【X年一月二十五日】
発表会まであと一週間。今日から通常授業は停止して、講義の時間も、出展作品の準備にあててよいことにした。昨日で締め切ったプレスケッチを、君は全てカラーコピーして、めったに使わないミーティングルームに一人で籠り、蘇枋の間の演出をどうするか、実現に向けて詰め始めてくれた。
生徒たちが皆帰った十時過ぎ。私は進捗を尋ねにミーティングルームへ行って、ノックしようとした手を思わず止めた。ドアの中央のガラスを透かして、君の姿が見えた。君は室内の机も椅子も全てたたんで前に寄せ、床だけになったそこに一面プレスケッチを並べ、一人それらと格闘していた。
岩田君からもらってきた見取り図を拡大したものが、壁に貼りつけられていた。走る雲がこっちで、春の夜の夢がこっちでと、君の独り言を私は漏れ聞いた。ここにこれをかためて、ライトは下からこうだろ…と、君はあたかも舞台上でパントマイムをする如く、あちこち動き回っては位置を決め、角度を変え、首をひねり、腕を組んで唸っていた。
創作(クリエイション)。
いま君を、とらえて離さぬ神の意志。
私はドアの前を立ち去り、講師室に戻って、私自身の作品のスケッチを描き始めた。君に演出される空間の、これもまた一要素となる作品だ。見せてやろう。君がどんなライトを当てようと、どんな位置にこれをしつらえようと、自己の存在を高らかに名乗り上げられるだけの、本物のフローラルを見せてやる。あらゆる光に屹然とあい対しうる、七色の炎を表現してみせる。私の全てだ。葛生高明の作品だ。受けとめてほしい。きらびやかなその才で。
【X年一月二十八日】
花材搬入は明日の予定だ。ほとんどの生徒がバックグラウンドの製作を終え、花器も用意して、あとは花材を待つだけの状態になっているのに、会場の構成にかかりきっていた君は、いまだ自分の作品には何も手をつけていなかった。テーブルとライトについて、準備してもらう事柄を岩田君に申し送り、ようやく手のあいた君に私は、引き続きミーティングルームを使っていい、教室より集中できるだろうと言った。君の時間は今日を入れて三日しかない。発表会前日は全作品を会場に搬入しての、最終チェックをしなければならないからだ。
「徹夜していいですか、今夜。多分帰ってたら間に合わないんで。」
和紙のロットを重そうに抱えて君は言った。もちろん私は許可した。
駐車場から見上げると、ミーティングルームの窓にだけ明かりが灯っていた。君は今この瞬間も、あの部屋で自分と戦っている。自己の内部を形にうつして表現する、創作者の苦しみに全身全霊を曝している。
選ばれた者だけの苦悩だ、拓。いま君は十字架を背負い、ゴルゴダの岡へ登っていく。茨の蔓が胸に腕にくいこんで、細い血の糸を垂らすであろう。あえぎながら、うめきながら、君は登っていく。創造の翼を、持つ者だけに科せられた十字架だ。創る、とは魂の薄皮に爪をたてる行為であり、自分の深層を衆目の前で、ぐさぐさに潰してみせるような跛行なのだ。私には、何もしてやれない。これは君だけの戦いだ。私はただ、この胸の痛みを、君が感じているはずの苦悩を理解しうる、微細だが唯一の手段として、無抵抗に受容するばかりだ。
【X年一月二十九日】
朝八時にスクールへ行った。
仮眠でもしているかと思いきや、君は平刷毛(ひらはけ)を何本も持ち、うち一本は口にくわえて、床に敷きつめた新聞紙の上、熱心に手を動かしていた。額にタオルで鉢巻きをし、髪は毛先の方だけを緩く縛っていた。ノックして中に入ると、君は驚いて振り返り、壁の時計と腕時計とを見て、ずいぶん早くにどうしたのかと尋ねた。決まっているだろう。君が気になって、私もほとんど寝ていないのだ。君は刷毛を缶に放り込み、大きく伸びをして肩をほぐした。
どうしても思い通りの色にならない、と君は言った。先生に言われた通り、この色はそう簡単に出せないかも知れない、ましてやライトの加減では、ただのダークブラウンに見えてしまう。君は溜息をついて首を折り、両腕の間に頭を埋めた。絹糸の髪は徹夜のせいで、いくぶん脂っぽくなっていた。吐息に上下する広い肩には、焦燥感がにじんでいた。やはりあの銀煤竹色は、水彩でも油彩でも出しきれないか。赤みがかって暗く沈んだ竹色と、うっすらと被膜をなすような光沢は。床の上で乾いていく和紙をながめ、私は最後の切り札を出した。
「岩絵の具を…使ってみるか? 溶き方からやらなければならないし、混ぜ合わせる必要もある。かなり高度になると思うが…」
君は顔を上げた。目が少し充血していた。口の回りの黒い翳も、当然濃くなっていた。
「それ、使います。使わせて下さい。お願いします。」
真剣な目で君は言った。私は九時になるのを待ちかねて『武蔵堂』へ電話し、必要と思われる全てのものを手配した。乳鉢で摺(す)りつぶすところから君に教え、溶液の使い方も説明した。君のカンの鋭さはさすがで、たちまちコツを掴んでしまった。幾度か失敗しながらも、陽が沈むころには君は、とうとう美濃和紙いっぱいに、求める色を塗りつくしていた。荒れるから手袋をしろと言ったのに、君は素手で絵の具を扱っていた。昼にパンをかじっていたが、それ以外は胃に入れていないはずだ。午前〇時を過ぎてまだ、帰る様子のない君に私は、今夜はもう帰れと、あえてきつめの命令口調で言った。若さにまかせて徹夜を続けたら、気力も体力も衰えてしまう。そんな余裕のない状態で、豊かな作品を創れるわけがない。つまらないポカミスをするのが落ちだと言いきかすと君は、
「…わかりました。」
無愛想に言い、上着をつかみバッグを持って、さっさと部屋を出ていってしまった。私は驚いた。厚いその唇をぷくっと突き出して、拗ねた子供のような膨れ顔を、君が見せたのは初めてだった。何のはばかりもないぶっきらぼうな言い方。機嫌を損ねた我儘坊主の、突然の身勝手な振舞い。私は窓から道を見下ろした。ずんずんと大股に君は、髪をなびかせながら遠ざかっていった。
無礼で気儘な、子供じみた反応に。…笑っていた。私は、嬉しくて笑ってしまった。張りつめた緊張の糸がぷつんと途切れた瞬間に、つい覗いた君の素顔だ。そう思うとなぜか私は、ひどく幸せな気分になった。
【X年一月三十日】
君は十時半に駆け込んできた。お早うございますと息をはずませている君の、瞼が少し腫れていた。今さっき布団をけって跳ね起きたと、言わんばかりの顔だった。君はすぐミーティングルームで作業を開始し、私は業者によって次々運びこまれてくる、花材の仕分けに忙殺された。
午後になって様子を見に行くと、君は彩色を終え、直方体のオブジェを作っているところだった。何種類の粉を混ぜ合わせたものか、毛羽立ち豊かな和紙は見事な煤竹色に染まっていた。刺激の強い塗料が、やはり皮膚を冒し始めたらしく、指が痛いのかそれとも痒いのか、君は腰の脇にたびたび、掌をこすりつけていた。
『黒曜』は夕方届いた。二重に詰め物をされた段ボール箱を開けると、黒々と墨書された桐箱があらわれた。開けてごらんと私が言うと、君は手が汚れていないかをよく確かめ、紐をほどき、蓋をはずした。枯淡にして美麗な萩の器が、私たちの前に姿をあらわした。すげえ、と君はつぶやいた。掌で包んでそっと持ち上げ、上下左右から君は『黒曜』を眺めた。角度によって釉薬の光り方が違う。君はそれを確かめながら、仕上がったばかりの花台に乗せた。よい出来だった。ここに雪柳を一枝挿したら、さぞかし素晴らしいだろう。私は満足した。だが君は、自分で自分を抱くように腕を組み、親指でしきりに唇をこすって、しばらく物思いにふけったあと、
「…駄目だ、ボツ!」
そう吐き捨てて、床にとり散らかっている絵の具の間にあぐらを据えた。背景のオブジェにつけたごく微妙なグラディエーションを、全て取り払うと君は言った。小細工はやめた。あの花器を前に浅知恵は通用しない。君はそう言い切って、再び乳鉢を抱え、色の塊を摺り始めた。私は黙々と動く君の背中から、『黒曜』の回りを取り囲んでいる、一連のオブジェに目を移した。確かに右方向へ行くにつれ、かすかに色調が変わっている。この微妙な変化をつけるのは並みの作業でなかったろうに、たった今君はそれを、全部捨てると決めたのか。
『黒曜』のせいだ。あの器は君に向かって、自分を超えろと命じたのかも知れない。その位置に満足するな。もう一段高くへ昇れ。君ならできる。美しく強い十本の指をもっと深部まで傷つけて、より高いところへ昇ってこいと。
今夜また、君は眠らずに作業するのだろう。私ももう止めはしない。私は学長室に花器一式を持ち込み、あす創る花のイメージを仕上げた。生身の花は、夜創ってはいけない。明日が勝負だ。君の彗星も、私の『焔(ほむら)』も。
【X年一月三十一日】
全作品を会場に搬入。展示並びに最終チェック。
君は朝一番で蘇枋の間へ向かい、岩田君を初めとするホテルスタッフとともに下準備をしてくれた。生徒たちもスクールのスタッフも続々と会場を訪れ、蘇枋の間は昼のいっとき、火事場のような騒ぎになった。君はTシャツを肩の付け根までまくり上げて、生徒たちの間を走り回っていた。誰の作品をどこへ並べるかプランニングしたのは君なので、指示する役は君以外に、つとまる者がいなかった。
その大騒ぎのさなか、雪柳は正午に届いた。真宮がもったいぶったのも納得できる、まことによい枝であった。雪柳は扱いにくい素材で、細くて多い小枝の処理に悩まされるとともに、もう一つ最大の欠点は、矯めのきかない太い幹が、非常に脆(もろ)く折れやすいことであった。だがこのしなやかに浅い半月形の反りには、いかなる文句もつけようがなかった。君は花鋏を握る手に力をこめて、水揚げのために根もとを割った。すでに手つきは玄人だった。
深い水桶に枝を浸け、君は作品の配置作業に戻っていった。生徒たちのほとんどが会場から引き上げたあと、君は岩田君に手伝わせて、ライトの設置を始めた。フロアのちょうど中央には、私のための花材が整えられた。さあ、いよいよ私にも、創り始める時が来た。
焔(ほむら)。会場の中心で燃え上がる炎。ここ何日かを私は、君の魂のそばで過ごした。君の中に燃えさかる、激しい情熱を写しとってやろう。悩み、うめき、髪を乱し、汗を光らせていた君の横顔。君の輝きに触発されて、私もまた本気になった。クリエイションの苦しみと歓び。君の頭上にやがて贈られるはずのローリエの冠。表現してやる。七色の花で描き上げてやる。君に贈る、私の心だ。
手伝いましょうかと伊東君が言ってきたが、私は断った。誰の手も借りたくなかった。君は設置作業の途中で、手を休め、立ち上がった。花を挿しこみながら炎の形を創っていく私を、君は真剣な目で見ていた。聡明な君の瞳は、くぐるもの全てを自己の内部に取りこんで、何らこぼち落とすことなく、成長の糧にしてくれるだろう。惜しみはしない。必要なものは何もかも、私から奪い取るがいい。
焔は完成した。蘇枋の間の仕上げを君に任せて、私はしばし会場を離れた。VIP客のために用意する別室やディナーなどについて、スタッフと最終打ち合わせが必要だったためだ。さらには、あんな甚六でも親にとっては掌中の珠なのか、塙の両親が品物を持ってわざわざ挨拶に来、その対応に時間をとられてしまって、私が蘇枋の間に戻れたのは、七時をだいぶ過ぎた頃だった。
シャンデリアが灯り、君がしつらえた位置にライトが点けられ、会場は山頂よりはるばると見渡す雲海のような、花と光で埋まっていた。背の高いもの、横に広いもの、流れるもの、吹き上げるもの。私は花の海を漂うた。心の境界が溶け出して、花と一体化するような錯覚を味わった。外側のテーブルから一つずつ見て回り、やがて私は渦の中心に…私が創った焔の前に、何よりも愛しい命を発見した。
パイプ椅子に座り、脇のテーブルに肘をついて片頬を支え、君はゆらゆら打ち寄せる、眠りの裾と戯れていた。先程まで束ねていた髪はほどかれ、額から口元へ流れ落ちていた。瞼の二重の、濃く深い線。彫像のように通った鼻梁。肉感的な唇と細い顎。野生の獣の鋭さと、蕩(とろ)けんばかりの優雅さ。二十四才の青年に対してこの比喩はおかしかろうが、私には目の前の君の寝顔を、『天使』としか称せなかった。
私は足音をたてぬようそっと、ゆっくり君に近づいた。その髪に触れてみたい。白磁の額を指に感じたい。まばゆいばかりの才を駆使して、この空間を演出しきった君。いけあげた雪柳の、それ自身命を持つとしか思えない躍動。才能とエネルギーを一個の肉体に閉じこめて、君はいま何ら警戒せず、無防備な寝顔をさらしている。罪だ。この私にその姿を、しどけなくさらすのは拷問に等しい。絹糸が肩口で揺れている。かすかに開きかけた唇。君の息、体温…。伸ばそうとした手のわずか数十センチ先で、君の頭が頬づえを外れた。かくん、と落ちて君は目をあいた。心臓が本当に止まるかと思った。君は目をしばたたき、指の背で何度もこすった。その間に私は、姿勢と気持ちを立て直した。君はとろりとした顔を私に向け、「あ、先生」と照れ臭そうに笑った。
「どう…ですかね。」
そう言って君は立ち上がった。眼差しはすでにはっきりしていた。これでいい、よくやってくれたと私は言った。だが一つだけ問題がある。入ってすぐ真正面の位置に、君の『終(つい)の夢』を持ってきてほしい。
「いや、でも、なんかそれじゃ…」
訳知りの、世故(せこ)たけた笑みを君は浮かべたが、私は譲らなかった。訪れてくれた人の目に心に、いきなり映ずる作品である。彼らをたちまち釘付けにできるのは、君の雪柳。あれに如くものはない。君は上目使いに私を見、それでも幾分かは嬉しそうに、じゃあそうしますと言った。彗星は正面に独立して置かれ、君は角度を微調整して完成させた。
これでいい。これで完璧だ。
君のものだ。会場全てが君の作品だ。私の焔が中央で燃えている。…そういえばあれにまだ、ライティングがされていない。尋ねると君は笑いを消して、あの花々は自分でもう、光ってるじゃないですかと言った。
愛しているよ。私の拓。
気づかなくていい。踏みにじり飛び立ち奪い去っていい。君の彗星は見る者の胸を、白く突き抜けて輝きはじめる。私の炎は君のために燃える。この世の光を、すべて君に。私の愛する美しき者へ。
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