【(Xー1)年十月三十一日】
教室に君の姿が見えなかった。
普通の生徒に関してなら平気で尋ねられる何でもないことが、君が相手となるとなぜか急に、私はぎくしゃくしてしまう。『彼は今日は休みなのか』と、それだけ聞くのに私は、ずいぶん神経をすり減らした。君と親しい三枝君にやっとの思いで尋ねると、風邪で寝てるそうですと、意外な答が返ってきた。
病気だったのか。
そういえばおとといの講義中、君は時々咳をしていた。妙に乾いた、苦しげな咳だと思っていたが、あの時から熱があったのかも知れない。
病院には行ったか? ちゃんと食べているか? 部屋で一人辛そうに咳込んでいるかと思うと、この身が引き裂かれそうな気がする。行ってやりたい。林檎と蜂蜜と少しの酒と、心を落ち着けるハーブの花を携え。ベッドでだるそうに目を閉じている君の、口にくわえた体温計を抜き取り、白磁の額に掌を当てて…。
行ってやりたい、全てを捨てても。けれど私は失うのが怖い。立場をではない。世間でもない。おそろしいのは君の拒絶だ。美しいその眉を、嫌悪でしかめられることだ。この想いを告げたが最後、君は私から去っていく。私が失う最大のものは、愛する君、本人なのだ。
今はただ眠れ。深く静かに、傷ついた豹のようにうずくまって。禍(まがごと)は私に放り投げてよこせ。君が眠る洞窟を、あまたの木々が隠すであろう。雪も風も星の光も、君の眠りを侵しはすまい。
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