青年。美しさゆえに船の漕ぎ手を免ぜられ、あまたの宝玉とともに王に貢がれ差し出された。月に透ける紗の布を一枚、下肢にまとうことだけが許されている。王の欲望を満たすため、常にかたわらに控えさせられ、残虐な王は君の額髪を掴み、時には頬を殴打さえする。弾力のある唇は裂けて鮮血を滴らせ、傷ついた唇で君は汚溽を飲み干し、遊び飽きた王の手で冷たい床に放り出される。真珠色の満月の夜に、浜辺で唄う故郷の歌は、風のない波間を渡り、その果ても知らず漂うていく…。
「君は、マチスの緑をどう思う、拓。」
 突然、柏崎が言った。君は黒いレミの瓶を片手に持ち、ちらりと彼を見上げた。マチスの絵とフローラルにおいて、ベーシック・グリーンがいかほど大切であるかを、柏崎は尊大に語り始めた。君は、深く刻みこんだような二重の瞼を伏せ、さあ僕には…と首をかしげながら、私のグラスに酒を注いでくれた。柏崎はさらに、「若い君のことを先生もこうして買って下さっているのだから、自分の意見も段々に述べるようにしなければならない」という意味のことを、まるで自分が彼の師であるかの如くに説いた。君は伊東のグラスにオレンジスライスを落とし、それをコースターに戻しながら、
「僕は…大観の青が好きなんです。」
「たいかん?」
 柏崎はおうむ返しに言った。
「ええ、横山大観…。」
 君は、最後に自分のグラスにロックアイスをひとかけら加え、水晶と化したその氷が、光を反射させるさまを楽しんでいた。全員が、なぜか言葉を凍らせた。日本画の巨匠、横山大観。マチスの話を得意気に振って、こう返されるとは柏崎も、夢にも思わなかったに違いない。君の才気の鋭さに、私は喝采したい気分だった。
 はるかいにしえの南北朝の世。年若き天才・世阿弥と出逢うた、時の将軍・足利義満。彼の喜びが時を超えて、私の心に去来していた。若さと、美貌と、ほとばしる才と。これらを兼ね備えた私の君が、能の衣装に金扇をひらいて、幽玄の舞台に舞うさまを、私は密かに想像した。
 

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