【X年十月八日(弐)】
 
 ホテルに戻ると、椎葉はロビーで待っていた。約束の六時を十五分過ぎていた。彼はしきりに時計を見、祇園の『花磐楼』に座敷を取ってある、すぐ出られるかと急(せ)き立てた。本当は部屋で少し休みたいところだったが、君に聞くと平気だと言うので、私たちは慌ただしくUターンして、椎葉の部下が運転するプレジデントに乗り込んだ。
「花磐楼とはまた、椎葉さん、そこまでお気遣い頂かなくても。」
 私が言うと助手席の彼は、
「いやいや、私がお願いしておいでをたまわった訳やさかいに。あそこは女将も花の看板持ってはるし、先生が見えるゆうたら、ぜひにと向こうがゆうてきはったくらいや。」
 私が苦笑していると、君は「先生、先生」と私の袖を引き、
「ハナイワロウ、って何ですか。祇園っていうと、もしかしてあの、いわゆる祇園…?」
「そうだよ。しかも一、二を争う茶屋だ。赤坂新宿がどんなに東京で頑張っても、祇園だけは別格だ。一見客は絶対に入れない。」
「舞妓(まいこ)さん…とか、いるんですよね。」
「ああ。」
「そんなとこ、僕まで連れてってもらっていいんですか。」
 小声の会話に椎葉は割り込み、
「へぇ、もうそりゃあねえ、お若いうちから旦那遊び覚えはったら末恐ろしいもんがありますやろけど、今夜は、ほんまの意味での粋すじ、十分に味おうて下さい。祇園で遊びはったら、もう日本中、こわいもんなんかあらしまへん。」
 椎葉の台詞は正しい。祇園の格式は他とは桁が違う。昔のようにそう簡単に旦那を持つ時代ではないが、君にふさわしいのは祇園一の芸妓(げいこ)の、柔肌かも知れない。ぼってりと厚い西陣の帯を解くならば、男としての君自身をも、一流の水が洗ってくれるだろう。女の脱いだ長襦袢を、戯れに片肌にうちかけた君の姿は、玻璃の香炉に立ち昇る妖しい煙さながらだ。君と女がくるまる布団は、滑らかに冷たい縮緬(ちりめん)がいい…などと、そんな馬鹿げたことを私は、プレジデントのバックシートで考えていた。
 花磐楼の座敷に、私たちは通された。椎葉が女将にどう触れ込んだのかは判らないが、三味線に笛、鼓まで入った美麗な舞いが我々をもてなし、絵草紙から抜け出てきた白塗りの京人形は、桜色の指を揃えて、おいでやす、と微笑んだ。
 髷替(わげか)えをしたばかりの糸菊という舞妓が、君に酌をしていた。歳の頃はおそらく十六〜七だろう。紅葉を型どった花かんざしを揺らして小首をかしげられると、この私でさえもつい、見とれずにはいられなかった。咲きがけの蕾を思わせるその美少女が、君に注ぐ視線はほのかに甘かった。祇園花街の客は中年以上、権力も財力もあって若さだけを持たない、そういう男たちで占められているだろう。君のような、貴公子または若武者と呼ぶべき、美青年に会う機会はむしろ少ないのかも知れない。
「あたり前だけど、踊り、上手だよね。」
 酌を受けながら君が言うのが聞こえた。
「僕なんか、こういう…なんていうの、日本舞踊は全然わかんないんだけど。でも、いいか悪いかはわかるからね。なんかすごく、君の踊り、好きかもしんない。うん。」
「へぇ、おおきに。」
 白粉を塗りこめた頬に、ぽっと薔薇色がさした。注がれた酒を、君もまた嬉しそうに飲み干した。
「よろしおしたなぁ、糸菊。えろう褒めてもろて。」
 地方(ぢかた)で三味線をつとめた姉役が、糸菊の後ろににじり寄って言った。千代菊と名乗るその芸妓は、藤紫に墨絵の菊の着物で、さあ、と盃を促し、若い糸菊を補佐するように、君の隣に座をしめた。
「先生…先生ちょっと。」
 椎葉が私に耳うちした。
「見とくなはれ。千代菊に気に入られるとは大したもんどすなぁ、あのお若衆は。左千代菊、右糸菊と…。ご贔屓(ひいき)筋が見はったら、こりゃ、びっくり仰天しはるに違いおませんわ。」
 二人の女に挟まれて、君はわずかに恥じらうような笑みを浮かべていた。座敷遊びは特殊な道楽で、これに精通するのは容易なことではない。クラブやキャバレーで浮名を流して、安っぽい夜の帝王を気取る男など、祇園の方で相手にしない。むしろ君のように『擦れ』のない、どこか清潔さのあるタイプが、彼女たちにとっては希少種なのだろう。芸妓から見れば君はおそらく、『上物』と評される男なのだ。
 勧められるまま私も盃を重ね、酔いはだんだん深まっていった。ふわふわと心地よく揺れ始めた視界で、君の笑顔が大写しになった。そうだ、何かの機会を見て、今度は和服を贈ってやろう。肌も染まりそうな大島のお対を着せて、その席に座らせたらもっと栄えるだろう。さっき想像しかけた長襦袢姿も、ぞくぞくするほど蠱惑的だ。男娼の本場・サンジェルマンの紳士たちが見たら、目の色変えて殺到する。あるいはまた別の趣向で…と、酒が私の空想を増長させていた。緋縅(ひおどし)の鎧も似合うだろうね。髪を下ろした戦さ装束。壇ノ浦に散った平家の武将。浅縹(あさはなだ)の水干(すいかん)の、稚児姿も美しかろう。
 かたわらの芸妓に生返事をしつつ、私は君の艶姿に淫していた。胸の内の光景をもしも君に知られたら、いい加減にしろと激怒されるに違いない。全ては今宵の酒のせいだ。祇園の夜のつややかさが、私の箍(たが)を緩めていた。
 

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