【X年十月九日(弐)】
「誰ですあれは。」
椎葉の部下に私は尋ねた。彼はおろおろしながら、
「市の美術連盟の会長はんどす。あしたからの展示会の後援をしてくれてはる…。この別館を造るのもだいぶあのかたの引きがあって実現したことで…。」
その立役者が何のクレームをつけているのか、私は聞き耳を立てた。早口の京言葉なので判りづらい。
「何や、この花は。現代華かこれが。こんなんはただの悪ふざけや。自由華でも何でもあらへん。君ともあろうものが何を血迷ぉとるんや。」
「いえ、ですから今回の主題は、華道の歴史をふりかえるとともに将来像をさぐる、いうもので、そやさかい、こういった伝統的な中に最新の感覚を盛り込んだ斬新な作品は、歓迎すべきものやないかと。」
「斬新? 最近二言目には斬新・斬新、言うけどな、君、何かにかぶれとるんやないか? 第一この切れ端は何や。下品な。菊の葉をここまで落としてしもたら、いっそのこと訳のわからへんオブジェか何かにして、あっちの新進アレンジメントとやらの中に放り込んでおいたらよろしがな。」
君の背中を私は凝視した。表情が見えない。君は凍りついたように動かなかった。
作品に込めた君の意図が裏目に出ていた。年老いたあの会長には、立華の形式を一見精緻になぞりながらも、肝心な基本は全て無視している『宝楼』の意図を理解できない。花器に布を巻きつけ台上に垂らすなど華道では許されないし、菊一種の同色生け、葉はほとんど落として茎が丸見えという、そんな生けかたがあるわけはないのだ。これでいっそ華道の決まりを最初から無視した『フラワーアレンジメント』ならば、会長も理解または無視したのだろうが、なまじ立華の形式をとっているだけに、許しがたい邪道と映ってしまったのだ。時も人もめまぐるしく行き交い、流行が日々生み出されては捨てられる東京と違って、ここは、古くいかめしい伝統が幅をきかす、誇り高く堅牢な千年王城の地であった。銀座や渋谷でなら素晴らしいと喝采される作品を、嘲笑ではじき出すくらいは苦もない土地だった。
君が、すっと足を踏み出した。よせ、と手を伸ばそうとした時には、君はもう二人の前に進み出てしまっていた。
「なんかご不満でも。」
君はいきなり会長に言った。聞こえぬふりで作業していた何人かが、ぎょっとして君の方を見た。
「何や。君は。」
会長は君の全身を、上から下までねめまわした。君の長髪も銀のピアスも、老人からすれば非常識だろう。
「これ創ったの、僕なんですけど。何か、今聞いてたら気に入らないみたいだから。」
「君がこれを?」
会長はきつく眉を寄せ、
「いきなり何なんや。失敬にもほどがあるゆうもんや。」
「失敬ってどっちのことですか。」
君は食ってかかった。私は反射的に止めた。
「よしなさい、拓。」
後ろへ下がらせようとした私の腕を、君は押しのけてさらに進み出た。わざとなのか、ひどく高慢な薄笑いを浮かべて、
「なんか、悪ふざけとか下品とか、好きなこと言ってますけど、そうやって文句たれるんだったら、どこが気に食わないのかちゃんと言って下さいよ。答えますよ全部。おふざけでもお遊びでもないって。」
老人は君の勢いに圧(お)され、圧されまいとしてさらに冷たくあざ笑った。
「おい椎葉君。こない、礼儀も何もわきまえへん男に、なんで出展許可なんか出したんや。デパートの客寄せとは訳が違うんやで。大事な第一回めの展示会やで。」
「へぇ、いえあの、こちらは…」
救いを求める目で椎葉は私を見た。
「東京の葛生先生の生徒さんで、私からお願いして作品を出してもろたんですわ。いや、まさかこういう形だとは思いまへんで。」
「葛生先生? どこの流派や。」
老人は私を見た。名乗ろうとした私を遮って君は、
「先生は関係ないでしょう。僕の作品なんですから。」
「まあ、まあちょっと、落ち着いて下さい。まあまあ。」
椎葉が二人の間に分け入った。彼は君をなだめようと肩をしきりに叩いたが、君は別人ではないかと思うほどの強引さで、
「ちゃんと答えて下さいよ、どこが気に入らないんですか!」
「ああああもう…。椎葉君、君が頼んだ、言うんなら仕方あらへん、場所を移しなはれ。現代華のこないあらたまった扱いするさかい、けったいなことになるんや。自由参加の市民のコーナーがあるやろ、あそこやったら…」
うるさそうに手を振って立ち去ろうとした会長の肩に、何と、君は手をかけた。私と椎葉が同時に君の腕を押さえた。老人は恐怖に似た顔で振り返ったが、すぐに口元を歪めて笑った。
「ほんまに東京の若いもんは礼儀も何もあらへん。…どう思われます青木先生、この立華。」
会長は、この騒ぎを遠巻きにしていた老婦人に問いかけた。どこかの華道教授ででもあるのだろう。中年の女が三人ばかり、その婦人の手伝いをしていた。
「へぇ、まあ…ねえ。お若いから仕方あらへんのでっしゃろけど、これはちょっと頂けへんと、まあ、失礼やけど、思ぉてました。」
女は嫌味な笑い方をして、割烹着姿の女たちに「ねぇ」と同意を求めた。三人は一様に首を縦に振った。
「冗談…」
君のこめかみに筋が浮き立った。
「場所移せって…そもそもこの、展示場自体何とかしたらどうですか。ニワトリ飼ってんじゃないんだから、一個一個こんなケージみたいに仕切っちゃって、光とか、流れとか、全然考えてないじゃないですか。」
「拓、よせ。」
掴んだ君の肩を、私は揺さぶった。部屋内に冷笑が広がり始めていた。ここにいるのは伝統の重みを大樹の陰とする輩(やから)だ。唯一新しいものを取り入れようとしている椎葉は、立場上、会長に強い反論はできない。トータライズされた演出を会場全体に施すなど、彼らの頭にはかけらもないのだ。これ以上ことを荒立てても、決して君のためにならない。
「やめろというんだ、聞こえないのか拓。場所が違う。ここは君のフィールドじゃない。わきまえなさい。」
「先生…」
君は、裏切り者を見るような目を私に向けた。話は後だ。今ここで、私たちは絶対的に不利なのである。私は必死で君の目にそれを伝えたが、
「…そうですか。」
君の体から、ふっと力が抜けた。
「フィールドが違う、ね。そうですね。…お呼びじゃない、と。僕は。」
ゆらり、と後ずさって、君は全員を見渡した。『宝楼』が、すぐ後ろにあった。まさかと私は思った。君はくるりと背を向けて作品の台に両手をついた。
「やめろ、何を考えている。」
私は君の腕を掴んだ。君はじっと私を見た。こんな顔をする君は初めてだった。
「気に入らないのに出さして頂く必要、ないですから。俺べつに自分で、出してくれって頼んだ訳じゃないし。」
そう言って君はいきなり、黄色い菊たちを横殴りに払った。花弁が散り、重い花器が揺れた。返す手で茎を握り、一気に込み藁から抜いた。乱暴に引き剥がした青い布を、君はショールのように首に掛けた。
「ご満足でしょ、これで。」
目を丸くしている会長にそう言い捨てて、君は出ていった。私は絶句した。あれほど素直で礼儀正しく、人の立場や世間の建前を理解できていた君が、こんな振舞いをするとは驚天動地であった。スクールの発表会準備の時、無理を重ねる君を叱ると、君は不機嫌な膨れ顔をしたが、あれしきの我儘とは比べ物にならない。先程、君はホールで、生け残りの花をわざわざ新聞紙に包んでやっていた。花材を思いやる繊細さも十分に君は持っている。その同じ手で君は今、菊の花を薙ぎ払った。椎葉や私の立場など一切無視して、若さゆえの固執を振りかざした。遼山翁に気に入られ千代菊に及第点をもらった君が、自己を否定された、ただそれだけのことで、これほどの無謀をしてのけるとは…。
「なんや、話にもならへん。いったいどういう教え方、してはるんやろ。」
誰も言葉を発しなかった部屋で、会長は最初に言った。椎葉は全身これ苦渋といった様子で溜息をついている。青木とかいう骨董品はお仲間たちと、まあこわいこわい、などと笑いながら手を動かし始めた。
「大変、失礼いたしました。」
無礼には違いなかった。私はとりあえず頭を下げたが、
「ただ、その作品で彼が表そうとしたものを、ご理解頂けなくて残念です。彼が表現したかったのは、太古から永遠へと流れていく時の川の、この一瞬のきらめきだったのですが…。ここにあったのは会長。あなたの考えてらした、古くさい立華じゃない。その形を借りた新しい表現だったんです。先入観と固定観念さえ捨てて頂ければ、彼に見えていた時の流れが、会長のお目にも見えたはずなんですが。」
せめてもの一矢のつもりだった。君の悔しさは痛いほどわかったからだ。私は、君が残していった菊の枝を拾い集め、一同をおいて君の後を追った。
君はロビーの柱の陰に立っていた。煙草の煙が立ち昇っていたのでわかった。建物内にいたのか。私はホッとした。出ていってしまったかと、ひょっとしたら京都駅まで行ってしまったかと思った。私は四角く太いその柱の脇に立った。君は無言で煙草を吸い続けていた。
今朝からの君を、私は思い出した。ビュッフェスタイルの皿を選んでテーブルに着いた君は、清々しい朝日の中で、菊だけでいきたいと私に語った。トーストを噛み切る前歯の白さが愛しかった。仕込みさんが届けてきた瑠璃の布を受け取って、よし、と大きくうなずいた額。車の中で君はもう、やる気を溢れさせていた。わざわざ畳に正座して、ぴんと伸ばしていた背中。紅葉では面白くないと思ったと、嬉しそうに語っていた笑顔。それらを奪い取ったあの老いぼれを、私はこの時、心底憎いと思った。
君が、ふう、と深く煙を吐く音が聞こえた。私は為すべきことを決めた。私は今まで自分の心に、足をすくわれていたかも知れない。君の才能がきらめくさまを、一番見たがっているのは私だ。しかし、君の若いエネルギーは、時に暴力的な奔流になる。私の悦楽のために君を、ぬるま湯に浸けていてはいけない。喜びばかりでなく、悲しみも痛みも時には憎しみさえも、君と分け合えてこその『師』ではないだろうか。手放しの称賛は、君にはまだ早すぎる。二十四歳。気品ある独特の色香に隠れがちだが、男として人間として、君はまだ若僧なのだ。私がそれを忘れてはならない。間違っているなら殴ってでも、正してやるのが本当の愛情だ。
「…悔しかったか。」
君は黙っていた。
「数学には解答がある。解けば全て終わりだ。だが花はそうはいかない。答を出すのは、見る者だからね。」
君は無言のまま、首に掛けた帯揚げの裾を、指先でもてあそんでいた。抱きしめて、頭を撫でてやりたかった。だが私が示すべきは、そんな行為ではなかった。
「来なさい。」
低く命じて、私はゆっくりと柱を離れた。無視するかなと一瞬思ったが、足音は私についてきた。スタッフルームのドアを私は開けた。作業卓と椅子だけの室内には、幸い誰もいなかった。君は憮然とした顔で、椅子の一つに腰を下ろした。目はそっぽを向いている。私はテーブルの上に、拾い集めてきた菊を乗せた。君もまた、片手に菊の束を握っていた。
「すぐ戻る。待っていなさい。」
私は部屋を出、先程の展示室に急いだ。椎葉たちの姿はなかった。さしずめ応接室で私たちの悪口でも言っているのだろう。取り残された骨壺のような花器を掴んで、私はとって返した。戻ると君は、椅子に座った両脚を伸ばして踵を床につけ、マリオネットのように交互にリズムをとっていた。私は花器をテーブルに置いた。君はようやく顔を上げた。
「…自分のしたことが、わかっているね。」
感情を込めずに私は言った。君は相変わらず無言だった。
「一番最初に教えたはずだ。花を愛せなければ何も始まらないと。」
腹に力を入れ、私は言った。
「生け直しなさい。もう一度ここで。」
「え?」
君は私を見た。険しい眉をしていた。
「花材はここにある菊だけだ。花器はさっきと同じこれを使って、題は自由でいい。私は外にいるから、出来上がったら声をかけなさい。」
「生け直せって、だって…」
「反論はなしだ。目的は考えなくていい。生け直せ。」
「無理です。」
「なぜ。」
「なぜって…」
「理由はないな。では認めない。ああ、鋏はそこにある。いいな。」
「ちょっ…いいなって、先生!」
「生け直すまでここからは出さない。嫌なら飢え死にするまでそこにいなさい。私もつき合おう。」
「先生、せん…」
駆け寄ろうとした君の鼻先へ、私はドアを閉ざした。外から鍵はかけられない。私はドアに背中を押しつけて、衛兵のようにそこに立った。しばらくドアのすぐ向こうにいた君は、やがて奥へと去っていった。私は時計を見た。七時半だった。朝までだろうと明日の夜までだろうと、ここにいてやると私は決めていた。君には身をもって、教えなければならないことがある。
二十分もした頃、廊下の向こうから椎葉がやってきた。
「ああ、いたいた葛生先生! 何してはるんですかこんなところで。」
細い廊下に、声はよく響いた。
「ああ、ちょっと部屋を借りていますよ。」
「借りてって、この中ですか? 何してはるんです。」
「今、生け直してますから。」
「生け直す?」
「ええ。展示はしてもしなくてもいいです。会の運営はそちらのお仕事ですからね。私たちの預かり知らぬことです。」
「いやその、先生には申し訳ない、思ぉてますけど、いかんせん、さっきのあの騒ぎは…」
「言われるまでもありません。確かにこちらも悪かった。会長にはあとから私が、あらためておわびしますよ。ただ、この部屋はこのまま、少しの間貸して頂きたい。」
「へぇ、まあ、どうせ空いてますからかましませんけど…何時くらいまで。」
「さあ何時になるか。」
「さあって、それじゃ困りますわ。外を閉める時間がありますさかい。」
「ああ、かまいませんよ閉めて下さって。」
「ちょっと、勘弁して下さい。先生…。こんなところで敵討ちどすか? 守衛には前もって言うとかな、なりませんし。」
「何でしたらこの博物館全部、買い取ってもかまいませんが。」
椎葉はあんぐりと口をあけた。ハッタリではなかった。スクールの土地と建物を売り払えば、この小さな別館くらい、丸々素どっかえできるはずだ。私の覚悟を知ったのか椎葉は、帰る時は事務所に声をかけてくれとだけ言って、首を振り振り歩いていった。
…異性を愛することができないと、悟ったのはいつのことだったろう。
学生時代、私は成績もスポーツも中程度で、全く目立たないつまらない生徒だった。美術は好きだったが上手くは描けなかった。もっぱら本ばかり読んでいた。
聡明で快活な少年が一人、同じ組にいた。恋としか言いようのない気持ちを彼に対して抱いている自分を、ある日知って愕然とした。大学へ進み、女友達もできたけれど、どんな美女と一緒にいても欲望はかけらも感じなかった。悪友に連れられて初めて行ったオカ場所で、半ば強制的に女を知ったが、感じたのは身の毛もよだつ嫌悪ばかりだった。初めての『男』はバーで知り合った同類で、彼は私に、受け身の行為を教えた。次の恋人は私に抱かれることを望み、そうして幾つもの闇をくぐりながら、私はその行為の虚しさを知った。命懸けで愛せる存在を、私は渇望していたのだ。
私は、君を導いているつもりで、知らず知らず自分の嗜好の枠の中に、君を閉じ込めようとしていたのではないだろうか。好みの服を着せ私が佳いと思う場所に連れていき、歪んだ欲望の一端を、君によって満たされたいと願っていたのかも知れない。美貌と才と若さに溢れ、好もしい清潔さと古風なまでの折り目正しさ、それらをまるで我が理想の権化のように美化し、君自身の持つ光と影を私好みに拡大解釈して、うつつをぬかしていたのではないだろうか。生身の君はもっと大胆で自己主義で、高慢で、身の程知らずで、無礼で下品で好色で、そしてやはり不可思議なほど美しい。
剥き出しの君を、私は知りたい。君の長所も欠点も全てを包んで愛せるはずだ。お仕着せの常識、望ましいべき論などを、君は哄笑のもとに蹴散らすがいい。私が戦い方を教えてやる。もっとしたたかに狡猾になれ。人を利用し動かすことを覚えろ。それは汚いことではない。自分一人の理想に浸って生きられる時代は、君も私ももう過ぎてしまった。偽善も欺瞞もおためごかしも、君の周りには満ち満ちている。光も影もともに飲み込んで、羽ばたける翼を手に入れてくれ。そう、あの、中堂大棟(おおむね)の鳳凰のように。
どれほどの時がたったのか、私は背中をドアに押されて目を開いた。すきまから君は顔を半分のぞかせて、
「先生、お願いがあるんですけど。…さっき、新聞紙にくるんだ残りの花の中に、紫式部があったんですが、あれだけ使わせてくれませんか。」
「紫式部?」
華錦の残りである。私はホールに走った。スタッフをつかまえて聞くと、残りの花は全部裏口に運んだという。場所を尋ねてそこへ向かい、私は紫色の実をびっしり付けた長い枝を三本持って、君のいるスタッフルームへ戻った。中に入ると君は、短く切り戻した菊を胴束に変えて生け直していた。紫式部の細い枝を少し矯めてから、真にあてがって位置を決め、鋏を入れ、込み藁に差し込んだ。
「できた、な。」
君はこくんとうなずいた。私は作品を見た。可もなく不可もなしだった。お稽古花に近かった。君らしい躍動感はどこにもなかった。しかし、これで十分だと私は思った。ドアを開けたら君は、前以上に素晴らしい作品を生けあげていたなどと、それではまるで小説か映画だ。おさまりきらぬ心の揺れにどうにかこうにか手綱をかけて、ともかく形だけ創ることができれば、今夜はそれで合格であろう。私は君の肩を叩いた。
「これでいい。よくやったな。」
「どこがいいんですか、これの。」
ぼそりと君は言った。私は答えずに花器を持ち上げ、
「おいで。」
そう君に告げて部屋を出た。悪夢のようなあの争いを君が演じた展示室に、私は入っていった。明かりは灯っていたが人影はなかった。ぽっかりあいている君のための空間に、私は静かにそれを置いた。
「答を出すのは、見る人たちだ。私たちにその評価を強制することはできないよ。」
背後の君に私は言った。
「信じるしかないんだ私たちは。自分の心を。作品に込めた想いを。もし正当に評価されなくても、それは自分の力不足に過ぎない。見る者の資格をとやかく言うのは、とんでもない間違いなんだ。」
私はふりかえり、作品を凝視している君を見た。
「信じえるのは自分の作品だけだ。心をすべて余すところなく、作品に込めるしかないんだ。創り上げたその作品を信じて、大海原に笹舟を流すように、手を離すしかないんだよ。」
私は君の、新しい作品に目を戻した。弱さと苦悩が、菊のあしらいに滲み出ていた。
「あの『宝楼』は素晴らしかった。君の感動が手に取るように伝わってきた。君が感じたかけがえのない『今年の秋』が、息づいているような作品だった。前世紀の遺物には、理解できなかったかも知れないがね。」
「えっ…」
「残念だよ。私は、あの『宝楼』が好きだった。あの作品を見たからこそ、ホールの華錦を創れたんだ。君の自信も満足も、眩しいほどだったのに。」
「先生…」
「壊すべきではなかった。拓。なぜもっと自分を愛することができない。この菊は椎葉が揃えたものだ。その布は千代菊がくれたものだろう。朝からホテルに届けてくれたふくちゃんとかいう娘も、君がその瑠璃色を輝かせてくれると思ったからこそ、いろいろしてくれたのに。椎葉にしても…ずいぶんと調子のいい腰巾着に見えるかも知れないが、次の世代にさまざまなことを伝えるためのセミナーを、精力的に行っている男だ。京の伝統の後継者を育てるのにも、非常に熱心な彼の好意を、君は目の前で踏みにじったんだよ。」
「…」
「まあそれはいい。あの、棺桶に両足つっこんだようなじいさまが、君を侮辱したのは確かだ。だが、君はあそこで、本当に自信があるのなら、自分の作品を否定すべきではなかった。君のために命を断たれた花が、残った命を懸命に咲いていた。その命を君は、自分の我儘のために握り潰したんだ。花を愛していたら、決してできなかったはずだね。」
「…」
「花を、自分を愛さなかったら、人を感動させることなどできるはずがない。わかっていると思っていた。君にはわかっていると思っていたが、さっき君のしたことは、私や椎葉や会長ではなく、花と君自身とを、侮辱する行為だった。そう、それから千代菊さんもだな。」
「…」
「この花は、その償いだ。君はきちんとそれを生けた。だからこれでいい。今夜のことはもう…」
「やりなおします!」
突然君は言った。
「元に、戻します、これ。さっきの、さっきまでの形に。あれは、俺が創った平等院の秋なんです。この先もずっとここにある…」
「うぬぼれるな。」
鬼になって私は言った。
「君が、折ったんだ。長い茎も豊かな花弁も。こんなに短くしてしまった花で、どうやってあれを生け直す。新しい花材を手配するか? おそらく君のせいであの年寄りに…彼の首を切ることなど朝飯前の年寄りにさんざ嫌味を言われた椎葉に頼んでか? 何時だと思っている。こんな時間まで開いている花屋があるか。渋谷新宿ならいざ知らずな。」
時計の針はもう十一時を過ぎていた。君はぎゅっと唇を噛んだ。
「明日になったら、君のこれはもうここにはないかも知れない。それを決めるのは君でも私でもない。椎葉とそれから、見にくる人たちだ。」
私は君の両肩を掌で押し包んだ。
「これでいい。君は借りは作っていない。これでいいんだ。よくやったよ。」
君はうなだれた。下唇が歯から逃れて、ぷるんと震えた。
「さ、先に外へ出て、タクシーを拾っててくれるか。すぐ追いかけるよ。」
私は君に言い、椎葉のいる事務室へ向かった。ノックして中に入り、これで帰ると言うと、
「そうどすか。まあ、気ぃつけて。」
疲れているのか腹立たしいのか、彼は笑わなかった。
「生け直した新しい作品が、用意してくれたスペースに置いてあります。どかすも捨てるも、おまかせします。いろいろご迷惑をおかけしました。本当にありがとう。今度東京へいらした時は、必ずお声をかけて下さい。」
私は出口へ向かった。椎葉もまた、大変な立場にいるのだろうなと私は同情した。化石のような有力者どもを口説きつつ、次世代の掘り起こしに骨身を削っている。京の地にあってその活動の難しさは、東京人の想像を超えるだろう。
その18へ
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