【X年十月九日(壱)】
 
 ホテルのダイニングで朝食を取っていると、君が下りてきた。お早うございます、と挨拶して椅子の背に上着を掛け、自分のトレイに数皿を選んで来て、君は私の前に座った。おそらくは洗いたての髪が、窓から差し込む光にきらめき、爽やかな表情で君は、トマトジュースを飲み干した。
「きょう一日で生けこみだが、大丈夫か?」
 私は尋ねた。君はプレーンオムレツをフォークで切り、薄いトーストに乗せながら、
「はい、もう形は出来てますんで。」
 言葉は短く、しかし自信ありげにうなずいた。ワイシャツの襟とネクタイに、朝らしい清々しさがあった。君はトーストを噛み切り嚥み下して、
「ただ、花材にひとつ追加したいものがあるんです。あとで椎葉さんに聞いて、卸元教わったら自分で買いに行こうと思って。」
「追加? いやいいよ。椎葉さんに言って手配してもらいなさい。何か特殊な花材なのか。」
「いえ菊です。大輪の。茎の長い。輝くような黄色の。」
「菊?」
「はい。紅葉(もみじ)使おうと思ってたんですけど、それはやめて、全部菊でいきたいんです。黄色だけの。」
「しかし今回はあえて立華にするんだろう。黄色い菊だけでやるのはあまりに…」
「大丈夫です。」
 君は上目使いにニヤリと笑った。
「ちゃんと考えてますから。」
「…」
 私はベーコンにナイフを入れている君を、黙って見つめた。まかせてみよう。私はそう決めた。昨日あの鬱金(うこん)の夕陽の中で、君は『秋そのものの姿』がわかったような気がすると言っていた。確かな意匠を、君は既に頭の中で創りあげている。落ち着き払った様子から私にはそれが判った。
 ダイニングを出ると、迎えに来た椎葉とロビーで出くわした。昨夜の礼を言ってから、私は花材の追加を頼んだ。椎葉は一瞬だけ無茶だという顔をしたが、菊と聞いて即、
「ああ、へぇへぇわかりました。今は時期どすさかい、すぐ揃いますやろ。ええと、どのくらい要らはります。お色は。」
 彼はソファーに腰を下ろして手帳をめくった。君も彼の隣に座り、これこれこういうものを、と説明を始めた。私は君に付き添うように座り、広いロビーを何げなく見やった。
 正面玄関の自動ドアが開いて、着物姿の少女が入ってきた。私は、おやっと思い目をとめた。彼女はきょろきょろと誰かを探していたが、私の方を、いや正確には話に夢中な椎葉を見て、ああ、と小走りにやって来た。
「椎葉はん、お早うございます。夕べは、ほんにおおきに。」
 高く澄んだ声に、君も椎葉も顔を上げた。椎葉はすぐに、
「あぁ、ふくちゃんやないか。どないしたんや、こないなところで。」
「へぇ、千代菊姉さんのお使い。若先生にこれ、お届けしてほしい、言わはって。」
『ふくちゃん』はニコッと笑って、胸に抱えた小さな風呂敷包みを、椎葉でなく君に差し出した。君は驚く様子もなく、
「ああ、はい。」
 そう言って手を伸ばし、包みを受け取った。
「千代菊姉さんが、それ、返してくれはらへんでもええ、言うてはりました。若先生のお好きなように、破くなり千切るなりしてもろて、ええそうどす。」
「ほんと?」
 柔らかな布をめくりながら君は彼女に聞いた。包みの中からあらわれたのは、今にも溶けだしそうな瑠璃一色の縮緬の帯揚げであった。椎葉は目を剥いて、
「いや、ちょっと、まさかそれ、千代菊さんが…」
「ええ。僕は、貸してくれって言ったんですけどね? なんか今聞いたら、もらっていいって。」
「はああー…」
 椎葉は放心のていでソファーにもたれ、首を振った。君は彼女に言った。
「ありがとう。お使いさせちゃってごめんね。もしよかったら、コーヒーでも飲んでいく?」
「おおきに、そやけど、うち、これからお稽古あるさかいに。ほな、椎葉はん、今度また。」
 彼女は形よくお辞儀をし、私にも丁寧に頭を下げて、カチャカチャとロビーを出ていった。君は「これでよし」とつぶやき、風呂敷を結んだ。
 おそらく夕べの席で君は、あの千代菊の胸元にのぞいていた瑠璃色の布を見て、それを貸してほしいと頼んだのだろう。彼女は最初、何を言い出すのかと君をまじまじ見たに違いない。やがて君がなぜそれを欲しがっているか知り、気を引くためのざれごとではないと、判ると同時に承諾したのだ。よろしおす、と鷹揚に帯を叩いた千代菊の様子が、私には見えるようだった。
「しかしまあ…」
 椎葉はまだ首を振って唸っていた。
「油断も隙もないとはこのこと… あ、いやいや、よほど筋がよろしおすんやなぁ。」
 彼は立ち上がり、花材手配のための電話をかけに行った。私たちは一旦部屋に上がり、すぐに再び下りていって、椎葉の車で市立博物館別館へ向かった。
 今回私は、エントランスホールの高さいっぱいに、『花錦(はなにしき)』と題した大作を創るつもりであった。材料は全てそろえてもらっていたが、一人でできる規模ではなく、君の力を借りなければならない。
「二時くらいまでには僕、自分のやつ仕上げちゃいますから。」
 会場が近くなると君は、車内で髪をきりりとまとめた。
「下組みはスタッフの方に手伝って頂けるんですよね。そしたらちょうど先生が創りこむ時には終わってると思うんで、あとは全部ヘルプに回ります。」
 掌でこめかみをぴしっと押さえて、ふう、と君は息を吐いた。横顔に気合が満ちていた。自分の作品にかなり、自信を持っている証拠だった。
 椎葉の手配した業者は、ほどなく菊の枝を届けてよこした。上着を脱ぎ袖をまくり、ネクタイまではずした君は、展示室の一隅を仕切って畳を敷いた茶室風のスペースに花材を持ちこみ、正座して背筋を伸ばし、菊だけの『高受(たかうけ)の立華』を生けあげた。菊だけと言っても種類はさまざまなので、黄色のトーンは微妙に違う。菊は葉のほとんどを落とされた奇異ともいえる姿で、真、正真(すぐしん)、見越などの位置を占めた。しかし君の挑戦はこれだけではなかった。君は最後の一枝を挿したあと、千代菊に贈られた縮緬を、花器に斜めに巻きつけた。昨日、平等院で私が語った瑠璃色の宝池を、君は表現しようとしているのだ。
 指定の展示位置にそれを据えおき、君は数歩下がった場所から作品全体を眺めた。私はさらに背後に立って、君に言った。
「いいね。いい作品だ。」
 君は振り向き、嬉しそうに笑った。
「昨日の夜、こうしようと決めたんです。」
 君は私のところへ歩み寄ってきた。
「紅葉じゃあ、あまりにもまんまで面白くないですよね。代わりに全部菊にしようと思って、でも何かもう一つ、『うわ!』っていうポイントがないか考えてたんです。で、千代菊さんの着物見て、『これだ!』って思ったんです夕べ。」
「うん。あの布が個性になっている。立華の『形』にまっこうから対面して、いい意味での『崩し』になっているね。」
「千代菊さんありがとうー!」
 君は声をあげて笑い、
「さてと…それじゃあ、お手伝いします。先生の大作。」
 きらきらしい瞳を私に向けて、言った。
 下組みは博物館のスタッフによって仕上げられていた。天井からワイヤーで幅三メートルの茅格子(かやこうし)を釣り、床側は玉砂利で固定してある。ホール中央に出現した柴色(ふしいろ)の巨大な壁に、京友禅を織り上げてやろうと私は考えていた。伝統の形から現代的な躍動感にたどりつこうとする君の作品の、図らずもほぼ逆を行くことになる。私は、完全に現代式のフローラルアート手法で、いにしえの香気を表現するつもりだった。
 私は背よりも高い脚立によじ登って、花材を並べた床にひざまづいている君を見下ろした。
「まずは流れを決めるから… その萩を。小枝は少し空(す)いてくれるか。」
「はい。」
 君は花鋏を自在に操り、私が望む形に枝をしつらえて手渡してくれた。滝のように枝垂(しだ)れる小花の重なりが、絹織物の質感を、見る者に伝えてくれるだろう。
「撫子。一かたまりに握って、根元に藁をかけてくれ。」
「はい。」
「鋏。」
「はいっ。」
「小刀(こがたな)。そっちの… 刃の細い方だ。」
「これですか。」
「そう。それに紫式部と梅擬(うめもどき)。あとは白桔梗、蕾のないもの。」
「ないもの? ないものないもの…。」
 君は私の指示通りに動き、私の作品は、君の力を借りてどんどん命を帯びてきた。野分(のわき)。すだく虫の音(ね)。流水がつなぐ友禅の文様。糸の影、花の気配。私の内部を通り過ぎる風が、茅格子に吹きつけて花々を揺らす。千年の春と秋。君の立華があの空間に描こうとしたものを、私は私の手法で創り上げてやる。伝統と現代。歴史と未来の融合を。
 最後の一枝、吾亦紅(われもこう)を床のきわにあしらうと、『華錦』は完成した。満足とともに、激しい疲労感が私を襲った。三時間半、私は枝を切り、花を挿し、形どり続けていた。手描き友禅の美しさと気高さが出せたかどうか、決して自信はなかったが、全力を尽くしたという達成感は強かった。
「お疲れさまでした!」
 君は束ねた髪を尻尾のように揺らして、私に大きく礼をした。
「君こそだ。ありがとう。君のおかげだよ。本当にご苦労だった。」
「すごいですね。あれだけあった花、ほとんど全部使ってるんですよね。京友禅の世界か…。いいですね。好きです、僕。」
「そうか。」
 君は床にしゃがんで、散らかったものを片づけ始めたが、合間に右手の指先を、くわえたのに私は気づいた。
「どうした。怪我でもしたか。」
「いえ、さっき梅擬を輪にした時にちょっと。平気です、かすり傷ですから、舐めときゃ治りますよ。」
 ビニールシートの上には、使わなかった枝が数本だけ残っていた。君はそれらを取り除けて一つにまとめ、濡らした新聞紙でくるんだ。やがてどこからか椎葉がやって来た。彼はどうもどうもと近づいて来ると、できあがったばかりの『華錦』を見上げ、
「はっはぁ、いやこりゃさすが、大したもんどすな。」
 言い方は俗っぽいが、いやしくも博物館の理事である彼は、ただのお世辞を追従で口にする凡人でもない。機会を与えてくれてありがとうと、私は改まって礼を言った。
「いやいやこちらこそ。先生のこの大作に、来場者はまず目を見張りまっしゃろ。」
 椎葉は言い、壁の時計を見た。六時を回っていた。
「先生がたは、お帰りは明日でっしゃろ? このあとのご予定は。」
 おそらく食事にと言うだろう彼に、私は先に辞退を告げた。明日からの展示会に向けて、実行委員長の彼は何かと忙しいだろうし、今日生けこみに来ているのはもちろん私たちだけではない。第一きのうあれだけ散財させて(たとえ博物館持ちの接待費だとしても)今夜もまた、では申し訳ない。それに、できれば今夜は君と二人で、ゆっくり話がしたかった。
「ほな、ホテルまでお送りさしてもらいます。ちょっと、今、ひとりお客さんが来てはって、そちらが済んだらすぐ行きますさかい。」
 タクシーを呼ぶからいいと言ったが彼は、いやいやご遠慮なさらずにと言って、急ぎ足で姿を消してしまった。来客の相手をしに行ったのだろう。私たちは全ての片づけを終えて椎葉を待った。なかなかやって来ないので、思いついて会場を見回ることにした。明日の午後には、私は東京に着いていなければならない。残念だが展覧会には顔を出さずに帰ることになる。出展者やスタッフがまだあちこちで忙しそうに動き回っている中、私たちは作品を鑑賞した。
「こういう見方もむしろいいね。他の客に気を遣わず好きなように見られるから。」
「そうですね。」
 上着を着て髪を下ろした君も同感のようだった。
 その時だった。
「先生、ちょっと待っとおくれやす。先生!」
 遠くで椎葉の声がした。会場を細かく仕切っている壁の開口部から、椎葉が誰かを追って走っていく姿がちらりと見えた。何だろう、と私が言うと、
「何か、もめてるみたいですね。」
 君は首を伸ばしてそちらを伺った。私は気にしないことにして、展示されているドライフラワーのオブジェに目を戻した。すると、きのうの晩祇園への行き帰りに運転手をしてくれた椎葉の部下がやってきて、
「すんまへん葛生先生。椎葉がちょっと、急に用事ができてしもて、私が代わりにお送りさせてもらいます。今お車を回しますので、どうぞ、こちら、玄関の方へ…」
「そうですか。では。」
 行こう、と促そうとして振り向いたが、君はそこにはいなかった。椎葉が走っていった方へ、部屋を出ていこうとしていた。
「拓!」
 内輪のトラブルだとしたら首をつっこむのは失礼である。私は呼んだが、君はどんどん歩いて行った。仕方なく私は追った。部下は慌てふためいて、私を追い越し君の背中に駆けよった。追いついたところで君は足を止めた。『現代華』の小部屋であった。一人の老人が椎葉と言い合いをしていた。この部屋には君の作品『宝楼』がある。もしやと思った危惧が的中した。彼らが争っているのはまぎれもなく、君の作品についてであった。
 

その17へ
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