【X年一月十四日】

「失礼します。」
 聞きまごうはずのない声が学長室に入ってきた時、私は思わず書類をとり落としそうになった。君が私の部屋に来るのは初めてのことだ。君は閉ざしたドアのすぐ前に立って、よろしいですかと尋ねた。よろしいも何もない。君は全てに優先する。君はクロッキーノートを広げ、作品のプレスケッチを見てくれと言った。『彗星』と『走る雲』の二点を君は用意していた。ずいぶん早いねと私が言うと、
「お手伝い、させて頂くわけですから、自分のことはなるべく早くやっちゃわないと。」
 …これほど嬉しかったのは久し振りのことだ。君と会えなかった長い時間を、私は不安とともに過ごしたのだ。去年最後の君の様子は、思えば決して快さそうではなかった。断れずに渋々OKしたのではないか、よく考えたがやはり辞退するなどと言われはすまいか。今が今まで私は、そんな心配をしていたのだ。
 君のデザインは、いつも大胆でかつ繊細だ。放埒なくせに古風な君の特性を、何よりも作品が物語っている。思わず息を飲むほどの斬新さと、ウェットで暖かい眼差しの共存。百八十度の個性を併せ持つ君のデザインは、私をすら凌駕しそうなエネルギーに満ちている。今回の二作品はともによい出来だったが、特に『彗星』…あれはいい。生命の孤独と希望を、宇宙の旅人にうつしとったような作品だ。あれほどのものを創れる君は、やはりこの世のどうしようもない愛(かな)しさを、その若さですでに知っていると思わざるをえない。
「下見…いつ行くんですか。」
 君は聞いた。去年私が言ったことを、ちゃんと覚えていてくれた。私はオークラへダイヤルし、担当者を呼び出した。保留音の間に君に、まずい日があるかと尋ねると、アルバイトを調整するからいつでもいい、ただあすあさっては無理だと君は答えた。
 十八日。オークラの担当者にも確認して、私たちはそう決めた。君を伴って会場に行く。我ながら呆れるほど浮足だっている。気高きフローラ、花の女神よ。私は愛する彼とともに、あなたの神殿に旅立とうとしている。
 
【X年一月十八日】

 蘇枋の間の下見のため、君とホテルオークラへ行った。
 出がけにFA理事会から電話が入ってしまい、私は待ち合わせに五分ほど遅れて行った。ボーイにキィを預けロビーに急ぐと、君は正面のソファーに脚を組んで座っていた。目が合ってすぐに立ち上がった君は、黒いエナメルのジャンパーに同じく黒のセーター、胸ポケットには時季外れのサングラスをのぞかせて、髪は後ろできつく束ね、穿いているのは汚れたGパンという恰好で、私は一瞬、よくそれで堂々とこのロビーにいられたなと、実に下らない感心をしてしまった。
 二人きりのエレベーターは、私には特別な空間だった。そうやって髪を束ねている方が長身に見える。スーツの袖からワイシャツをのぞかせ、きっちりネクタイを結んだときと、こういうラフでワイルドな装いをしたときと、君はみごとに別人になる。それぞれに美しく魅惑的であることは言うまでもないが、いったいどれが本物の君なのだろうかと、迷ったり考えたりするのが私は楽しかった。
 蘇枋の間には、オークラ側の担当者である岩田君が待っていた。披露宴にパーティーに発表会と、さまざまに供される中広間は、テーブルも壇もみな取り払われた、のっぺりした素顔でそこにあった。君はフロアの中央に立ち、ポケットに両手をつっこんで天井を見上げ、ぐるりと部屋中を見回したあと、いきなり床にしゃがみこみ、電源はどこだと岩田君に聞いた。壁のそこと、あそこと、あとはポップアップ式のコンセントが床に点在していると言って、岩田君は一つずつ指で示した。君は四つんばいになって、それらのありかを確認していた。なるほど動きやすい恰好をしてきた訳だと私は思った。君はそれから岩田君に、天井からピンスポットを釣れないか、スタンド式のシーリングはないか、ホリゾントは何色使えるか等々の質問をした。照明。君が非常に知りたがっている設備。私は興味を覚えた。君は何をしようとしているのか、どんなアイデアを持っているのか。萌え出る若葉のような君の創造力は、いったい何をつくりあげていくのだろう。
 岩田君は持っていたファイルの中から、一枚の紙を抜き取った。蘇枋の間の見取り図だった。天井にはクリスタルのシャンデリアが付けられているので、上からのライティングはこれ以上不可能だが、それ以外は対応できると彼は答えた。君の質問はさらにテーブルに及び、高さも大きさもさまざまに異なるものを、用意できるかと彼に尋ねた。真剣な横顔だった。見つめながら私は、全てまかせて大丈夫だなと確信した。
 カメリアでコーヒーを飲みながら、私は君にアイデアを尋ねた。花の海に落ちて溺れているような、もしくは花の迷路を彷徨っているような、そんな会場にしたいと君は言った。フローラルの展示会はどこへ行っても、あの投票所じみた目隠しボード(と君は称した)に区切られ陳列されている。一つ一つが作品として独立できるよう、相殺しあわぬよう、細心の注意を払って並べ置かれている。今度の発表会は、そんな平面的雛飾りをやめて、もっとトータライズされた、巨視的鳥瞰的な立場に立ち、会場全体で一つの大きな美を表現するような、そんな演出をしたいと思う。作品それ自体は、十分に完結した表現世界でありながら、同時に、会場全体を構成するパーツの一つでもあるはずで、花を展示するための会場は、花によって表現されたスペースアートなのだ。自分はそういうものを創っていきたいのだと、君は熱っぽい口調で語った。
 スペースアート。空間の芸術。
 本当ならば…と君は、どこか遠いところを見る眼差しになって続けた。音楽の要素も入れたいが、それでは作品発表会という目的を逸脱してしまう。ゆえに今回は諦めるとして、展示作品がどのようなものになるかは創り手(生徒)の自由だから、全体のことなど考えずに創られてくるそれら『パーツ』を、どう配置して構成するかが演出のポイントなのだと。
 君の見上げる空の高さを、私は知った。フローラルもまた、君にとっては要素の一つにすぎない。
 オークラを出る時の私の、家まで送ろうという申し出を君は、用があるからと明るく断り、風の中へ大股に歩き去っていった。
 一人、部屋に戻って、こうしてグラスを傾けつつ、私は虚しさと同じくらいの、悲しみに向かい合っている。君の歩む道はいつか、私から離れていくだろう。花という同じ素材を手にとりながら、君は私と違うところを目指している。今日、そのことを私は知らされた。
 
【X年一月二十三日】

 発表会のためのプレスケッチ提出期限はおとといの二十一日であったが、手直し不要の者は半分に満たず、私の個別指導の上あすまでにプレスケッチ決定、間に合わなかった者については花材もテーマも、こちらの選定に基づいて制作してもらうと、生徒たちにはそう告げてあった。通常の授業が終わったあと、私は講師室に残り、未決定の者たちの相談を一人ずつ受けていた。やって来たのは六人で、OKを出したのは四人、あとの二人には明日までに、もう一度考えてこいと言った。
 さて帰ろうかと思っていたところへ、どうしたことか君がやってきた。『彗星』を出すよう指示していたし、大きな手直しもなかったはずだ。君はノートを私に見せ、デザインを変更したいと言った。前の案は、雪柳または小手毬で彗星をかたどり、夜明けを表す群青と緑のオブジェをバックグラウンドに配するというものだったが、「このようにしたい」と見せられたスケッチは、より混沌としてさらに密度の高い、激しい葛藤をあらわす内容に変わっていた。のたうつような雪柳の枝。全てを拒絶するかの重厚な花器。直方体を組み合わせた花台とオブジェ。色は『朽葉色に赤茶を混ぜた濃い茶色』、オブジェの表面は『暗く毛羽だった和紙』…。
 私は黙った。何という苦悩と沈鬱。その中で咲きがけの雪柳が、中心の花器に向かって、悲鳴を上げながら突き進んでいく。とりまく壁の無機質な直線。凍えそうな孤独は奈落を思わせ、彗星は痛々しいほど純粋だった。技術や理論を超えたところで、見る者を射すくめてしまう力。君が描いてきた新しい作品には、そんな力が満ちていた。
 何があった、拓。
 私は作品の向こう側を見通している、君の視線の強さを悟った。直すところなどどこにもなかった。君の内面から、ほとばしり出た作品だった。
「この色を出すのはむずかしいが…やってみるか。」
 私は紙面を見つめ、完成を思い浮かべた。
「花器は何を使うつもりだ?」
 これだけの重い世界を支える花器だ。ふさわしい存在感が欲しい。重厚で強靱で、だが粗野や朴訥ではなく、洗練されてしたたかに鋭い、昂然とした存在感が。
「花器ですか?」
 君は復唱し、鉄器に塗料をかけてみるつもりだと言った。だが私は否定した。『感性』にも限界はある。感性だけでは超えられないもの、それが『時間』に他ならない。本物の美術品・芸術品の持つ底知れぬ力は、それらの上に降り積もってきた、長い時間の厚みなのだ。
「私に、任せてくれないか。ふさわしい花器を手配する。ただし、ものについては一任してほしい。」
 君はしばらく私の顔を見ていたが、やがて決心の表情になり、お願いしますと頭を下げて部屋を出ていった。
 私は思案した。本物の魂には、本物の器が要る。力を貸してくれそうな陶芸家の顔を、私は片端から思い浮かべた。志野、唐津、それとも織部にするか…。私は膝を打った。萩がいい。数年前、個展に招かれて見たあの丸い壺型の花器。おしなべて白っぽい肌をもつ萩焼だが、あの花器は茶褐色に、珍しく黒味がかっており、さらに一点に奇跡のような、滅赤(けしあか)色を帯びていた。あれがいい。まるで君の彗星のために、あつらえたような花器である。
 私は書棚から、その時贈られた小冊子を引き抜いた。連絡先が記してある。現代の萩焼の名工・三輪氏。私は記された通りのナンバーを押し、三輪氏の工房にダイヤルした。
 
【X年一月二十四日】

 伊東君が半泣きでやってきた。どうしたのかと問うと、昨夜三輪氏に承諾をもらった『黒曜』に掛ける保険と、それから君が使うといった、雪柳の件であった。
 何を考えているんですかと伊東君は言った。発表会に力を入れるのは判るが、三輪の『黒曜』に千五百万の保険とは。大きな仕事で使うならともかく、内輪の発表会にここまでするのは、いくら何でもやりすぎである。だいいち無茶です雪柳なんて。あの花がいつ咲くのか知らないとは言わせません。青い罌粟を手に入れる方が簡単です。なぜならヒマラヤへ行けばいいと判っているんですからね。でも今この季節に雪柳が、しかも『びっしり蕾をつけてそのうちの二〜三輪しか咲いていない長くて立派な枝』が、地球上のどこを探せばあるのか、教えて下さいと彼はまくしたてた。
 彼の反対は予想していた。だから私は慌てなかった。保険については、済まないがその通りにしてほしい。三輪氏とのコネクションは今後も活用していきたい。名陶と言われながら名品の少ない萩焼を、スクールの名物として印象づけるのもコマーシャル効果があるだろう。雪柳は…そう、これには実のところ私も困っていた。伊東君の見ている前で私は池坊本宗家へ電話し、次期家元に相談したが、さすがに御直下の温室にも咲きがけの雪柳はないという。しかし「真宮さんのところならあるかも知れない」と、有り難い情報を頂戴した。祈る気持ちで電話したところ、あることはあるが貴重品なので、そう簡単には提供できないと、足元を見た言い方をされた。言い値で買うと答えると、輸送費含めて二十万だという。君のためならこの一千倍でも安い値段だが、さすがに伊東君には言えなかった。真宮には委細よろしく頼むと返事をし、伊東君にはこう告げた。
「君は三輪の方だけ手続きしてくれ。雪柳は、私の自費でいい。」
 

その11へ
インデックスに戻る