【X年六月六日】

 さ来週の月曜日に銀座東急ホテルで、第十回日本FAシンポジウムが開かれる。今回のテーマは『フローラルの将来と市場啓蒙』で、私は経営者の立場から、今後求められるであろうアートスクールのコンセプトについて、講演することになっている。話が来たのはゴールデンウィーク明けで、君にまた、助手を依頼したのが先月末だった。日本中の有名フラワーアーティストが集まる席だ。出ておいて決して悪いことはない。
 私には楽しい計画があった。前々から考えていたそれを、このシンポを口実に実現させるつもりだった。今日、私は君を連れて、みゆき通りの英國屋を訪れた。この前の日曜に、主人には電話で通しておいた。多少気難しい青年を連れていくから、ことさらに仰々しい応対をしないでくれ、仮縫いだ何だと大袈裟にすると、君はおそらく固辞してしまう。スーツを一着つくってやりたいと、私はかねがね思っていたのだ。
 さりげなく連れ出すのに一番苦労したが、君は私のシーマの運転席に座り、サイドブレーキを戻しながら、どこへ行くんですかと問うてくれた。私の用事であるかのように店に入り、応接室に通されて、主人が出てきたところで私は、「彼がそうです」と短く紹介した。君は驚いていたが、ここまで来てしまえば主人は客扱いのベテランで、言葉巧みに君を姿見の前に立たせ、細いメジャーを体のあちこちに巻きつけ始めた。手品を思わせるその動作は、ふと邪淫の蠢(うごめ)きを想像させる。首周りを計るために髪を持ち上げられた君の後ろ姿には、女よりも妖艶な色香があった。
 本当なら生地から選んでオーダーメイドにしたかったが、十日足らずでは無理だった。仕方なく半レディメイドで、仕立ててもらう段取りになっている。君は歳のわりにいいものを身につけているが、私に言わせてもらえば少々、軽い。アルマーニだのグッチだの、人気倒れブランドは着せたくない。君なら正統派ダンディズムを着こなせる。デザイナーの名に惑わされてはいけない。君にふさわしいのは本物の良品だ。
 スーツの他にシルクのワイシャツ三着とネクタイ五本を、私は主人に選ばせた。十三日には出来上がるという。極上の絹麻のサマースーツだ。紫陽花を思わせる青紫のシャツと合わせたら、君の美貌はいかほど引き立つであろう。
「こんどのシンポジウムで、あれを着てほしい。必要経費だ、気楽に受け取ってくれ。」
 体中を採寸され終えて、ソファーに戻ってきた君に私は言った。君はいぶかし気にしていたが、迷惑か?と尋ねると、とんでもないと首を振った。
 車を取りに君が先に出ていったあと、私は思いついてカフスピンも足した。君に似合うのはブラックオパールだと思うが、それはいずれ誕生日にでも、心をこめて贈らせてもらうことにしよう。
 
【X年六月十六日】

 日本FAシンポジウムが催された。
 開始は十時だが私の講演は、昼食後の一時半からである。君は協会長の開催挨拶だけを私の隣でおとなしく聞いていたが、プロジェクターの準備があるからと言って、そのあとすぐに席を立った。
 講演のための資料は、今どき古めかしいOHPなどではなく、パソコンを利用しようと言い出したのは君であった。自慢ではないが私は、あのキーボードという物を見ると頭が痛くなる。資料そのものを作ったのはスクールの女子事務員だが、君はパソコンを操ってそれをナントカに変換し、私には何が何だかさっぱりわからない魔術のような画面を、鼻歌まじりで楽しそうに操作していた。
 そうやってまとめたフロッピーを持って、君は楽屋裏に姿を消し、とうとう午前中いっぱい、席には戻ってこなかった。紺のシートは主を待って、ぽつんと寂しげにしていた。
 昼食時間になった。私は君を探しに行き、スタッフルームですぐに見つけた。上着を脱いでワイシャツ姿になり、君はパソコンに何かカシャカシャ打ち込んでいた。シャツの袖口にはカフスが光っている。君は「おかしいな…」と舌打ちして首をかしげた。そばで見守っていた従業員が、とにかく時間がないから壇上へ運んでしまいましょうと言って、襖ほどの大きさのプロジェクターと、パソコンテーブルのキャスターロックをはずした。押されていくそれらを君は腕組みして見ていたが、やっと背後の私に気づいてくれた。何がうまくいかないのかと尋ねると『解像度』だという。講義のテーマがフローラルの将来なのだから、資料もマシンを使ってスラスラ提示しなくては駄目だ、表示される画面も判りやすくてセンスのいい、綺麗なものでなければと君は言った。まあ、とにかく映るだけ映るならそれでいい、食事に行こうと私は言った。君は腕時計を見、食事はいらないと言った。あの機種ならMAXで1024の解像度が出せるはずだから、もう少し挑戦してみますと言い残し、君は出ていった。
 凝り性の君らしい、と私は納得し、ダイニングに向かった。久しぶりで仙台の田辺さんに会った。彼は久闊を叙したあとすぐ君のことを話題にし、大した美青年だがどこぞの御曹司かと尋ねてきた。私はわざと答えなかった。謎めいた存在にしておきたかったからだ。京都の椎葉さんもコーヒーカップを持ってこちらのテーブルに移ってきて、君をてっきりモデルだと思ったと言った。両人とも生徒を持つ身である。私をさぞ羨ましく思ったに違いない。
 一時半になり、私は君と二人で袖に待機した。こうした場は初めてではないがやはり緊張する。小心者らしく心臓をなだめている私に君は、
「先生、深呼吸深呼吸。手のひらに人って書いて飲み込むといいですよ。」
 そう言ってウインクしてみせた。壇上では司会役が、私の名前と略歴を紹介しだした。合図を受けて私は歩み出た。君は少し後からさりげなく登場し、椅子に座ってパソコンに向かい、コンダクターを見るピアニストのように私に視線を当てた。私は用意してあった原稿を読み上げた。私が腕を動かすだけで君は、プロジェクターの資料を順序よく切り替えてくれた。図と写真とグラフが鮮やかに入れかわり、午後一番の最も眠い時刻、聴講者はおそらくこの資料のおかげで、居眠りせずに済んだだろう。締めくくりを述べると大きな拍手が起こった。私はコンサートマスターを称賛するべく君を見たが、一礼だけして君はさっさと引きこんでしまい、私は喝采の中、孤独であった。
 次の講演まで十五分の休憩時間に、私は君と二人ロビーを歩きながら、手伝ってくれて有難うと礼を言った。いいえそんなと君は笑った。このあともう二つ講演があって、五時から六時は懇親会。あとは三々五々連れ立って情報交換会というのがお決まりのコースだが、先刻田辺さんと椎葉さんに、君も交えてぜひ夕食をと誘われている。田辺さんは仙台で最も大きいスクールを持っており、椎葉さんは京都市の博物館で理事をしている。ともに有力者であり君には紹介しておきたい。それを伝えると君は、今夜はちょっと用があるので遠慮させてくれと言った。しかし将来必ず君の助けになるはずの人物だ。なんとかならないかと私は食い下がったが、君は肩をすくめ、
「ちょっと…もう予定入れちゃったんで。」
 笑う表情が意味ありげだった。
「デートか?」
 尋ねると意外にも君は、素直にそうですと答えた。私はとっさに、
「…そうか。それはお邪魔できないな。」
 本心とはまるで違う言葉を吐いた。偽善者。卑怯者。心の中でもう一つの声が、私を痛罵した。
「どこで会うんだ。六時で間に合うのか?」
 私の葛藤に気づくはずもない君は、あっさりと言った。
「時間は大丈夫です。場所は…どうにでも。」
 会うことだけを約束した夜。それは体の関係においてのみ成り立つことだ。義理やしがらみに基づく、または気のおける相手との約束なら、場所も時刻もびっしり定めておくはずだ。私の心に、鈍い痛みとともに短剣が突き立てられた。血は、まだ流れ出ていない。流したら最後だ。私は平静でいられない。シンポジウムの最中である。取り乱せない。自分を失えない。何にもまして君がいる。発表会以来ずいぶんと私に心を許し、アメニティにもたびたび参加してくれるようになった君だ。私は君に対し、尊敬されるべき師の立場を貫かねばならない。気(け)取られてはいけない、悟られてはならない。私は動揺を隠すために笑い、言った。
「ならばここで会いなさい。部屋を取ってあげるから。」
「えっ…」
 君はじっと私を見て、
「でも…それはちょっと…」
「構わないよ。何を遠慮しているんだ。デートなんだろう? だったら豪華に、華やかにいきなさい。銀座の夜を満喫して、うんと楽しむといい。懇親会が済んだら私は帰るから、余計な気も使わずにすむだろう。」
 話の判る人間を気取りながら、私の心は憤怒に燃えていた。女と会うだと? この私に堂々とそれを告げるか? どんな女だ。若いだけが取柄の白痴美か? 発情した雌猿のような、君の姿形しか見ていない下劣な生物か? 女の口に君はその唇を押しあて、芸術品すら色褪せてみえる美しい裸体を剥き出しにし、広げた女の太腿の間に、細く締まった腰を埋めるのか? 深く突き立て、動かし、その眉をひきつらせて満たされるのか?
 隣に座って壇上を見ている君を、私は視界の隅でずっと見つめていた。さっき君があそこに姿をあらわした時、会場には声にならないどよめきが上がった。ここにいる三百人が一斉に、君の美貌に息をのんだのだ。
 懇親会に移る前に私はフロントへ行って、デラックス・ツインの部屋を取ってやった。こうすることで、私は自分を守った。私は君の情事を知っている。知って、理解して、認め、許してやったのだ。君が今宵どのような痴態を女と繰りひろげようとも、私は寛容に無視することができる。スクールに通ってくる女たちの間で、君の人気は他の追従を許さない。時々数人で連れ立って、遊びに行っているのも知っている。おそらく中の一人や二人に、君は手を出しているだろう。私は君がどんなタイプの女を好むかも判るし、気に入らない相手に対しては、氷の冷ややかさで接するさまも目にしてきた。
 知るとは『治る』の意味である。私は君をしっている。今夜君が抱く、その女よりもだ。
 

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